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★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズの足跡を訪ねて~リヴァプールとロンドン一人旅日記~ (その17) 初の海外ツアー

ビートルズ ポップス 洋楽

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ビートルズは、1963年9月15日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで公演を行いました。このホールは格式の高いホールで、それまでにも沢山のコンサートや演劇が行われてきました。イギリスのアーティストにとって、ここで講演をすることは、まさに夢のようなものでした。彼らは、何とローリング・ストーンズとともにロイヤル・アルバート・ホールをバックにフォトセッションを行ったのです。最大のライバルとなるこの2つのグループが一緒に仕事をしたのはこれが最初で最後です。

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ポールはこう語っています。「アルバート・ホールをバックに階段でタイトなズボンを履いて、ローリング・ストーンズと一緒に写真を撮ったんだ。これだ!ロンドンだ!アルバート・ホールだ!自分が神になったような気がしたよ。」もっとも、彼らがここへ出演したのはこれが初めてではなく、1963年4月18日にBBCが放映したライブでトリを勤めたのです。そこで、ポールは、後に恋人になる女優のジェーン・アッシャーと出会います。彼女も撮影でここに来て、ビートルズの公演に歓声を上げていたんです。その頃のジェーンです。なるほど、美人ですね。

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ビートルズは、1963年に国内ツアーで不動の地位を確立し、いよいよ海外ツアーを行います。しかし、本格的なツアーを開始する前の1963年9月24日に彼らは、スウェーデンストックホルムを訪れ、国営のラジオ番組の収録を行いました。彼らは、朝にストックホルムを観光したかったのですが、もうこの頃にはスウェーデンにも数多くのビートルズ・ファン(ビートルマニア)がいて、あっという間に数百人のファンに囲まれてしまいます。辛うじて整然とした記者会見を開くことができました。 

 

ラジオの収録は、10代の女の子たちがひしめきあっている目の前で行われました。 100枚の入場券はすぐに無くなりましたが、その倍以上の観衆が一目彼らを見たいと集まっていました。スタジオ・エンジニアのハンス・ウェストマンは、ビートルズのサウンドの収録に苦労しました。リハーサルとサウンドチェックをちゃんとしていなかったからです。彼らが持ち込んだイギリスのケーブルをスウェーデンのコンセントに合うように変換していることにも問題がありました。イギリスとスウェーデンでは、コンセントの規格が違いましたから。

 

散々苦労して収録を終えましたが、ウェストマンは後にこう語っています。「僕がそれまでにやった中で最も劣悪な仕上がりだった。それで、僕はビートルズに謝罪したんだ。でも、彼ら自身はとても喜んでたんだよ。僕は、音の高さをコントロールし切れなかった。彼らがプレーし始めても、アンプがちゃんと作動しなかったんだ。それまで僕がやった中で最高レベルのレコーディングだったけど、聴いた中では最悪にサウンドが歪んでた。今になって、彼らがとても喜んでいた理由が分かったよ。彼らは、すでに1963年の時点で特別なサウンドを作るためにワザと歪んだサウンドを使い始めていたんだ。」後にビートルズは、アイドルから専門家から絶賛される大人のアーティストへと変貌を遂げるのですが、その片鱗がもうこの時点で垣間見えるんですね。いやはや、凄いバンドです。

 

初の本格的な海外ツアーは、1963年10月24日〜29日にスウェーデンストックホルムで開催されました。もっとも、彼らは、既にスウェーデンではかなり売れていたにも関わらず、この時は二番手扱いでした。

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1964年1月16日にフランスで初の公演を行いました。ジョン、ポール、ジョージの3人は、前日の夕方にロンドン空港からパリ郊外のル・ブルジェ空港まで飛びました。リンゴは、リヴァプール空港(2002年からリヴァプールジョン・レノン空港に改名しています)が霧で覆われて飛ぶことができなかったので、ロンドンでは他の3人に合流できませんでした。しかし、次の日には合流し、ベルサイユのシラノ劇場のウォームアップ・ショーには間に合いました。

 
ジョン、ポールとジョージがパリに到着したとき、彼らは60人のファンとフランスの新聞記者から迎えられました。宿泊先のジョルジュ・サンクホテル(一流ホテルです!ハンブルク巡業の時とは大違い)に到着すると、もっと大勢のファンが彼らを待っていました。これはホテルのスイートルームではしゃぐ4人です。まるで修学旅行で枕投げをしてる高校生ですね(笑)っていうか、イギリス人でも枕投げやるんだ!

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流石にまだイギリス程ビートルマニアで溢れかえるということはありませんでしたが、ファンたちは、彼らが滞在する間ずっとホテルで待っていました。その晩、彼らが次の3週間で演奏することになっていたホテル、オリンピア劇場の責任者に会い、オデオン・レコード(フランスにおけるビートルズのレーベル)の代表にも会いました。ツアーの最中にも関わらず、ジョンとポールは、沢山の曲を作らないといけませんでした。というのも彼らが後に初めて主演することになる映画のために6曲、それと、ビリー・J・クレイマー、トミー・クイックリーという歌手に提供するための曲です。彼らは、ホテルのスイートルームに籠り、用意されたピアノに向かって曲作りを始めました。いやはや、この二人はゆっくりすることも許されなかったんですね。可哀想にf^_^;後にジョンが「Help!(ヘルプ)」を制作したのも無理はありません。

 

その間、ジョージは、デイリーエクスプレスの記者であったデレク・テイラーと連れだってクラブ・イヴに行きました。彼は、ジョージのパリツアーに関するコラムをジョージの名前で書いてました(今で言うところのゴーストライターですね(笑))。テイラーはそれ以降、ビートルズに関する記事を続々と書き続けることになります。ある時は、マネージャーのブライアン・エプスタイン、後にビートルズによって設立されるアップル・レコード、そして、1970年以後ソロになったメンバーの記事も書きました。

 
パリのオリンピア劇場で18日間コンサートをやる前に、ビートルズは、ヴェルサイユのシラノ劇場で、ウォームアップ・ショーを行いました。彼らがイギリスの記者と一緒に昼下がりのシャンゼリゼ通りを歩いていると、何人かのめざとい観光客に見つかってしまったので、すぐにホテルへ戻りました。シラノ劇場では、2000人の観衆の前でショーをやりました。まだ、単独ライブではなく、他のアーティストとの共演でした。ビートルズともに出演したのは、フランスの売れっ子女性歌手シルヴィー・ヴァルタンとアメリカの歌手トリーニ・ロペスでした。ショーは午後9時に始まって、真夜中過ぎに終わりました。
 
 
ビートルズは、美人のパリ・ジェンヌがたくさん来てくれると期待していたようですが、殆どが男性ファンでした(笑)ま、彼らは、シルヴィー・ヴァルタン目当てですから、当然と言えば当然ですが。そして、慣れっこになっていたいつもの絶叫が少ない分、彼らの演奏は良く聴こえました。1964年1月16日から2月4日まで、毎日2回、時には3回、ビートルズはパリのオリンピア劇場でコンサートを行いました。単独ライブではなかったものの、その頃既に売れっ子になっていたシルヴィー・ヴァルタンやトリーニ・ロペスと同格に扱われ、トリで演奏しました。彼らは、その間、1月21日と28日の2日休んだだけです。これがシルヴィー・ヴァルタンです。

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シルヴィー・ヴァルタンといっても、若い人は知らないでしょうね(^^ゞでも、当時日本の一流服飾メーカー「レナウン」のTVCMソングを歌ってたんですよ。「ワンサカ娘」っていうんですが、小林亜星が作曲したんです。ん?小林亜星も知らない?「寺内貫太郎一家」に主演してた人です。それでも分からない?日立グループのCMソングを作曲した人です。ほら、「この木何の木気になる木、見たこともない木ですから…」って曲ですよ。後「魔法使いサリー」の「マハリク マハリタ ヤンバラヤンヤンヤン…」ってのも。あ、すいません、ビートルズから話題がそれちゃいましたf^_^;

 
16日に、ビートルズは、オリンピア・ミュージックホールのマチネー・ショーの満員の観衆の前で演奏しました。ここもまた期待はずれで集まったのは若い女の子ではなく、年配の人が多かったんです(笑)オリンピアは格式高いミュージックホールでしたから、観衆はみんなイヴニングドレスを着ていました。ただ、お行儀が良過ぎてビートルズにはいくらか不満が残りました。2回目の公演が始まりましたが、ホールに電気容量の大きな最新のアンプのための設備が無かったことと、劇場の関係者が勝手に機材を持ち込んでいたために、電気容量がオーヴァーして会場のヒューズが3回飛んで演奏が中断しました。技術の発達した今なら考えられませんが、当時はそんな大音量は出さないのが普通でしたから、設備が貧弱だったんですね。
 

(参照文献)

THE BEATLES BIBLE

(続く)