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★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その28)AFM(アメリカ音楽家協会)の妨害

前回、カーネギーホールでのコンサートの収録についてAFM(American Federation of Musicians アメリカ音楽家協会)の許可が下りなかったと言う記事を書きました。その理由を今回書きます。

  

キャピトルは、カーネギーホールでのコンサートをライブ・アルバムとしてリリースしようと計画していました。もし、実現していれば、ビートルズとしては初めてのライブ・アルバムということになります。

  

1964年2月3日にカーネギーホールに宛てた手紙で、キャピトルは、ブライアンとシド・バーンスタインが求めていた、ライブをテープに収録することを許可すると回答しています。また、同時にキャピトルは、レコードにするためにカーネギーホールに対して£300、アルバムのジャケットに「Recorded at Carnegie Hall」と印刷することに対しても£300をそれぞれ支払うと約束しました。キャピトルも流石に高いなと思ったようですが、何しろビートルズ初のライブ・アルバムですから、リリースすれば十分儲かると踏んだのでしょう。

  

キャピトルとカーネギーホールが締結した契約書自体は存在していますが、何故かサインはされていません。それはともかく、キャピトルは、収録に必要な機材の手配も終え、後は収録するだけというところまで漕ぎ着けたのですが、土壇場になって、レコーディングは認められないとAFMから待ったがかかりました。

 

当時、AFMは、イギリスの支部との間で、アメリカとイギリスのミュージシャンが、お互いの国で自由に音楽活動できるよう協定を締結していました。しかし、その対象となるのは、あくまでクラシックなどの音楽だけあり、ロックは、まだ正当な音楽として認められていなかったのです。

 

しかし、これはあくまで表向きの理由に過ぎません。本当の理由は、ビートルズのような外国のバンドがアメリカで活躍すると、アメリカのミュージシャンの仕事が無くなってしまうからというものです。AFMは、アメリカのミュージシャンの労働組合でしたから、そのような活動で組合員を保護する必要があったのかもしれません。

 

それにしても、全くとんだ大バカヤローですよ(-_-メ)確かに、60年代は、ビートルズを皮切りにローリング・ストーンズなどのブリティッシュ・ロックがアメリカを席巻し、アメリカン・ロックが押されていたかもしれません。

 

でも、当時、アメリカのザ・ビーチ・ボーイズは、ビートルズの強力なライバルでした両者はお互いを意識しながら、アルバムを発表していたんです。ビートルズがアルバムで何かを仕掛けると、今度はビーチ・ボーイズが対抗して仕掛けるというように。「この野郎、そう来たか。じゃあ、これならどうだ?」ってな感じです。

 

当時、ビーチ・ボーイズのメンバーで楽曲を制作していたアラン・ウィルソンは、2004年4月に「THE DAILY BEAST」の取材に対し、当時を振り返り次のように語っています。「私は、『Rubber Soul』からインスパイアされて『Pet Sounds』を制作し、それが今度は『Sgt. Pepper’s』をインスパイアし、それにインスパイアされて『Smile』を制作したんだ(ただし、これはビーチボーイズとしては発表されませんでした)。」

 

ビートルズは、ライバルというより、嫉妬の対象だったよ(笑)彼らが『Rubber Soul』を発表した時は、あまりの衝撃でブッ飛んじまった。それから、『Sgt. Pepper’s』でまたまたブッ飛んだ。でも、それが凄いインスピレーションを与えてくれた。そのおかげで、シングル『Good Vibrations』とアルバム『Smile』を制作したんだ。とても興奮したよ。私は、制作に着手して自分の頭を整理しなおしたんだ。」

 

「Pet Sounds」は、ブライアン・ウィルソンの最高傑作とされています。「Rolling Stone's 500 Greatest Albums of All Time」(Wenner Books 2005)では、ビートルズの「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」に次ぐ2位に選出されています。このようにお互いに熾烈な競争を続けながら、切磋琢磨してたんですね。

 

それはともかく、AFMの横槍のおかげで貴重な音源が収録されずに消えてしまいました。例え、その当時はレコーディングできなかったとしても、テープさえ存在していれば今ならCDにできます。

 

1990年代中頃にアメリカのジャーナリストのアラン・コージンが、収録したテープが存在しないかどうかを一生懸命に調査したのですが、発見できませんでした。

 

実は、当時の写真の中にビデオカメラを回している女性ファンの姿が映っていました。つまり、彼女は、コンサートのシーンを録画していたんです。彼女が誰なのかは分かりません。でも、何とか彼女を見つけることができれば、その録画したフィルムを手に入れることができるかもしれません。下の写真でリンゴの右手の席で左から3番目に座っている女性です。それで、コージンは、 この女性の行方を探しました。しかし、結局、分からずじまいでした。

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コンサートの開催当時は、カーネギーホールが独自に収録することもなかったのです。カーネギーホールも、2014年1月31日に自身のブログで「もし、この女性についてご存知の方がいたら、フェイスブックへ投稿して下さい。」と呼びかけています。カーネギーホールは、この女性を「謎の女性」と呼んでいます。どうやら、後から追加された席のようなので、1989年にプロモーターのシド・バーンスタインなら経緯を知っているのではと照会したのですが、彼も流石に覚えていませんでした。当時のロバート・ワグナーニューヨーク市長とネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事の友人ではないかと推測されています。相当なコネがないとこんな特等席に、それも追加の席には座れませんから。

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1991年にはポールにも照会していますが、もちろん、彼も知らないと答えています。そりゃ、そうですよね、自分が招待したんじゃないんだから。この時のプログラムには、ポールの名前が「John McCartney」と間違えて印刷されているんです(笑)そして、4人全員がサインしたプログラムが現存しています。これは、カーネギーホールミュージアムに保管されていて、今でも入館者は観覧することができます。4人全員がサインしたものはなかなかなくて、オークションに出るとかなりの高額で取引されています。ビートルズのサインの偽物は星の数ほどあるので、見分けるのは至難の業です。自分の名前を間違えて印刷されたことが頭に来たのか、ポールが印刷された自分の名前の真上にサインしてますね(^_^;)

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残念ながら、現時点ではフィルムの存在は確認できていません。もし、見つかったらビッグニュースです。しかし、(その14)でも触れましたが、ジョンが1963年12月のツアー中に盗まれたギター(ギブソンJ-160E)が50年振りに発見され、2015年11月にオークションで約3億円で落札されました。あろうことか、アメリカの骨とう品店で普通に売られていたんです。こんなこともありますから、「謎の女性」と彼女が撮影したフィルムもいつか発見されるかもしれません。まだ、カーネギーホールは諦めていないようです。ファンとしては見つかって欲しいと願うばかりです。現在では、ビートルズのトリビュートバンドがこのコンサートを再現しています。

 

 

ところで、このAFM、ビートルズがアメリカで2度目のコンサートツアーを開催することも阻止しようとしていたんです。 1964年8月23日に開催されたハリウッドボウル・コンサートですね。そのことについては、また改めて書きます。

 
 
マイアミ滞在中の2月18日にビートルズは、ヘビー級のボクサー、カシアス・ クレイに面会しました。カシアス・ クレイって誰?と思う方も多いでしょうね。この頃はそう名乗っていたのですが、その後に改名しています。改名後の名前は、モハメド・アリ。これなら皆さん、知ってるでしょ?歴代のヘビー級チャンピオンの中でおそらく1番有名な人でしょうね。

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モハメド・アリは、2日後の2月25日に予定されている、チャンピオン、ソニー・リストンとのヘビー級のタイトル戦に備えてトレーニング中でした。そうです、この時点でアリはプロデビューはしていましたが、まだチャンピオンではなかったのです。ビートルズは、ちょうど彼がチャンピオンになる直前に会ったことになります。絶好のタイミングで会いましたよね。彼らの面会は、マイアミのジムで行われました。
 
 
ジョージは、こう語っています。「明らかに僕達は、何かを持っていた。だって、モハメド・アリみたいに多くの人たちが僕達に会いたがっていたんだから。僕達は、初めてのアメリカで彼のところに連れていかれた。
 
これはとても注目を集めることだったし、それがビートルズの一員であるということの現れだった。あっちこっち連れ回され、マスコミが詰めかける部屋に押し込まれ、写真をいっぱい取られ、インタビューされるということも含めてね。
  
モハメド・アリは、とても魅力的だった。彼は、ソニー・リストンとのタイトル戦を控えていたんだ。彼が僕達のうちの2人を両腕に抱えている有名な写真があるよ。」
 
 
リンゴは、こう語っています。「僕は、カシアス・クレイとスパーリングをやったんだ。僕は、彼に知っていることをすべて教えた。そして、僕は、タイトルマッチでリストンの方に賭けたんだ。結果は、みんなの知ってる通りさ。」
 
 
その夜、彼らは、ドライヴィングシアターでエルヴィス・プレスリーの「アカプルコの海」という映画を観に行きました。彼らがあちこちではしゃぎ回っている姿が写真に数多く残されています。束の間のバカンスを存分に楽しんだという感じですね。
 
 
ビートルズは、2度目のエド・サリヴァン・ショーに出演し、23日の同番組にも出演して、合計3回このアメリカ滞在で出演しました。ただし、最後の回が放映される23日には既にイギリスに帰国しており、前もって収録されていたものが放映されました。国民的な人気番組に3週間連続で出演したことも異例で、これもビートルズの人気がいかに凄まじかったかを象徴しています。
 
  
エド・サリヴァンは、この3度目の出演の際に次のように紹介しました。「大変申し訳ありませんが、この3度目の出演で彼らのこのショーへの出演は終わりです。イギリスのリヴァプールから来た若いスターは、素晴らしいプロの歌手であるだけではなく、素晴らしい若者達であり、彼らに会った人すべてに強い印象を与えることでしょう。」 こうやって、ビートルズのアメリカ上陸は、まさしく巨大なハリケーンのように全米を包み込み、熱狂と感動の嵐を呼び、彼らはその余韻が冷めやらぬ中、イギリスへ意気揚々と凱旋しました。
 
 
エド・サリヴァンは、ビートルズの素晴らしいパフォーマンスと彼らの人柄について感嘆し、称賛しましたが、それだけには留まりませんでした。ビートルズは、正に「パンドラの箱」を開けてしまったのです‼︎
 
 
ここから一気に世界中で若者文化が年配者を圧倒して、社会現象となっていきます。ビートルズが単に音楽だけではなく、若者の文化や思想にまで影響を与えることになります。それには、ボブ・ディランも大きな役割を果たしています。ベトナム戦争に対する反戦運動、ドラッグ、公民権運動、女性の地位向上、ヒッピー、サイケデリック…。若者は、大人が支配する社会に反抗し、様々な形で自分達の主張を始めました。
 
 (参照文献)THE BEATLES BIBLE,  THE DAILY BEAST, ANYTHING NET, 
BRITISH INVASION MUSIC, CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS