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★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その56)ア・ハード・デイズ・ナイト(アルバム)(その1)

かなり寄り道しましたが、「ア・ハード・デイズ・ナイト」のアルバムの制作に話を戻します。この写真は、レコーディング・セッションの様子です。

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1963年において、イギリス国内でファンのハートを鷲掴みにしたビートルズは、1964年に活躍の場を世界へと拡大しました。2月に全米を制覇して歴史に名を刻む前に、ロンドンとパリでコンサートを開催しました。そして、エド・サリヴァン・ショーで約7300万人の視聴者の前に現れました。

 
 
彼らは、ワールド・ツアー、多数のインタビュー、テレビ出演と新曲のレコーディングと、アメリカでの成功を追い風にして、映画デビューとなる作品で主演しました。ツアーやスタジオ・セッションなどで、とんでもないハード・スケジュールだったにもかかわらず、「ア・ハード・デイズ・ナイト」のサウンドトラックを完成させたことは、ビートルズが最強のタフなアーティストであることを証明しました。
 
 
ジョンは、こう語っています。「僕達は変化していた。より成長したんだ。ティーンエイジャーであった頃と比べて、ありとあらゆる面でレベルが上がっていたことをみんな分かっていたよ。」
 
「初期の頃の作品、僕はそれを『ハード・デイズ・ナイトの時代』と呼んでるけど、それは、性的な関係の初めの方の狂乱に近いものだった。それを経た『サージェント・ペパー、アビイロードの時代』は、僕達の関係が成熟した時代だった。」
 
 
ビートルズが活動していた前半は、ビートルマニアに追いかけ回されるまさに狂乱の時代でした。しかし、一切のコンサート活動を休止してから、彼らは、スタジオでじっくり自分たちのサウンドを作ることができるようになった、そのことをジョンは語っているのです。
 
 
1964年1月から6月にかけて、アルバムは、ツアーや撮影の合間を縫って断続的に収録されました。そのセッションの間に、ジョンとポールが今日に至ってもなお多くの人々に愛される名曲の数々を書き、ビートルズは、ツアーと映画撮影の両方を無事終えたのです。
 
 
これ程のハードスケジュールだったにもかかわらず、ビートルズは、キャヴァーンクラブ時代の曲を採用するという安易な道は選びませんでした。そして、彼らがレパートリーとしていた多数のカヴァバーヴァージョンの幾つかは、一旦棚上げして保管しておくことにしました。その結果、「ア・ハード・デイズ・ナイト」は、レノン-マッカートニーとクレジットされる、彼らのオリジナルだけで構成された最初のアルバムになりました。
 
 
イヴニング・スタンダード紙のジャーナリストであったモーリーン・クリーヴが、ジョンがこの曲を発想した時のことを後日回想しています。彼女は、ビートルズの友人でした。この人です。

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彼女は、こう語っています。「ある日、私はタクシーでジョンを迎えに行き、レコーディング・セッションのために彼をアビイロード・スタジオへ連れて行った。『ア・ハード・デイズ・ナイト』は、既に彼の頭の中にあったのだ。ファンから彼の幼い息子ジュリアン宛てに贈られたバースデー・カードに歌詞が走り書きしてあった。『When I get home to you,』『I find my tiredness is through...』(君が待つ家に帰ると疲れが取れることに気が付く)」

 
「私は、『I find my tiredness is through...』という箇所が何だか弱々しい感じがすると言うと、ジョンは陽気に『OK』と言って私のペンを借り、その言葉を少し思わせ振りな感じに変えてサラサラッとこう書いた。When I get home to you/I find the things that you do/Will make me feel all right』
 
「他のメンバーは、スタジオでジョージ・マーティンと一緒にいた。ジョンは、彼らに曲をちょっと鼻歌で歌って聴かせた。彼らは、歌詞だけコピーした。3時間後、私には彼らがどうやったか分からなかったが、既にレコーディングが終了していた。現在、このバースデー・カードは、大英図書館で見ることができる。」これがそのバースデー・カードです。ジョンがペンで走り書きしているのが分かります。f:id:abbeyroad0310:20160403165709j:plainこの後、たった3時間で曲を完成させただけでなく、レコーディングまで終えていたのです!正に神業としか言いようがありません。
 
 
ジョンは、こう語っています。「色んなことが起こり、過ぎ去っていった。過去は永遠に戻ってこないなんて、僕には信じられない。でも、24歳のハングリーな頃には二度と戻ることはできない。絶対にだ。」
 
 
このアルバムは、ジョンの主導で制作され、ポールが関与したのは「And I Love Her 」「Things We Said Today」「Can't Buy Me Love」の3曲だけでした。
 
 
ポールは、こう語っています。「この一連の曲みたいに、アルバムに収録する曲を書くときは、ジョンは、良く空き時間に2、3曲を書いてたよ。彼は、書き終わるとそれを持ってきて一緒にチェックしたんだ。僕も曲を書いてお互いに渡す、そうやって共同作業した。でも、時間の制約があるよね、もちろん。レコーディングまで1週間か2週間位しかなかった。」
 
プレッシャーは感じなかったよ。普通の人ならプレッシャーに感じるはずだと思うけど、そう感じた覚えはないんだ。楽しかったし、すばらしかった。僕は、作詞作曲をマジシャンが帽子からウサギを取り出すマジックに例えるんだ。君は見ることはできても、タネはわからない。」
 
「僕が、今、ギターを手にして空気から何か曲を作ったら、それは凄いマジックだってことさ。さっきまで何も無かったところに、何かが現れるんだ。白い紙があって、僕達が読むことができるページができあがる。」
 
「曲も歌詞もなかったところに、今は、僕達が歌うことができる歌が存在するんだ。そんなところが楽しかった。その頃、僕達は、取り出したウサギを見て、こんなのが出てきたって驚くわけさ。」
 
 
やはり天才ですね!(◎_◎;)あれだけの短い期間に数多くの名曲を生み出し、なおかつプレッシャーを感じるどころか、むしろ楽しかったなんて…。ポールは、作詞作曲をマジックに例えていますが、マジックにはちゃんとタネがあります。プロのマジシャンですら、タネを購入することもあるんですから。しかし、作詞作曲は、何もない白紙の状態でスタートします。
 
 
この頃にはビートルズは、既にスーパースターになっていました。世界中の人々が、「彼らは、次はどんな凄い曲を作るんだろう?」と常に期待していたのです。それだけでも、十分なプレッシャーです。そのうえ、契約で彼らは、年間2枚のアルバムと4枚のシングルをリリースしなければならいないという過酷なノルマを課せられていました。それなのにハードスケジュールでゆっくり曲を作る時間も無いし、締切は刻々と迫ってくる。凡人なら逃げ出したくなる状況です。しかし、彼らは、それをプレッシャーに感じるどころか、むしろ楽しんでいたというのですから、もはや神の領域ですね。
 
 
このアルバムは、リンゴがリードヴォーカルを取った曲はありません。彼がリードヴォーカルを取った曲が入らなたかったアルバムは、これを含めて3枚だけです。
 
 
ビートルズは、1964年6月4日に14曲を収録したいと思っていました。しかし、リンゴがフォトセッションの最中に扁桃炎と咽頭炎を起こしたため、差し迫ったワールドツアーのリハーサルをやるために、ジミー・ニコルが代役としてアビイロード・スタジオに呼び出されました。
 
 
ビートルズは、予定されていたレコーディング・セッションの代わりにリハーサルを午後2時30分から5時30分まで行い、ニコルが帰った後、「You Know What To Do」「No Reply」「It's For You」のデモを演奏しました。最後の曲は、歌手のシーラ・ブラックに提供されたものです。
 
 
ビートルズがこれらの曲を全て収録しようとしていたことは知られていますが、最後の曲の収録は失敗しました。そのため、珍しく14曲が収録されるはずが13曲になってしまいました。「I'll Be Back」を最後の曲として収録しようとしていたのかどうかは分かりません。しかし、もし、その3曲のデモのうち1曲が収録されていたら、アルバムの仕上がりがどうなっていたか、興味をそそられます。
 
 
さて、(その40〕でも書きましたが、アルバムのタイトル曲である「ア・ハード・デイズ・ナイト」の冒頭の印象的な「ジャ〜ン‼️」で始まるオープニング・コードが何なのかは、長年議論されてきました。決着が付いたのは、つい最近です、つまり、50年間も議論されてきたのです。いやはや、たった1曲の話題でそれだけ引っ張れるとは、何というバンドなんでしょうf^_^;詳細は別稿に譲り、ここでは概略を説明します。
 
 
彼らのキャリアの中でも、このオープニング・コードは、最も象徴的なものといえます。1967年発表の「A Day In The Life」 の最後のピアノのコードと共に、彼らがソングライター、そして、レコーディング・アーティストとして最も創造的な段階に到達したことを示したといえるでしょう。メンバーがこの時使用した楽器は、以下の通りです。
 
 
ジョージ:リッケンバッカー360 12弦ギター
ポール:ヘフナー  500-1ヴァイオリン・ベース  
リンゴ:ラディック・オイスター・ブラック・パール・セット,ボンゴ,カウベル
ジョージ・マーティンスタインウェイ(ただし、ブリュートナーとする説もあり) グランドピアノ
 
 
ジョージが、2001年にオンラインチャットで明らかにしたところによると、Fadd9だとのことです。彼は、こう語っています。「(12弦ギターの)F/Gだよ。でも、ベースのコードの正確なことは、ポールに聞いてよ。」ポールは、ヘフナー・ヴァイオリン・ベースのD弦で、12フレットを押さえてDの音を加えています。
 
 
ジョージが種明かしして一件落着と思いきや、論争はまだこの後も続いたんです。この続きはまた後ほど。
 
(参照文献)
THE BEATLESTHE BEATLES BIBLE, THE BEATLES.COM, SUNDAY MORNING, rock's backpageslibrary
(続く)