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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その50)ビートルズを育てた名プロデューサー、ジョージ・マーティンの偉大な功績について(その1)

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ビートルズファンにとって悲しい日がまた一つ増えてしまいました(つД`)ノ2016年3月8日、ビートルズの元プロデューサーであり、育ての親ともいえる名プロデューサーのジョージ・マーティンが亡くなったのです。今回は急きょ予定を変更し、いかにして彼がビートルズをビッグ・アーティストへ導いたか、その偉大な功績について書きたいと思います。
 
 
リヴァプールからロンドンへ、マネージャーのブライアン・エプスタインに連れてこられた彼らは、ダイヤモンドとはいえ、まだ原石のままでした。彼らの才能にいち早く気づき、原石をカットし、磨きをかけたのがマーティンです。その結果、彼らはデビューから50年以上たっても、光輝き続けるダイヤモンドとなりました。
 
 
彼は、1926年1月3日にジョージ・ヘンリー・マーティンとして生まれ、6歳の時に自宅でピアノと出会い、8歳から本格的にレッスンを受けました。音楽に対する彼の情熱は学生時代に高まりました。BBCシンフォニーオーケストラの演奏を聴き、彼は強烈な印象を受けたのです。1950年にEMIに入社、1955年に系列のパーロフォンのトップになりました。その後、ビートルズと出会うことになりますが、その詳細についてはこのブログの(その9)をご覧下さい。
 
 
ビートルズについて、後に彼はこう語っています。「私は底なしの井戸を見つけたような気がした。そして、皆はどこでその井戸を掘ったのだと私に尋ねるんだ。知るもんかね、そんなこと。」
 
 
マーティンは、1996年にエリザベス女王からナイトの称号を授与され、1999年にロックの殿堂入りを果たしています。彼は、グラミー賞も何度か受賞していますが、その中の一つに年間アルバム賞として「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」が含まれています。
 
 
ポールは、こう語っています。「彼は、本当の紳士であり、私にとっては第二の父親とも呼べる存在だ。彼は、様々なテクニックとユーモアでビートルズのガイドとなってくれ、それ以来、家族ぐるみで交際している。もし、5番目のビートルは誰かと尋ねられたら、私はジョージだと答える。
 
 
マーティンは、1995年にMONITOR誌のインタビューに応じて、初めてビートルズと出会った時の印象についてこう語っています。「私は、彼らが素晴らしいと感じた。変わっているし、普通じゃないとも思った。おまけに少々生意気だったしね。それがまた面白いところだった。」
 
「私は、意識的に人の襟首を掴むようなサウンドを得ようとしていた。『I Want to Hold Your Hand』を聴いてみてくれたまえ。この曲が彼ら全員を技術的に結束させたように思える。」
 
 
マーティンは、それ以降も彼らのアルバム制作に携わりました。しかし、「Let It Be」の制作の時には、ビートルズは何か違うことを考えていました。彼らは、スタジオで編集を重ねたようなものではない作品を制作したいと考えていたのです。マーティンはプロデュースを任されず、代わりにフィル・スペクターが起用されました。
 
 
マーティンは、その時のことをこう語っています。「ジョンは、私に『我々は、スタジオで様々な技巧を施したものではなく、ありのままの作品を作りたいんだ。』と言った。」
 
「とてもショックだったのは、ジョンがフィル・スペクターをプロデューサーとして起用し、彼がオーケストラ、豪華な絃楽器やハープなどをオーヴァーダビングし、ジョンがそれにヴォーカルをオーヴァーダビングしたことだ。最初に言ってたことと違うじゃないかと思ったよ。」
 
「それで、我々は、終わったと思った。私は、もう一緒にやることはできないと思ったんだ。」
 
「しかし、彼らは、次のアルバムを制作する時に再び私の所へやって来て、もう一度昔に戻りたい、次のアルバムを一緒に作ってもらえないだろうかと言ってきた。それが『Abbey Road 』だ。それは素晴らしかった。我々は、本当に全身全霊を掛けて取り組んだよ。見事な共同作業だった。そして、それが最後のアルバムになった。」
 
「あの4人は、個々の独立した4人より遥かに強力だった。彼らの作詞作曲や演奏も含め、すべては彼らが強固に結束したからこそ成し遂げることができたのだ。」
 
 
マーティンの時代の殆どのプロデューサーとは異なり、彼は、創造的かつ大胆に、音楽によってもたらされる領域を探索し、拡大して、それが受け入れられる環境を育成したのです。色々な楽器を試しに取り上げてみたり、あるいはただビートルズの好奇心を面白がったり、彼らの抽象的な幻想を現実に音楽に翻訳するなど、 あらゆる意味でビートルズと共演したのです。 まるで科学者が実験をするかのように様々な技法を取り入れました。
 
 
「彼は、我々が持つ違和感が何故生ずるかを分析するためにそこにいたのだ。」とジョージ・ハリスンは回顧します。この言葉は、彼らが他のどんなプロデューサーと組んだとしても、ビートルズの作品が創り出されたとは考えられないということを意味します。ビートルズにとって信頼できる相棒であり、様々な提案をしてくれ、彼らが気づかないことを気づかせてくれたという彼の役割は、いくら強調してもし過ぎることはありません。
 
 
では、マーティンは、具体的にビートルズのどの作品にどのような貢献をしたのでしょうか?彼の貢献が顕著ないくつかの作品を取り上げてみましょう。
 
 
 Please Please Me(1963)
この作品については、既にこのブログの(その12)で触れましたので、そちらをご覧下さい。
 
 
 Yesterday(1965)

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ポールが、初めて文字通り単独で完璧に仕上げた作品であり、他のメンバーが入り込む余地はありませんでした。しっとりとした曲調と悲哀に満ちた歌詞は、ドラムパターンやギターをかき鳴らすどころか、ヴォーカルのハーモニーさえ必要としませんでした。
 
 
マーティンは、ポールがアコースティックギターで単独でヴォーカルを担当するという、ビートルズにとって初めての作品となると確信しました。この時、マーティンは、弦楽四重奏をアレンジするというビートルズにとって初めてとなる提案をしたのです。このアイデアを提案されたポールは、マントヴァーニのシロップのように甘く過度に感傷主義っぽい(失礼!)オーケストラが頭に浮かび、最初は抵抗しました。
 
 
ポールは、提案されたときのことを回想してこう語っています。「私は、『いや、それはないよ、ジョージ。我々は、ロックンロールバンドなんだ』と言った。すると彼は、偉大なプロデューサーとして、医師が患者に接するようにこう説得した。『やってみようよ。もし、それが上手くいかなかったら、使わずに君のソロを使えばいいさ。』」
 
「アビイロードスタジオで弦楽四重奏をレコーディングした時、私は、彼のアイデアがいかに正しかったかを知り、感激してそのことを何週間もあちこちで喋りまくったよ。」
 
 
この作品は、ビートルズ弦楽四重奏をアレンジとして採用した最初の作品であるとともに、ロックにクラシックを取り入れるという大胆かつ革新的なアイデアでした。マーティンがクラシックにも通じていたことも大きかったかもしれませんが、それを融合させるなどとはその当時ではあり得ない発想です。おそらくロックとクラシックとの融合という、ジャンルの垣根を乗り越えて音楽性を融合させるクロスオーヴァーというスタイルを初めて作品として完成させたものでしょう。後に、クリーム、レッド・ツェッペリンキング・クリムゾンなどのアーティスト達がこのスタイルを採用することになります。この流れは1970年代に入ってから加速しました。
 
 
 In My Life (1965)

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この作品の歌詞は、ジョンが生まれ育ったリヴァプールでの幼少期について書いたものです。この内省的な歌詞を完成させた時点で、彼は、この作品には他の作品とは異なる特別な何かがあることを感じていました。そのため、間奏をエレキギターで演奏するには、このような繊細な作品にそぐわない感じがあったのです。彼は、「バロック音楽のようなサウンド」が必要だとは考えていたのですが、何を当てはめれば良いのか答えを見つけられませんでした。
 
 
マーティンは、この曲を取り上げるとジョンが望んだ結果を彼に提供したのです。「彼らは、レコーディングの合間に一息入れてお茶をしていが、私は、彼が戻って来るまでに、ジョンがまだ聴いたことのなかったバロック様式のピアノ・ソロを入れたのだ。ただ、流石にライヴで演奏するにはあまりにも複雑だったので、半分のスピードに落として演奏して録音し、編集で倍速にスピードアップさせたんだ。ジョンは、気に入ってくれたよ。」
 
 
この作品は、歌詞もメロディーもヴォーカルももちろん素晴らしいのですが、間奏のピアノが実にいいアクセントになっています。このセンスもマーティンならではですね。
 
 
 For No One(1966)

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マーティンは、若いアーティスト達と曲を制作する時、彼らに対して非常に協調的なアプローチをしました。他の多くのプロデューサーがしたように上から目線で「ああしろ、こうしろ」と指示するのではなく、アーティストに寄り添い、あくまで彼らを主役にしてその持ち味を発揮させようとしたのです。また、彼らからの提案も頭ごなしに否定せず、とりあえず一緒に取り組んでみるというスタイルを貫きました。彼のこの姿勢のおかげで、ビートルズは、音楽のフィールドをそれこそ「Free As a Bird」として飛び回ることができたのです。彼は、ビートルズが即興で口笛を吹いたり、ハミングしたサウンドからその場でそれを譜面に落とすことも良くありました。
 
 
そんな彼の仕事の中でも、おそらく最も記憶に残るのは、このアルバム、リヴォルヴァーに収録された曲のレコーディングの時のことでしょう。ポールは、子どもの頃から好きだったフレンチホルンを間奏に使いたいとマーティンに話しました。すると、彼は、知人のアラン・シヴィルという一人のホルン奏者を連れてきたのです。彼は、見かけはごく普通の人でしたが、天使のようにホルンを演奏できました。
 
 
彼は、BBCシンフォニーオーケストラの首席ホルン奏者でした。レコーディングにおけるやり取りでシヴィルは、2人からこんなサウンドが欲しいと言われたが、なかなか彼らが考えていることが理解できなかった。しかし、何度か試しに演奏して素晴らしいサウンドに辿り着いたと発言しています。
 
 
ポールの発言はちょっと違っています。マーティンは、ポールに対し、ホルンをどんなふうに演奏したらいいか尋ねました。それに対してポールは、こんな感じでと歌ったので、マーティンはそれを譜面に落としました。マーティンは、ここは高音のEだというと、ポールは、シヴィルにFでやってみてくれって言ったらどうかな?と答えました。マーティンは、ポールがシヴィルをからかうつもりだと気付き、自分もその悪だくみに加わることにしました(悪い連中ですね(^_^;))
 
 
そして、シヴィルにその譜面を見せたのです。するとシヴィルは、譜面から顔を上げ「え、ジョージ、この譜面間違ってるよ?高音のFと記入してあるけど。」と尋ねました。しかし、マーティンとポールは、微笑みながら「そのままで。」と言ったのです。
 
 
しかし、シヴィルも咄嗟に彼らが何をしたいかということを理解したのです。たとえ、それが楽器の限界を超えたものであるとしても、それを演奏することができたんです。彼らのような一流のプレイヤーは、時折そういった即興的な演奏をすることも珍しくはありませんでした。そして、シヴィルは、そんな彼らのイタズラをものともせず、譜面に合わせてピッタリと高いサウンドを出し、その曲に当てはまる感情的なクライマックスを見事に導き出して、一流のプロであることを自ら証明したのでした。
 
シヴィルをからかうつもりだったマーティンとポールは、ものの見事に反撃を食らってしまいました(笑)
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マーティンは紳士でしたが、こんな茶目っ気もあったんですね。しかし、アラン・シヴィルも大したもんです。っていうか、この人は、1985年に大英帝国勲章を授与された程の超大物なんですよ。いやはや、超一流のプロはものが違いますな。


因みに、ジョンは、この曲を「ポールが書いた曲の中で好きなものの一つ」と評価しています。

(参照文献)news.com.au, ULTMATE CLASSIC LOCK, CBS NEWS, THE CHRISTIAN SCIENCE MONITOR, RollingStone, beatlesebooks.com
(続く)