★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その59)初の本格的なワールドツアーへ(その1)

1 まずはデンマークから

映画「A Hard Day's Night」の撮影が終了した後、1964年6月からビートルズは、初の本格的なワールドツアーへ出発しました。

 
 
ビートルズは、1963~66年にワールドツアーを1回行っただけでした。1964年6月4日にデンマークコペンハーゲンを皮切りに、オランダ、香港、オーストラリアとニュージーランドを回りました。
 
 
ところが、ツアーの出発直前にリンゴがロンドンの病院に扁桃腺炎と咽頭炎のために入院してしまったのです。ブライアンは真っ青になりました。チケットは既に発売済みで、コンサートをキャンセルすると莫大な補償金の支払いが発生します。恐らくこの頃はまだ損害保険などは無かったでしょう。

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(THE BEATLES
これが入院中のリンゴです。って、おいおいタバコなんか吸ってていいのかい(^_^;)喉の病気だろ?ツアーをキャンセルして入院するほどだったから、かなり重かったはずだけど。
 
 
そこで、代役としてジミー・ニコルが起用されました。この写真の右端の人物です。

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彼を推薦したのは、ジョージ・マーティンでした。ニコルは、ビートルズのカヴァー曲を「ビートルマニア」というアルバムでリリースしていたので、ビートルズの曲を演奏できたんです。彼は、24歳でブライアンが彼のスタジオでのプレイを見たことがあり、ポールも知っていました。
 
 
リンゴの代役を立てることについて、ジョンとポールは了承したのですが、ジョージが反対しました。「メンバーの誰一人欠けても、それはビートルズじゃない。僕は行かないよ。」と。まあ、そうは言っても上に書いたように、莫大なキャンセル料が発生してしまうので、ブライアンとマーティンがキャンセルしたら多くのファンがガッカリするからとジョージを必死に説得して、何とかツアーを始めることができました。ジョージは、後にこの時はまだ若かったから説得に応じたが、もう少し後だったら拒否していたと語っています。
 
 
一方、リンゴは、自分抜きでツアーが開始されると知り、心中穏やかではありませんでした。もう自分はメンバーから愛されていないんじゃないかと思い詰めたんです。まあ、考え過ぎだったんですけどねf^_^;)
 
 
ニコルは、6月3日にアビイロードスタジオに呼び出され、初めてビートルズの一員としてリハーサルをやり、6曲を演奏しました。彼は、急遽ヘアスタイルをモップトップに変え、翌日のフライトでデンマークへ飛ぶよう指示されました。一時的な代役とはいえ、ビートルズの一員としてツアーに参加できたんですから、彼としては天にも昇るような気持ちだったでしょう。
 
 
6月4日の朝、ビートルズは、お抱え運転手のビル・コーベットの運転でロンドン空港へ到着しました。他の乗客より優先して搭乗することになっていました。彼らは、機長とフライトアテンダントにサインしてあげました。
 
 
6,000人のファンが、コペンハーゲンで彼らの到着を待っていました。そして、デンマーク警察は、市の中心部をそっくりそのまま持ってきたかのような10,000人の立ち尽くす群衆を鎮めなければなりませんでした。彼らがロイヤルホテルにチェックインすると、ファンはドアに殺到しました。これがその時の様子です。もう暴動ですね。

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A PHOTO)
ニコルは、5日間のツアー中、ビートルマニアの嵐の中で、素早くメンバーに馴染まなければなりませんでした。彼のプレッシャーは並大抵のものじゃなかったでしょう。何せ人気絶頂の頃のビートルズでしたから。しかし、彼は、3人に温かく迎えられ、すぐに彼らと馴染むことができました。頑なに他のミュージシャンの参加を拒否していたビートルズの一員になることができた唯一のケースです。
 
 
ビートルズは、午後にセットリストをリハーサルしました、そして、ロードマネージャーのマル・エヴァンスは、彼らが演奏する曲目の進行を覚えていられるよう、彼らのギターでセットリストに上がっていた曲目をテープに録音しました。彼らのところには、デンマークの英国大使も訪ねてきました。
 
 
ビートルズは、 KBハレンという会場で2回コンサートを開催し、約4,400人のファンが集まりました。 1回目のコンサートでは、「I Saw Her Standing There」など9曲を演奏しました。ニコルは、リンゴには及ばなかったものの、彼なりに一生懸命頑張って代役を務めました。ニコルは、8回のコンサートに参加し、テレビにも出演しました。彼は、リンゴのスーツを彼の身体に合うよう仕立て直して着用しました。ニコルがリンゴに代わってドラムを演奏している貴重な写真です。後にも先にもメンバー以外がコンサートに参加したのはこのツアーの時だけでした。

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(A PHOTO)

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(TV-Fredensborg)
彼は、その後脚光を浴びることはありませんでしたが、急な代役に立てられ、しかも碌に音合わせもせず、いきなりワールドツアーに参加させられるという大役を見頃に果たしたことをポールは称賛しました。最初は反対していたジョージも、同じく彼を称賛しました。
 
 
地元デンマークのHitmakersというバンドが前座を勤めたのですが、ビートルズは、彼らに対して「Long Tall Sally」を1回目と2回目のショーの間に演奏しないよう求めました。ビートルズが演奏する予定だったからです。彼らは、最後にこの曲を予定通り演奏しました。
 
 
最初の2曲の順番は、夜の2回目のステージのために変更され、以降のすべてのツアーでは、その順番で演奏されました。夜の演奏が終わると、ステージ・アナウンサーは、ビートルズはもうステージには戻らないと観客にアナウンスしました。つまり、アンコールには応えないということです。まあ、これは、ビートルズにとっては普通のことだったんですが、デンマークのファンたちはこのことを知らなかったんでしょうね。怒った観客の一部が、鉢植えのデルフィニュームを抗議して放り投げたのですf^_^;)
 
 
ツアーが進んでいくうちに、時々、「Twist And Shout」がエンディング曲として「Long Tall  Sally」に代わって演奏されました。
 
 
ニコルはこう語っています。「ジョンは、コンサートの前夜に酒を飲みすぎて、ステージに上がった時には頭が風船みたいになっていた。豚みたいに汗をかいてたよ。」そして、ポールは、リンゴに電報を送りました。「君がいないことがこんなに寂しいとは思わなかったよ。早く良くなってね。」
 
 
これはニコルとジョン、ポール、ジョージが1枚のポストカードにサインした現存する唯一のものです。ビートルズのツアーに参加したのは彼だけですから、とても希少価値があり、9500ドルはするといわれています。

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(FRANK CAIAZZO)

2 次はオランダへ
6月5日午後1時にビートルズは、オランダ、アムステルダムスキポール空港に到着しました。
 
 
彼らは、花束とオランダの伝統的な帽子のプレゼントを受け、記者会見を開きました。
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ビートルズは、午後4時頃カフェレストランへ移動し、5時30分頃からテレビ出演のためにリハーサルを開始し、レコーディングを午後8時から開始しました。そこで彼らは、150人の観客から質問を受けました。
 
 
Long Tall Sallyの演奏が始まると、観客、特に女の子達がドンドンステージへ上がってきて、踊り始めました。その後She Loves YouとCan't Buy Me Loveの演奏の間もずっと踊り続けていたので、ニールやマル、デレク・テイラーが彼らをステージから降ろそうとしたのですが、どうしようもありませんでした。今じゃ考えられませんけどねf^_^;)
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(The Atlantic)
結局、ビートルズは、ステージを降りざるを得ませんでした。ニコルだけはそのまま演奏を続けましたが,、誰も彼には目もくれませんでした。3人は、演奏している振りをするしかありませんでした。この収録は、6月8日の午後8時30分から放映されました。
 
 
翌日の6日、ビートルズとニコルは、オランダの観光名物である遊覧船に乗り、運河を渡って出迎えてくれたファンに応えました。沿道には50,000人のファンが詰め掛け、休暇中の警察官も休暇を返上して15,000人が警備に当たりました。何と何人かのファンが運河に飛び込んで泳いで彼らの乗った遊覧船に近づこうとしました(@_@;)もちろん、警察官にすぐ取り押さえられました。

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(Fotoleren)

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(INACTIVE BLOG)

ジョージはこう語っています。「観衆の中にグルーヴィーな服を着た学生がいたのが目に止まったんで、マルに彼らにそれをどこで手に入れられるか聞いてきてくれって頼んだんだ。そしたら、マルは、ボートから飛び降りて彼らを探しに行ったよ。3時間後にホテルに帰ってきたときに、彼らと交渉して売ってもらったって言うんだ。香港へ行った時にそれをコピーして仕立ててもらったけど、素材が安物だったからオーストラリアのシドニー空港で雨に遭った時に色が落ちちゃった。」後に映画「HELP!」で彼らが着てジャケット写真にも登場する有名なケープは、この時のものをヒントに作られました。

 

 

ビートルズは、オランダで2回コンサートを開催しました。観客も一緒に歌ってますね。ステージの下段には「HONDA」の広告が見えます。

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彼らは、ブロッカー村のレセプションに招待されていたのですが、どういう手違いかそのことは知らされていませんでした。それで彼らは衣裳部屋で眠っていたんです。村人は恥をかかされた形になりましたが、この時はそれ程問題にはなりませんでした。もう少し後になりますが、フィリピンでも同じようなことがあり、その時は大変な目に遭ったんです。そのことはまた詳しく書きます。

  

彼らは、アムステルダムを後にし、香港へ向かいました。

 
3 おまけ
(その57)で「ア・ハード・デイズ・ナイトのオープニング・コードの謎」について書きましたが、日本語ではあれを「ジャ~ン」と表現しますよね。英語ではどう表現するのかフェイスブックのグループで話題になったので、スチュアート・ケンドールさんに聞いてみました。
 
 
英語では" T-C-H-A-A-A-N-N-G-G ! ! !"と表現するんだそうです。心なしか日本語より英語の方がジョージのリッケンバッカーのサウンドを再現できてるような気がしませんか?
  
(参照文献)BEATLES BIBLE
(続く)