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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズの足跡を訪ねて~リヴァプールとロンドン一人旅日記~ (その22) エド・サリヴァンとの運命的な出会い

「エド・サリヴァン・ショー」は、ニューヨーク・シティのスタジオ50で公開されました。そもそも、この番組にビートルズが出演するキッカケは、もちろん、マネージャーのブライアン・エプスタインが売り込んだからなんですが、実はそれには伏線があったんです。

 
それは、1963年10月31日のことでした。偶々、搭乗していた飛行機が遅れたために、 ロンドン・ヒースロー空港で待っていたアメリカ人がいました。彼の名は「エド・サリヴァン」。そう、伝説の「エド・サリヴァン・ショー」の司会者です。彼は、空港に余りに多くの人々が押し寄せ、熱狂している姿を見て「一体、何の騒ぎだ?」と驚きました。彼は、自分の番組に出演するタレントをスカウトするためにヨーロッパに出張していて、丁度アメリカへ帰るところだったんです。


彼は、この騒ぎがビートルズスウェーデン・ツアーから帰国して、空港にファンが大挙して出迎えに来たことによるものだと知りました。彼がこの様子を目撃し、彼らを自分の番組へ出演させようという気になってニューヨークへ戻ったことは、後にイギリス音楽がアメリカに進出する上で重要な役割を果たすことになります。


この出会いがなかったら、サリヴァンは、ブライアンの売り込みを蹴飛ばしていたかもしれません。何しろ当時、ロックといえばアメリカで、イギリスのロックバンドがアメリカの人気番組に出演するなど考えられませんでしたから。外国人が演歌を歌うようなもんです(でも、最近は、動画サイトのおかげで、外国人もビックリする位上手く日本の曲を歌いますけどね)。そうなると、ビートルズの世界制覇はもう少し遅れていたでしょう。そりゃ、この熱狂振りを目の当たりにして、飛びつかないバカはいませんよね。それにしても、こんな偶然ってあるんですねえ〜f^_^;まあ、話としては多少劇的過ぎる気がするかもしれませんが、この話は真実です。だって、彼が話を盛る必要性はありませんから。
 
 
それに、彼は、後にニューヨークタイムズにこう語っています。「私は、彼らと空港で出会って、エルヴィス・プレスリーが初出演した時と同じ熱狂が起きるに違いないと確信した。だから、彼らを出演させようと決心したんだ。」
 
 
サリヴァンは、アメリカに帰国すると早速スタッフに命じ、ビートルズのことを調査させました。その 1週間後に、彼は、初めてまともにビートルズCBSニュースで見ました。彼は、慌ててウォルター・クロンカイト(「アメリカの良心」とまでいわれた超大者ジャーナリストです!)に電話し、「ウォルター、今テレビに出ているこの子たちは何者なんだ?」と尋ねました。
 
 
どうやら、それまで流石のサリヴァンといえども、ヨーロッパ中を席巻していたビートルズのことについてはまだ知らなかったようです。空港でも直接見たわけじゃありませんしね。だから、とっさに空港で出会った彼らと、テレビに出演している彼らが結びつかなかったんでしょう。それに対し、クロンカイトはこう答えました。「あの子たちはねぇ〜、え〜っと何だっけ、ザ、ザ、バクルズとか、ビートルズとか確かそんな名前だよ。」確かに、彼はジャーナリストですが、報道が専門ですからね。むしろ、サリヴァンの方が知っておくべきだったところです。
 
 
余談ですが、クロンカイトは、2000年に開催された第23回ケネディ・センター名誉賞」の授賞式で、オープニングの挨拶をしています。この賞は、1978年から毎年アメリカで優れた業績を上げたアーティストに贈られる賞で、過去に錚々たるアーティスト達が表彰されました。
 
 
表彰されるアーティストは、アメリカ大統領夫妻の隣に列席し、いかに自分の作品がアメリカの人々を楽しませたかを称えられるのです。この時の大統領は、ビル・クリントンで、賞を授与されたのはチャック・ベリークリント・イーストウッドなどでした。ポールも2010年に授賞しています。その時の大統領は、バラク・オバマでした。
 
 
その一方、ブライアンは、交渉のためにニューヨークへ向かっていました。ブライアンがサリヴァンと出演交渉の為に初めて会ったのは、彼が空港でビートルズを見かけた10日後でした。正に絶妙なタイミングですね。もちろん、流石のブライアンもまさかサリヴァンが既にビートルズを見かけていたなどとは知る由もありません。出演交渉の際に、ブライアンは、サリヴァンにビートルズを1度だけでなく3度出演させるよう、しかも、その全てにおいてメイン・ゲストにするよう申し入れ、彼を驚かせました。
 
 
確かに、彼らは、全米No.1は獲得しましたが、アメリカではまだテレビに出演したこともない新人なんです。それが、初登場でいきなりメインをやらせろとは。新人が紅白歌合戦のトリをやらせてくれってなもんです(って、違うか( T_T)\(^-^ ))。
 
 
しかし、サリヴァンは、既にヒースロー空港でのファンの熱狂振りを目の当たりにしていたのと、ブライアンがギャラを大幅に下げてもいいと提案してきたので、受け入れることにしました。この番組のメイン・ゲストの出演料の相場は1回につき7,500ドルだったんですが、何とブライアンは、2回のライヴ出演と1回の録画出演の3回で1万ドルで良いと破格の料金で出演を申し入れたんです。ただ、往復の飛行機代、アメリカでの滞在費は、放送局側が負担することになりました。
 
 
これももちろん、ブライアンの巧みな戦略です。つまり、目先の金を得ることより、将来を見越してアメリカの人々にビートルズのイメージを強烈に植え付けることを優先させんですね。日本の商法でいうところの「損して得取れ」、つまり、目先の利益を追い求めるのではなく、一時的には損するようでも、長い目で見れば儲かるというシステムを構築することを実践したんです。これって、ずっと後にビル・ゲイツもやってることですよね。
 
 
メイン・ゲストとして3度も登場することで、彼らがいかにビッグなアーティストであるかを、アメリカ国民に強烈に印象付けようとしたんです。そして、彼の目論見は大成功でした。今か今かと観客の期待感を煽るだけ煽っておいて、メインゲストとして颯爽と登場したことにより、観客やテレビを観ていた人達も一斉にビートルズに飛びついたのです。しかも、あくまでゲストですから、そんなに沢山の曲は演奏できません。数曲だけ演奏して風のようにさっさと帰ってしまいます。取り残されたファンはたまりません。そこで、ビートルズのレコードを求めて店に殺到することになります。
 
 
番組出演の2日前の1964年2月7日に、ビートルズは、アメリカ、ニューヨークのケネディ空港に降り立ちました。既にこの時点で彼らは、全米No.1を獲得していましたから、ファンが殺到することが当然予想されたため、空港の警備体制は厳重を極めました。ニューヨーク中の警官が総動員されのではないかと思える位の規模です。当時の記録フィルムでは、ボスらしき警官が大勢の部下を前に警備に当たっての注意事項を説いています。
 
 
衆人環視の中でケネディ大統領が暗殺された生々しいシーンがまだ人々の記憶に残っていた頃です。しかも、警備の対象はイギリスの大スターですから、もし、警備の手抜かりで不測の事態が起きたら、国際問題にもなりかねません。実際、ビートルズを一目見ようと、予想通り3千人もの群衆が空港に殺到しました。 
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そして、ブライアンは、このエド・サリヴァンショーでの成功をテコにして、キャピトル・レコードにビートルズを売り込み、「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」をレコードとして発売し、同時に4万ドル(今の貨幣価値に換算すると、約25万ドル=3050万円(!))もの大金をかけて彼らをプロモーションさせる契約を結びました。これは、プロの芸能人のマネージメントの歴史において、極めて偉大なワンツー・パンチの一つであったといえます。
 

もっとも、実際にこの契約が結ばれたのは11月中旬から下旬とされていますから、ショーに出演する前ですね。ブライアンは、以前契約を拒否したキャピトルのアラン・リヴィングトン社長に電話し、「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」を聴くよう促し、ビートルズが1964年にエド・サリヴァン・ショーに出演することを告げ、今契約すればキャピトルにとってもまたとないチャンスになると説得したのです。後日、リヴィングトンは契約を結びました。
 

ともかく、エド・サリヴァンとヒースロー空港で偶然出くわしたことと、ブライアンの ニューヨークにおける2度目の交渉が成功した結果として、ビートルズは、1964年2月7日にアメリカの地を踏むことができたのです。それもたった1枚のレコードがもたらした成功のおかげで。歴史的なエド・サリヴァン・ショーへの出演は、この後の12か月間に5回行われました。
 
(参照文献)THE BEATLES BIBLE,
(続く)