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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズの足跡を訪ねて~リヴァプールとロンドン一人旅日記~ (その20) アメリカのドアノブに手を掛ける

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1963年ビートルズはイギリスを制覇しましたが、巨大な市場であるアメリカでの成功はまだでした。今程通信手段が発達していませんでしたから、流行するのにも時間が掛かったんです。それに当時の世界のポピュラー音楽市場はアメリカ一色で、イギリス音楽が入り込む余地はありませんでした。何人ものミュージシャンが挑戦しましたが、誰一人としてその重いドアを開くことはできなかったのです。しかし、ビートルズ「I want to hold your hand (アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド)(邦題:抱きしめたい)」で、ついにそのドアノブに手を掛けました。

  

この曲もジョンとポールの共作です。当時、ポールの恋人だったジェーン・アッシャーの実家で作りました。ジョンは、「僕とポールは、額と額を突き合わせて沢山の曲を作ったんだ。この曲のコードを作った時のことは覚えてるよ。ジェーン・アッシャーの実家の地下室にあったピアノを同時に弾きながら、歌詞(Aメロ)を思い付いた。それにポールがコードを付けた。僕は思わず『それだ!』『そいつをもう一回やってくれ。』って言ったよ。この頃、僕達は鼻を突き合わせて曲を作ってたものさ。」と語っています。

 

また、ポールは、「『プリーズ・プリーズ・ミー』も『シー・ラヴズ・ユー』もイギリスではヒットしたけど、アメリカではダメだった。『アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド』でやっとアメリカに受け入れられたんだ。』」と語っています。

 
この曲は、ビートルマニアが増殖するキッカケとなった記念すべき「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム」へ出演した4日後にレコーディングされました。イギリスでは、シングルだけがリリースされ、その一週間前にリリースされたセカンドアルバム「With The Beatles(ウィズ・ザ・ビートルズ)」には収録されませんでした。この曲は、1963年11月29日にリリースされました。
 
 
「シー・ラヴズ・ユー」がミリオンセラーとなったことにより、次の曲が注目される中でこの曲はリリースされ、何と予約だけでミリオンセラーになりました。この曲は、12月14日にそれまでチャートNo. 1だった「シー・ラヴズ・ユー」と入れ替わりにNo. 1となりました。「シー・ラヴズ・ユー」の時と同じく、同じアーティストの曲同士でNo.1が入れ替わる現象が繰り返されたのは、これが初めてです。そして、1963年のクリスマスからNo. 1に5週間留まり、更に15週間チャートに留まり続けました。そして、ビートルマニアがピークを迎えていた1964年5月16日に再びチャートNo. 1に返り咲きます。
 
 
ブライアンもビートルズアメリカ進出を熱望していましたが、まずは彼らの存在をアメリカ人に知ってもらわなければなりません。それで、ブライアンは、アメリカへ飛んでマスコミへビートルズを売り込みにかかります。イギリスを席巻した「ビートルマニア現象」を携えて。やはり、アメリカのマスコミは、彼らがイギリス王室での御前コンサートを開いたことで関心を抱いたようです。
 
 
多くの新聞がこぞって報道しました。ワシントンポストは、「何千人ものイギリス人が暴動を起こした」との見出しで「リヴァプールサウンドが狂乱を巻き起こした」という記事を掲載しました。タイムは、「新たな狂乱」との見出しで、ビートルマニアの熱狂ぶりを鮮やかにかつ詳細に記載しました。同じ週にNBCCBSとABCのアメリカ3大ネットワークは、ボーンマスウィンター・ガーデン・シアターへビートルズを取材するために取材班を派遣しました。 
 
 
まだあります。ヴァラエティは「ビートルがイギリスをかじった(カブトムシに引っかけてるんですね)」、ニューヨーク・タイムズは「イギリス人、ビートルマニアに屈する」と見出しを付け、ライフは、マーガレット王女に謁見するビートルズを掲載しました。ただし、この頃のアメリカの報道は、見出しを見てもわかる通り、概して批判的な論調でした。「一体、イギリスの若者たちは何をトチ狂ってるんだ?」という冷ややかなものです。マスコミの関心は、音楽よりも彼らのヘアスタイルだったり、女の子たちの熱狂ぶりの方にありました。
 
 
1963年11月18日に、アメリNBCテレビがニュースで初めてビートルズについて報道しました。それは、イギリスにおけるビートルズ現象についてのエドウィン・ニューマンのレポートを「ハントリー・ブリンクリー・レポート」という報道番組が放送したものです。何と動画じゃないんですね(^_^;)白黒写真にニューマンのナレーションが付けられています。このテープは、NBCにはもはや保管されていませんでしたが、アメリカ議会図書館で保管されていたのが最近発見されたんです。

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彼らがヨーロッパ・ツアーを終えてヒースロー空港へ帰ってきた時の女の子たちの嬌声が流れてきます。そして、ナレーションが続き、「フロム・ミー・トゥ・ユー」が流れます。4分強の放映時間でしたが、数百万人が観たはずです。
 
 
この放送は、イギリスで起きたビートルズにまつわる事実を、コメント無しで客観的に報道したものです。3か月後に放送されたエドサリヴァン・ショーで数千万人が彼らを観るまでは、アメリカ人は、まだ彼らのことを殆ど知らなかったのです。この頃の大多数のアメリカ人の反応は、「ふ〜ん、イギリスではこんなグループが流行ってるんだ。」位なもんだったでしょうね。どこの国もそうかもしれませんが、まず国内問題が最優先で、国外の問題にはあまり関心が向きません。通信手段が今ほど発達していない1963年ならなおさらです。
 
 
イギリスの大人たちは冷ややかでしたが、それはアメリカも同様でした。それがよく表れているのが次の報道です。NBCテレビが放送した3日後の11月21日に、CBSニュースのロンドン支局長だったアレクサンダー・ケンドリックが、イギリスにおけるビートルズの成功についてニュース記事とインタビューをまとめ、アメリカで報道しましたしかし、この時の扱いは酷いの一言です(*`ェ´*)まあ、当時の一般の大人の代表的な態度と割り切れば良いんでしょうけど、動画サイトで見てみて下さい。
 
 
まず、イギリスのボーンマスの海岸のライヴで「シー・ ラヴズ・ユー」を演奏しているビートルズの姿が映し出されます。それに続いて、ケンドリックの論評が始まります。彼は、従軍記者として第2次大戦中にソ連戦線を取材していましたから、軍事問題に詳しく音楽にはあまり詳しくありませんでした。しかし、それを差し引いてもビートルズへの態度は極めて無礼なものでした。
 
 
いかにも軽蔑した顔付きで、「 yeah、yeah、yeah (ビートルズのことを完全にバカにした言い方です!)、これはビートルズのことを示した言葉ですが、ビートル・ランドで広く知られています。イギリスの若者の間、特に10代の女性達にビートルマニアという社会現象が広がっています。」そう言うと、ビートルズへのファンレターの束を無造作に机の上にバサッと投げ落とし、極めて冷淡な口調で「ファン・クラブの中には文字を書ける人もいるようです。」とバッサリ切り捨てました。あたかもファンの頭が悪いかのような態度です。
 
 
しかも、ファン・クラブの女性スタッフと思しき人が、ビニール袋にドッサリ入れられたファン・レターを床にブチまけているシーンを放映しています。毎日、大量のファン・レターが来るんですから、狭い事務所の中で丁寧に扱うのは難しいことが分かっているのに、あえてそういうシーンを見せて、いかにもファン・クラブがファンをぞんざいに扱っているかのように視聴者に印象付けようとする意図が見えます(*`ェ´*)
 
 
そして、熱狂的なビートルマニアが彼らを追いかけているシーンや、彼らが車から警備員に囲まれて降りるシーン、ファンがレコードを買っているシーンなどが映し出され、一連のビートルマニア現象について彼の「高尚な」分析が始まります。
 
 
ビートルズは、単に最新の流行に憑りつかれる思春期の若者の憧れの対象であるとか、現代的な歌やダンスに狂う種族の象徴であるだけではありません。社会学は、彼らの存在をもっと深く捉えています。ある人は、彼らがプロレタリアート(もはや死語ですが、共産主義を支持する労働者階級のことですね。アメリカ人が最も忌み嫌う人々です)の真実の声であると、またある人は、エルヴィス・プレスリーに代表されるアメリカのポップ音楽に対抗してそれをイギリス風に模倣したものであると、あるいは反抗的なイギリスの若者の代表であるなどと主張しています。」と解説しています。悪意に満ちてますね。彼らがすごい人気でレコードが飛ぶように売れている事実を目の当たりにしながらです。
 
 
ヘアスタイルについても、「ディッシュ・モップ(皿を洗うモップ)・ヘアスタイル」だとか「シープドッグ(毛がふさふさの犬)みたい」だとかって言ってます。だから〜、それが「モップ・トップ」なんだよ( *`ω´)そして、完全に見下した態度で「ビートルズは単なる幻想に過ぎません。彼らは、ヒーロー不在の20世紀の象徴といえます。なぜなら、彼らには音楽性も無く、髪も切らず、運もないからです。」などと散々にこき下ろします。そして、再度ファンレターの束を掴むと、「当分の間、yeah yeah yeahは、女の子たちを熱狂させ、しこたま金を稼ぐのでしょう。以上、ビートル・ランドからアレクサンダー・ケンドリックがお伝えしました。」と締めくくりました。
 
 
私がこのVTRで彼がファンレターの束を持っているのを初めて見た時、「EMIかファン・クラブから借りたんだろうな。」と思いました。そう思いますよね、フツー?でも、それにしては事務所のスタッフらしき女性が、ファンレターの束を床にぶちまけているシーンを放映してるのはおかしいなと思ったんです。それって、明らかに事務所の内部で収録してたってことですよね?そうです、信じられないことに、彼は、何とこのレポートをビートルズのファン・クラブの事務所内で収録してたんですΣ(|||▽||| )いやいや、ありえないっしょ!?
 
 
こともあろうに、ファン・クラブの事務所でファンレターをそんなぞんざいに扱います?それも、レポーターがビートルズに対する悪口雑言を並べながらですよ?スキャンダルを起こした芸能人の事務所じゃないんだから。いくら、イギリス国内では放映されず、アメリカで放映されるとはいえ、事務所の責任者はその様子を黙って見てたんでしょうか?スタッフがファンレターの束を床にぶちまけるところなんか良く撮影させましたね。あまりにも能天気というか、緩すぎっしょ(;'∀')まあ、忙しすぎてマスコミ対策まで手が回らなかったのかもしれません。それにEMIじゃなくファンクラブですから、脇が甘くてもやむを得なかったかも。
 
 
どうやら彼は、「こんなくだらない連中に熱狂するなんて、イギリスも落ちたものだ。アメリカの若者は決してそんなバカではない。」とイギリスの若者達の熱狂ぶりを苦々しく思っていたようです。あと2か月後には、アメリカの若者たちも同じようにビートルズに熱狂するなどとは、夢にも思わなかったんでしょう。
 
 
それに、その16で書きましたが、ビートルズは、同じ月の4日にイギリス王室の御前コンサートをやったんですよ。ケンドリックはそのことを知らなかったんでしょうか?イギリス王室が招いたアーティストを馬鹿にするということは、とりもなおさずイギリス王室を馬鹿にしているのと同じことでしょ?無礼千万ですよね。
 
 
後日、ケンドリック自身はこう述懐しています。「私は、それまで世の中の父親たちがどう行動するかなんてことを気にしたことはなかった。しかし、私は、突然、彼らのヒーローになったんだよ。」え?世の中の父親の声を代弁したって?いやいや、いくら言い訳したってダメよ、ケンドリックさん。父親がどうこうじゃなくて、あなたがビートルズを嫌いだったのは動かしがたい事実でしょ?
 
 
報道とは怖いものです。その時代の渦中にいる人間には、事実を冷静かつ客観的に分析することはとても難しいのです。特に映像はインパクトが強いため、過剰反応しがちです。しかし、いやしくもプロを名乗る以上、それができなければなりません。その意味では、ケンドリックの態度は、プロとして極めて不適切だったといえるでしょう。
 
 
その後、ビートルズは、アメリカさらには全世界をも制覇します。ケンドリックは、ただただそれを呆然と見つめていたのでしょうか?それとも、多くの人々がそうしたように、何だかんだと理屈を付けて、ビートルズを礼賛する側に転向したのでしょうか?
 
 
皮肉なことに、彼は、同じCBSニュースで、ジョンが1980年12月8日に凶弾に倒れたことについても報道したのです。「彼の死は、今夜のポーランド、イラン、ワシントンからのニュースをも覆い隠しました。」報道するのが彼の仕事ですが、彼は、どんな思いでこの原稿を読んだんでしょうね。まあ、もう故人ですから、これ位にしときましょう。それに天国でジョンとジョージにもう散々イジラれてるでしょうから(笑)
 
 
ともかく、ビートルズは、「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」を携えて、アメリカのドアノブに手を掛けたんです。後は、それを「ガチャッ!」と開けるだけです。そうすれば、もうそこには広大なアメリカの大地が広がっているのです。
 

(参照文献)

THE BEATLES BIBLE

(続く)