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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズの足跡を訪ねて~リヴァプールとロンドン一人旅日記~(その5) 敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインの登場

さて、ビートルズは、ハンブルクで散々な目に遭ってリヴァプールへ帰国しました。せっかく稼いだ金も帰国の費用で使い果たしてしまい、ただただ疲労感と喪失感が彼らを覆っていました。生意気なジョンですら、自宅に引きこもってしばらくは誰とも連絡を取らず、もう音楽をやめようかとまで思い詰めていたんです。しかし、彼らはまだこの時点では気が付いていなかったのです。彼らがハンブルクの過酷な環境で鍛え上げられて、テクニックの上でもパフォーマンスの上でも格段に上達し、既に怪物に変身していたことを。

 

暫くして、失意から立ち直った彼らは、元のカスバ・コーヒー・クラブで演奏を再開しました。その演奏を聴いた観客は熱狂しました。明らかにハンブルクへ行く前の彼らとは完全に別物になっていたんです。やがて、マネージャーのアラン・ウィリアムズは、ダンスホール巡業の司会をやっていたボブ・ウーラーを彼らに紹介しました。それがこの人です。彼は、あちこちのクラブでのビートルズの演奏をブッキングしました。彼は後にビートルズを世に送り出した伝説のキャバーン・クラブの館内DJになっています。

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彼は、初仕事のリザーランド・タウン・ホールでのショーのために、既に刷り上がった広告ポスターに「ハンブルグ直送 ザ・ビートルズ!」というコピーを付け加えました。「Beatles」なんてそもそも造語で英語にはありませんし、その発音で何となくドイツ人のグループっぽく聞こえたのでしょう。まあ、この才覚もなかなかのもんではあります。実際、彼らが完全にドイツ人のバンドと勘違いし、流暢な英語を話すのでびっくりした観客が大勢いたらしいです(笑)

 

そして、彼らが、リトル・リチャードのカヴァー曲「Long Tall Sally」を演奏し始めると、観客はそのワイルドでパワフルな演奏に衝撃を受け、たちまち熱狂します。彼らは完全に観客を虜にしました。この曲は、レコードデビュー後に正式にアルバムに挿入され、その後のライブでも何度も演奏される人気ナンバーですが、この時点でもう十分に仕上がっていたんでしょうね。これは他のカヴァー曲もそうですが、彼らは、完全にオリジナルを超えて、あたかも自分達のオリジナルであるかのようにしてしまっています

 

それから彼らは、いくつものクラブで演奏します。その度に熱狂の渦に飲み込まれました。流石に彼らも、この辺りで「あれ?オレたち結構いけてるんじゃね?」と手ごたえを感じ始めたようです。観客の反応が明らかに今までとは違うんですから。彼らが演奏しだすと、女の子たちが一斉にステージに群がってきて「キャー!」と叫びだしたのはこの頃からです。ダンスを踊るためのホールでこんなことになるなんて異常な事態でしたが、これが後のビートルズ狂騒曲」の序章です。ここから彼らの名声がリヴァプール中を駆け巡ることになります。

 

前回、ビートルズがトニー・シェリダンのレコード「マイ・ボニー」にバックバンドとして参加したと書きましたが、このことがビートルズ伝説的敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインとの運命的な出会いをもたらします。さて、ここでいよいよブライアン・エプスタインの登場です。これは幼少期の彼です。彼は、リヴァプールの家具商の長男として生まれました。彼は、元々クラシックが好きだったんです。そんな彼がまさかロックバンドのマネージャーになるなんて(笑)

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そして、これがマネージャーになった頃の彼です。「ようこそミスターエプスタイン」と書いてありますね。

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ビートルズ・ファンで彼の名を知らない人はいません。それほど敏腕マネージャーでした。彼がいなければ、ビートルズが世に出たかどうかわかりません。せいぜいリヴァプールで有名だった1バンドに過ぎなかったかもしれません。「5人目のビートル」と呼ぶ人もいます。それほど彼の存在は大きかったのです。

 

彼の祖父アイザックリトアニアの出身で、イギリスに移住していました。彼は、リヴァプールで実家の家具商で働く傍ら、息子のハリーとともにレコード店を経営していました。これは、当時、リヴァプールでブライアンが手伝っていた家具店で、その隣にレコード店を開きました。

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ブライアンは、1934年9月19日、リヴァプールで生まれ、第二次世界大戦中は疎開していました。服飾デザイナーになりたくて学校を中途退学してしまいますが、父親に反対され、実家の家具商を手伝うことになりました。一時徴兵され軍隊に入隊しますが、除隊し、家具店の一角のレコード店で働き始めました。父親が開店した「NEMS」という電気製品を販売する店で、レコード部門の責任者になります。また、地元音楽誌の「マージー・ビート」の第3号から記事を掲載するようになります。また、彼は、俳優を志してロンドンの王立演劇学校に入学したこともありましたが、これも中途退学してしまいます。どうもこの辺りのブライアンはパッとしませんね。祖父、父親と商売人でしたから、DNAからしてやはり商売のほうが向いていたんでしょう。

 

そのまま過ごしていれば、彼は、リヴァプールの一商店主として生涯を終えていたでしょう。しかし、そんな彼に転機が訪れます。ある日、一人の青年が興奮して、「マイ・ボニー」のバックバンドをやっているビートルズのレコードがないかと店に来たんです。それで彼はビートルズの存在を知り、興味をそそられ、彼らの演奏を聴きに友人とキャヴァーン・クラブに向かいました。1961年11月9日のことでした。そして、忽ち彼らの魅力に取り憑かれ、すぐにマネージャーになることを申し出たというのが、彼の後日談です。公式のガイドブックにもそう書かれています。

 

私もこの話を長年信じてたんですが、今ではどうも彼が「ビートルズ伝説」を作るために少し話を「盛った」のではないかと言われています。というのも、彼は地元の音楽新聞「マージー・ビート」のコラムの第3号に記事を提供しており、その第2号には既にビートルズの特集記事がトップで掲載されていました。コラムを書いていたほど出版に関わっていた彼がそれを読んでないはずはないですよね?それに彼が経営していたレコード店ビートルズが演奏していたキャヴァーン・クラブとは目と鼻の先。当時、もう地元では知らない人がいないほどの人気を誇っていた彼らのことを知らないはずがありません。つまり、「衝撃的な出会い」を演出することで、サクセス・ストーリーを盛り上げようとしたのではないかということです。これが事実だとすると、ちょっとガッカリですけどね。本人が他界しているので、真相は分かりませんがf^_^;

 

また、ブライアン自身は元々クラシックが好きで、ビート・ミュージックには興味がありませんでした。しかし、マージー・ビート誌に記事を寄稿するようになり、何か記事のネタはないかと探すうちに、ビート・ミュージックにも興味を持つようになり、キャヴァーン・クラブに出向いてビートルズの存在を知ったという説もあります。何が真実かはわかりません(^_^;)これもビートルズにまつわる多くの謎の一つですね。

 

ブライアンとビートルズの出会いを再現したフィルムです。これを観れば、彼が一発で彼らの虜になった経緯が良く分かります。サウンドはもちろんなんですが、ハンブルクで鍛えられた彼らは、ステージでどうやったら観客を楽しませることができるか、良く分かっていたんですね。

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これがマージー・ビート紙の1962年4月18日号です。ビートルズが人気投票で一位になったと一面トップで報じています。この頃は、まだ黒の革ジャンですね(笑)

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そして、当時のマージー・ビート紙の編集デスクを復刻したのがこれです。

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まあ、何にせよ、彼がビートルズというダイヤモンドの原石を最初に発掘し、掘り出したことは紛れもない事実であり、彼がビートルズの才能を見抜いて献身的な努力を続け、彼らを歴史に残るスーパー・スターに押し上げた最大の功労者であることは、動かぬ事実です。

(続く)