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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その31)〜 ビートルズとブライアン・エプスタインとの出会い(訂正その1)

ビートルズと敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインとの出会いについては、(その5)で書きました。しかし、その後の調査で、事実が少し異なることが判明しましたので、ここで訂正させていただきます。

 
 
ブライアン・エプスタインが、公式にビートルズと彼を引き合わせるキッカケとなった青年の存在を明らかにしたのは、新聞記者のインタビューにおいてです。しかし、その時点では彼のことを「18歳のみすぼらしい皮のジャケットを着た青年」とのみ答え、実名は明かしていません。
 
 
その後、彼が1964年に出版した「A Cellarful Of Nois」という著書の中で、その青年レイモンド・ジョーンズの実名が初めて明らかにされ、話題になりました。
 
 
ところが、NEMSレコード店でブライアンのアシスタントを務めていたアリステア・テイラーが、1995年11月4日にマンチェスター・イヴニング・スタンダード新聞の取材に応じ、レイモンド・ジョーンズなる人物は実在せず、それは、ブライアンが店でのレコードの売り上げを伸ばすために、作り上げた架空の人物であると主張したため、大騒ぎになりました。 

 

彼は、1997年に自身の著書である「The Beatles Book」の中で再度この話を繰り返しました。「本当のところ、我々の誰も注文を受けてはいなかった。ブライアン・エプスタインは、我々がちゃんと注文を受けてからでなければ注文しなかったんだ。彼がレイモンド・ジョーンズなる名前を本に書いた。それ以来伝説が一人歩きしたというわけだよ。」
 
 
1998年7月に発行された「RECORD COLLECTOR」という雑誌のインタビューで、ウーラーは、アリステア・テイラーの主張を取り上げたものの明確に否定はせず、ただ、自分著書の中では実在するとだけ答えています。いわば「両論併記」といったところでしょうか?彼も分が悪いと思ってたんでしょうね。何しろ肝心の本人が名乗り出ないんですから、証明のしようがありません。それに彼もジョーンズのことを「生きた歯車の一つに過ぎない」とも答えていますから、あまり重要視してなかったんでしょう。
 
 
ビートルズ専門のジャーナリストであるフィリップ・ノーマンが2005年2月15日に出版した「Shout!」という書籍では、「レイモンド・ジョーンズは、ビートルズの歴史において少しではあるが、重要な役割を果たした。彼は、1961年10月28日、NEMSレコード店で経営者のブライアン・エプスタインに対し、ビートルズがバック・バンドをやった『マイ・ ボニー』のレコードがないかと尋ねた。 

 

「ブライアンは、ジョーンズの話を聞いてビートルズに大きな興味を持ち、11月9日にキャヴァーン ・クラブへ彼らの演奏を観に行った。これをきっかけに彼は、ビートルズのマネージャーになり、彼らをレコードデビューさせ、世界的なスターの道へと歩ませる一連の物語が始まったのである。」と記述されています。
 
 
なお、この書籍は、ビートルズに関する正確で興味深い伝記として、シカゴサンタイムズや、ニューヨークタイムズから賞賛されています。
 
 
2010年8月にレイモンド・ジョーンズは、ビートルズを紹介するサイトにメールアドレスを添えて、コメントを残しました。それで、そのサイトの運営者は、彼に対し、電話とメールでインタビューに応ずるつもりがあるかどうかを尋ねました。その会話の中で彼は、リヴァプール時代のこと、それからビートルズ、ブライアン・エプスタインのことについて語り、そして、なぜ、彼が今まで率直に真実について語らなかったのかを話しました。そのインタビューの内容は次の通りです。
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 Q「ビートルズ伝説は、あなたが18歳の時から始まり、当時、あなたはリヴァプールのハイトンから来た印刷の見習工だったという話は正しいですか?」
A「ブライアン・エプスタインが書いた『A Cellarful Of Nois』という本の中で、私を皮のジャケットを着た18歳の若者として描いていました。私は、きっと実年齢より若く見えたんだと思います。私は、1941年7月21日生まれなので、当時はもう20歳だったんです。私と友人のロン・ビリングスレイは、ビートルズを観たり聴いたりする以前から、好んで皮のジャケットを着ていました。私は、ロンのオートバイに2人乗りしました。私は、小さな印刷工場で働いていました。そこは、元はデイル・ストリートのパブでした。」 

 

Q「あなたは、どのようにしてビートルズを知ったのですか?」
A「私は、キャヴァーン・クラブのランチタイム・ショーの常連だったんです。そこから歩いて5分ぐらいのところにあるデイル・ストリートで働いていたんです。社長は、私がどれだけ長いこと休憩していようと、夜まできっちり働いていれば何も言いませんでした。今思えば、とてもラッキーでしたね。」
 
最初に私がビートルズを観たときは、衝撃でぶっ飛びましたよ。私が観るものも聴いたものも信じられませんでした。あんなサウンドを聴いたのは初めてです。その頃は、ピート・ベストがドラマーでした。彼は、良くカール・パーキンスの『マッチ・ボックス』を歌ってたんですが、私は、カール・パーキンスの熱烈なファンで、彼らがどんなコードで演奏するのか興味があったんです。」 

 

「ある日、キャヴァーンのDJだったボブ・ウーラーが、私の仕事場に何枚かのチケットを持って来たので、次に彼らがどこで演奏するのか彼に聞いたんです。そしたら、彼は、今度チケットを手に入れたら、いつどこで演奏するか教えてくれると言ったんです。」
 
「彼は、チケットの束を手に入れるとそのうちの2枚を私にくれ、それにサインしてくれたので、私は、タダで会場へ入ることができました。その会場は、『ノッティ・アッシュ・ヴィレッジ・ホール』でした。その後、私は、ビートルズの追っかけをするようになり、演奏がある夜は殆ど通いました。まあ、完全にはまっちゃたってことです。」
 
Q「ビートルズは、『マイ・ボニー』をハンブルクでレコーディングしました。そのレコードのことをどうやって知ったのですか?」
A「私の以前の義兄だったケニー・ジョンソンは、『マーク・ピーターズ・アンド・ザ・サイクロンズ』というバンドのリード・ギターをやっていたんです。私は、彼からビートルズがドイツでレコードを制作した話を聞きました。次の土曜日、私は、NEMSレコード店へ行き、誰が出したかわからないレコードをブライアン・エプスタインに尋ねました。彼は、私に質問し始めました。『彼らのグループ名は何?どこで演奏したの?どんなタイプの曲を演奏したの?』」
 
「私は、その日にNEMSレコード店へ行くまでは、キャヴァーンでもほかの場所でも、トニー・シェリダン/ビートルズのレコードは聴いたことがなかったんです。さっきも言った通り、ケニー・ジョンソンから話を聞いて店へ行って、レコードを買おうと思ったんです。それから大体2週間ぐらい経ってから、私は、ボブ・ウーラーからその曲はキャヴァーンで演奏していると聞かされました。」
 
Q「それまでにビートルズに会ったことはありましたか?」
A「私は、彼らのことは知りませんでしたが、彼らに話しかけたことは何度かあります。私の父は、ジョージのお父さんと同じでバスの運転手をしていました。彼らは、良くリヴァプールのドヴコートにある『トラムウェイ・ソーシャル・クラブ』というパブに通っていました。私は、私の父とジョージのお父さんも一緒に飲みに行きました。ジョージは、その夜はあまりしゃべりませんでしたね。」
 
ジョージは、ステージに上がると別人になるんです。ある日、彼は演奏の合間に短いインスルトゥルメンタルを演奏していました。彼らは、皆いつもシャドウズ(ビートルズが登場するまで、イギリスで最も人気のあった歌手クリフ・リチャードのバック・バンドで、バンドとしても多くの曲をヒット・チャートに送り込みました。)の曲から演奏を始め、舞台の前に出たり後ろに下がったりしながら演奏しました。もちろん、彼らは、薬の入った酒を飲んでいました。将来彼らがあんなビッグアーティストになるなんて、誰も思ってもいませんでした。」
 
「それからほどなくして、彼らは、ビル・グランディが演出したテレビのショーに午前6時30分に出演しました。そのショーの放送があった後、誰もが流行に乗りました。それまでは、演奏の間中、彼らの近くにいることができたのに、テレビで放送された後にはもう近づけなくなってしまったんです。それ以来、私は、キャヴァーンへ行かなくなりました。私にとっては、もう行く場所ではなくなったんです。」
 
ビートルズが2曲をレコーディングした後、ブライアン・エプスタインは、一般の新聞に彼らについての記事を載せ、それには私は18歳の『みすぼらしい』皮のジャケットを着た若者として描かれていました。私は、NEMSにそのことについて私がその記事を不愉快に思っているという手紙を書きました。私は、その手紙で、その頃は、スーツなんか仕事で必要な人しか着てなかったと書いたんです。」
 
「少し経ってから、NEMSの関係者が手紙で、デイル・ストリートから離れたムーアフィールズにあるエプスタインの事務所に来て欲しい、と書いて送って来ました。私は、彼と連絡を取ると、彼は、自分の事務所に来てくれと依頼し、個人として謝罪したいと言いました。彼は、軽く謝罪の言葉を述べた後、私とデイル・ストリートにあるパブへ行って一緒に酒を飲みました。彼は、私に様々な質問をし、同時にノートに書き留めました。彼は何も言いませんでしたが、私は、『A Cellarful Of Noise』という本に書くつもりに違いないと思いました。」
 
「少し後に、私は経緯をはっきり覚えていないのですが、私の隣人がエプスタインに手紙を書いたんです。すると、エプスタインの秘書のダイアナ・ヴェロから、彼の本を送るので住所を教えてほしいと返信が届きました。1週間かそこらで私はそれを受け取りました。」
 
(参照文献)
The Beatles Bible, MUSICASTORIA
 (続く)

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