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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズの足跡を訪ねて〜リヴァプールとロンドン一人旅日記〜(その6) ブライアン・エプスタインの戦略

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1 ブライアン・エプスタインにマネージャーを引き継いだ

ここまでこの記事を読んでいただいた方で、(その4)の記事も読んでいただいている方は、「あれ、ビートルズのマネージャーって、アラン・ウィリアムズじゃなかったけ?」と思われるかもしれません。そう、その通りです。確かに、彼は、ビートルズのマネージャーを3年程続けましたが、その地位をブライアンに譲渡してしまったのです。その理由は、ビートルズがマネージャーの契約料金を滞納したから」というものです。それもたった9ポンドですよ‼ 

今の貨幣価値に換算すると5万円位でしょうか。信じられませんよね?僅かの金のために「金の卵」を手放してしまったんですから。そのため、彼は、「たった9ポンドでビートルズを手放した男」という有難くない称号をもらうことになります。リヴァプールの「ザ・ビートルズ・ストーリー」の中でも、「ビートルズになれなかった可哀想な人達」というコーナーで紹介されていますf^_^;
 

2 マネージャーとしての実力が不足していた

彼は、後年、回顧録で「まさかビートルズがあれ程売れるとは予想できなかった。当時、リヴァプールには似たようなバンドが300はあったんだから。彼らがエリザベス女王からMBE勲章を受賞するシーンをテレビで見たときは、思わずソファのクッションをテレビに投げ付けたよ。」と語っています。そりゃ、そうでしょうね。逃がした魚が余りにも大き過ぎましたから。でも、ビートルズを最初に見つけ出したのは自分だという自慢には一応なりましたが(笑) 
じゃあ、彼は不運だったのでしょうか?私は違うと思います。「彼にはビートルズをスーパースターにするだけの実力がなかった」んです。そこがブライアンとの決定的な違いです。だって、彼は、リヴァプール時代とハンブルク時代のビートルズの両方をずっと見てたんですよ?その間にメキメキと実力を付けていった彼らの変貌に全く気が付かなかったんですから。どこを見てたんだと言いたくなります。 
それにブライアンは、マネージャーの域を超えてプロデューサーとしての実力も兼ね備えていました。彼のプロデュースが無ければ、ビートルズはあれ程成功しなかったでしょう。ビートルズがアランと手を切ったのは、むしろ結果的に正解だったと言えます。今の芸能界でもそうですけど、アーティストの実力はもとより、事務所の力も売れるためには大きいですよね?ブライアンは、すでにあの当時、プロデュースの重要性に気がついていたと言えると思います。彼の実家は家具商でしたし、彼自身も実家の仕事を継いでいましたから、元々商売人としての資質は備わっていたんでしょうね。 
アラン・ウィリアムズは、ブライアンがビートルズと契約することを知り、「彼らは金に汚いから気を付けろ」とアドバイスしたと言われています。そのせいかどうかは分かりませんが、1962年1月24日にピート・ベストの家で、ブライアンが5年のマネージャー契約をするときに、ビートルズがサインしたのに、彼はあえてサインをしませんでした。その理由についても、いろいろな憶測が流れていて、どれが真相かは今となっては良くわかりません。契約した場所もピートの家ではなかったという説もあります。ともかく、ビートルズには「謎」が多いんです(^^ゞ
 

3 とうやったらビートルズは売れるか?

何はともあれ、ブライアンは、ビートルズの「二代目」マネージャーとなりました。そして、彼の事務所でメンバーと初めての打合せをすることになりました。ところが、あろうことかそんな大事な時にポールが遅刻したんです。ブライアンがポールの自宅に電話すると、彼は「ああ〜、今、ちょうど起きてシャワーを浴びているところです。」とのんびりした返事が返って来ました。ブライアンは、「シャワーだと⁉︎こんな大事な時に何をしてるんだ。早く来い‼︎」と怒鳴り、電話を切った後も怒りが収まらず、「全く何を考えてるんだ、アイツは?」とブツブツボヤいていました。すると、ジョージが「ああ〜、遅刻はしても清潔にはなってると思いますよ。」とジョークを飛ばしました。この後にも発揮されますが、彼らのユーモアのセンスもなかなかのもんです(笑)
それはともかく、ブライアンは「どうやったら彼らをメジャーにできるか?」そのための戦略を必死で考え、実行しました。この時点でもうマネージャーの域を超えてますよね。普通、マネージャーはあくまで裏方でスケジュールを組むのがメインの仕事であり、売り出し方まで企画することはありません。完全にプロデューサーとしての役割を担っています。
 

4 イメージ・アップ戦略

そこでまず取り組んだのが、彼らのイメージ・アップです。当時は「ロックンローラー」=「不良」というイメージが強く、このままでは一部のファンには受けても、大衆には受け入れられません。 そこで、「優等生」としてのイメージを植え付ける戦略に出ました。不良っぽいリーゼントから可愛いマッシュルーム・カットへ、黒の皮ジャンにジーンズからオシャレなスーツとネクタイへ、スタイルをガラッと変えました。スーツもファッショナブルなイタリアン・スタイルです。これはキャバーン・クラブ時代の彼らです。

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 それがガラッと変わってこのスーツを着ます。f:id:abbeyroad0310:20150922002409j:plain

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流石にスーツの着用には彼らも抵抗したようです。まあ、ポールは比較的早く受け入れたんですが、ジョンは結構抵抗しました。しかし、ブライアンの粘り強い説得に根負けし、「分かりましたよ。それで売れるんなら、スーツだって何だって着ますよ。」と受け入れました。彼らも売れるためにはサウンドだけじゃダメだと、ハンブルクの経験で気が付いていたんでしょう

 

5 モップトップヘアは導入済みだった

もっとも、ビートルズの代名詞であるマッシュルーム・カットですが、これはブライアンの発想ではなく、既にジョンとポールがパリ旅行をしたときに、このヘア・スタイルを取り入れていたんです。 

彼らは、1961年9月30日に2人だけでパリまで旅行をしました。その時にハンブルクで会ったことのあるユルゲン・フォルマーという写真家に偶然再会することになりました。初めて会った時に彼の洗練されたファッション・センスや考え方に衝撃を受け、かっこいいと思っていたんです。

その4でも書きましたが、彼は、写真家仲間のアストリッド・キルヒャースチュアート・サトクリフに奨めた「モップ・トップ」というヘア・スタイルにしていました。前髪を額に垂らした、床を掃除する時に使うモップみたいなヘアということですね。ジョンとボールは、彼のヘア・スタイルを気に入り、同じスタイルにするよう、彼にカットを依頼しました。 

ヘア・スタイルを変えるというのは、結構勇気がいるものですが、パリと言う異国の地に来ていたので気分がハイになっていたせいもあるかもしれません。ただ、完全に彼と同じスタイルにはなりませんでした。でも、それが却って後のビートルズ・スタイルになったのです。彼らは、そのヘア・スタイルを気に入り、そのままリヴァプールまで帰りました。結局、このスタイルで生活を続けることになります。そのうちジョージもそれに倣い、リンゴも同じスタイルにしました。 

これは、1961年11月に、ファンの女の子たちと一緒に撮った写真です。相変わらず黒の革ジャンですが、リーゼントはやめています。中央の一番上にジョン、その下にポール、右隣にジョージ、ポールの左隣で顔が半分隠れてますがピートがいます。彼だけは最後までリーゼントを止めませんでした。このことが後に悲劇を生みます。

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後年、ポールは、「あのヘア・スタイルが僕たちに成功をもたらした。特にアメリカでのね。あんなユニークなスタイルをしているヤツは他にいなかったから。ひょっとしたら、サウンドよりそっちの方が受けたのかもしれない。」と語っています。それを裏付けるように、初めてアメリカでコンサートを開いた時のニューヨーク・タイムズ紙も「彼らのヘアが揺れるだけで観客が熱狂した。」という記事を書いています。

6 ステージでも品行方正なスタイルに

また、ブライアンは、コスチュームだけではなく、ステージ上での彼らの態度も改善する必要があると考えました。彼らは、ステージ上で飲食し、タバコをふかし、気に入らないと演奏を途中で止めたり、観客に背を向けたりしました。それで、ステージ上での飲食や喫煙を禁止し、1曲の演奏が終わる度に客席に向かってお辞儀するというように改めさせました。

ロックバンドが客席に向かってお辞儀するなんてそれまで誰もしていませんでしたから、これはかなりのインパクトでした。「ミュージシャンにも楽曲だけではなく、イメージも含めた総合的な戦略が重要だ。」という業界の常識を初めて確立した人かもしれません。彼のこのイメージ戦略は大成功でした。

あ、そうそう、彼らはバンドを始めた頃に、下の写真の「ヘッシーズ楽器店」で楽器を購入しましたが、まだツケが残っていたんです。彼らが楽器店に溜めてた200ポンド程のツケを払ったのもブライアンです。っていうか、それが彼のマネージャーとしての初仕事でした(笑)今の貨幣価値に換算すると1000ポンド(50万円?)位ですかね?結構な金額ですが、彼は、将来の投資と割り切ったんでしょう。

この店は、フランク・ヘッシーがオーナーで、ジム・グレティが仕切っていました。安い値段で売ってくれたので若者たちに人気がありました。1957年にジョンがミミ伯母さんに生まれて初めてギターを買ってもらったのもこの店です。グレティは、ギターを買ってくれたお客さんに基本のスリー・コードをサービスで教えていましたが、ジョンに教えたかどうかは分かりません。 

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それから、「客が物凄く増えてるのに俺たちのギャラは僅かしか上がっていない。」とメンバーから文句が出たので、ブライアンはマックフォールと交渉し、3ポンド15シリングから10ポンドまでギャラを引き上げさせました。 

いつの時代もマネージャーは大変ですね(^^ゞ

(続く)

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