★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その40)「ア・ハード・デイズ・ナイト」(シングル盤)リリース!

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(その36)で映画のタイトル(曲名)が、元々リンゴの漏らした言葉がきっかけでてきたと書きましたが、普段からリンゴは、ちょっと天然っぽいところがあって、時折無意識に変な言葉を口にして周囲を笑わせていました。

 

リンゴの天然ぶりを示すエビソードの一つとしてこんなのがあります。ある日、リンゴが愛車にメンバーを乗せて高速道路を走っていた時のことです。ボンネットをきちんと閉じていなかったために、走行中にバーンと開いてしまい、前方が全く見えなくなってしまいました。当然他の3人は、「わあ〜っっっ((((;゚Д゚)))))))」と慌てふためきました。ところが、リンゴは涼しい顔で「大丈夫。ちゃんとみんなをベッドまで安全に届けてあげるから。」とのたまわったんです(笑)おいおい、コメディー映画かよf^_^;

 
 
それはおいといて、映画の主題歌「ア・ハード・デイズ・ナイト」は本当に名曲です。是非一度聴いてみて下さい。この曲は、所ジョージの「笑ってコラえて」という番組中の「日本列島朝までハシゴの旅」というコーナーで使われているので、皆さんも耳にしたことがあるかもしれません。
 
 
これは、タレントが夜中にスタジオから飲み屋街に電車で移動し、始発電車が出るまでアポ無しで飲み屋を次々とハシゴして、お客さんを取材して、一緒に酒を飲みながら色んなエビソードを聞き出す人気のコーナーです。さあ、これから飲み屋街に繰り出すぞというタイミングで、この曲がBGMで流れます。夜中から始発電車の時間まで一睡もせずに飲み屋をハシゴしますから、正に「ア・ハード・デイズ・ナイト」ですね。選曲はドンピシャだと思います。
 
 
ビートルズの話題から逸れますが、日本のテレビのバラエティー番組やCMなどで流れるBGMを聴くと、「なるほど、この場面でこの曲か。ホントに良く思いついたな」と思わずニヤッとしてしまうことがあります。中にはダジャレかい!ってツッコむようなのもありますが。
 
 
業界の事情は知りませんが、恐らく選曲しているのは20〜30代の若い世代のスタッフだと思います。もちろん、彼らは、ビートルズを始め、60〜80年代の洋楽をリアルタイムでは知りません。聴いたこともないはずなのに、良く見つけて来たなと感心させられます。それに歌詞を知らないと使えませんしね。もっとも、プロデューサーとかディレクターからの指示があったのかもしれませんが。
 
 
「ア・ハード・デイズ・ナイト」に話を戻すと、リンゴが思わず漏らした言葉をヒントにジョンとポールが曲作りを始めました。レスター監督は、この言葉をタイトルに使うと4月13日に公表します。
 
 
ジョンは、1980年に次のように語っています。「僕が車で自宅へ帰ると、リンゴがポロッと漏らした『ハード・デイズ・ナイト』という言葉をタイトルにしてみたらどうだとレスターが提案してきたんだ。実は、この言葉自体は目新しいものではなくて、僕が書いた『イン・ヒズ・オウン・ライト』という詩集の中で既に使ってたんだよ。でも、リンゴが言うまでそれを忘れてた。良くリンゴが使う『リンゴイズム(リンゴ語)』ってやつの一つさ。それ自体は面白い言葉でも何でもないんだけどね。」
 
「レスターがそれをタイトルに使うっていうから、さあ次の日の朝から早速曲を書き始めた。というのは、僕とポールのどっちがシングルのA面を取るかちょっとした競争をしたんだよ。君たちが知ってるように勝ったのは僕の方だ。曲の殆どは僕が作った部分を使ったからね。」

「初期の頃は、僕がビートルズを支配していた。ポールが作った部分は、僕がどうしても思いつかなかったところなんだ。あそこは、ちょうどあの頃の僕たちがやっていたことを良く表現してるね。僕は思いつかなかったけど、彼は、違うサウンドを探してうまくハーモニーを作ったよ。」これがジョンが出版した「イン・ヒズ・オウン・ライト」という詩集です。
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また、ポールは、1994年にこう語っています。「映画の撮影がほぼ終わったけれど、タイトルをどうするかまだ決めてなかったんだ。それで監督も含めてスタッフみんながトゥィッケナム・スタジオに集まって知恵を絞ったのさ。僕たちは、そこでリンゴがこの間口走った『ハード・デイズ・ナイト』という言葉を使おうって言ったんだ。」

「コンサートが終わって疲れて帰ってきたときに、リンゴが『ヒュ~、キツい一日・・・の夜だったなあ~』と言ったので、ジョンが『今何て言った?』リンゴ『ヘトヘトに疲れて、『イッツ・ビーン・ア・ハード・デイズ・ナイト』って言ったんだよ。』ジョン『『ハード・デイズ・ナイト』だって?それいけるじゃん!どうやってそんな言葉を思いついたんだ?ヒャッホ~!』それで、これで行こうって決めたのさ。」
 
 
何かジョンやポールの記憶が微妙にすれ違ってますけどね(^_^;)ジョンは、監督から持ち掛けられたと言ってるし、ポールは、みんなで考えたと言ってるし。まあ、人の記憶なんていい加減なものですから。それも、時間が経てば経つほど怪しくなります。
 
 
タイトルが決まり、ジョンは1964年4月13日の夜に曲を書きました。彼は、数多くの作詞作曲を手掛けている真っ只中で、ビートルズの第3のアルバム「ア・ハード・デイズ・ナイト」の曲の大部分を書きました。バースデー・カードの裏に走り書きされたこのタイトル曲の歌詞は、現在、ロンドンの大英博物館で見ることができます。
 
 
ポールは、こう語っています。「ジョンは、『僕が書くよ。』って言ったんだ。翌日もう書いた曲を持って来た。ただ、すべての歌詞を書いてはなかったと思う。ミドルエイトは僕が書いたと思うよ。20分掛かっただけだった。それを仕上げる時間は十分にあったよ。」翌日の14日に映画のプロデューサーであるウォルター・シェンソンの前で、ジョンは、手書きの歌詞をテーブルに載せ、アコースティックギターで、ポールとともに更衣室で演奏しました。
 
 
シェンソンはこう語っています。「ジョンとポールはギターを準備し、歌詞は全部本のカバーに走り書きしてあった。彼らはその曲を演奏し、次の日の夜にはレコーディングしたんだ。ビートは正しかったし、アレンジはすばらしかった。彼らは天才だよ。」目の前でこんな名曲を初めて聴かされるなんて、彼は幸せでしたね。
 
 
確かに、こんな名曲をたった1日でサラッと作っちゃうんですから、本当に天才としか言いようがありません。リリースから50年以上経った今でも、プロアマを問わず世界中のミュージシャンが演奏し、CDやDVDで楽しんでるんですから
 
 
この曲は、1964年4月16日にアビイ・ロード第2スタジオでレコーディングされました。9テイク録音されましたが、そのうち5テイクは完璧で、3時間もかからず収録は終わりました。収録に関する詳しい記事は、また別のブログで各楽曲を解説する中で書きます。
 
 
毎日ビートルマニアに追いかけ回される彼ら。しかし、どんなに忙しくて、クタクタになって帰って来ても、家に帰れば愛する君が待っていてくれる。文句なんか言えるもんか。というような彼らの心境を歌った歌詞です。まず、衝撃を受けるのが、イントロの「ジャーン‼︎」とギターをかき鳴らす音です(マーティンのピアノも入ってます。)。
 
 
ジョージ・ハリスンはこう語っています。「僕達は、この曲が映画とアルバムのサウンドトラック盤の冒頭で使われることを知ってた。だから、イントロをパワフルで印象的なものにしたかったんだ。あのギターコードは、衝撃的で完璧なスタートだったよ。」
 
 
いきなりギターをかき鳴らすなんて、当時こんな斬新なイントロはありませんでしたからね。それに不思議なことに、他のバンドがこのイントロのオープニング・コードをコピーしようとしても、完璧にはできなかったんです。それで色んな理論が唱えられました。Gsus4-7らしいとか、全部で14種類位が候補に挙げられたんです。そして、論争はかなり長く繰り広げられました。これについても、別のブログで改めて書きます。
 
 
イントロに続きジョンのヴォーカルが始まると、あっという間にビートルズの世界にに引っ張り込まれてしまいます。それにポールが畳みかけるようにミドルエイトのヴォーカルを重ねます。息つくヒマも与えません。例えていえば、100mを猛ダッシュするような感覚でしょうか?
 
 
この曲は、イギリスでは1964年7月10日にリリースされました。シングル盤は、B面が「Things We Said Today」でアルバムと同日にリリースされました。シングルは、7月18日にイギリスでチャート入りしました。次の週、それは№1になり、3週間その位置に留まりました。同じ7月25日に、アルバムもチャート№1になりました。
 
 
同年6月13日にアメリカでは、同じタイトルの映画のサウンドトラック盤としてリリースされ、200万枚以上を売り上げました。アメリカのシングル盤は、7月13日にリリースされましたが、こちらのB面は「I Should Have Known Better」でした。8月1日に、№1になり、そこで、2週間その位置に留まりました。ビートルズは、「ア・ハード・デイズ・ナイト」でイギリスとアメリカの両国でシングルとアルバム・チャート№1を独占したのです。彼らは、この成功により1965年にミュージシャンにとってのアカデミー賞ともいえるグラミー賞を与えられました。

 

(参照文献)

THE BEATLES BIBLE, ATEYOURMUSIC.COM

(続く)