★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その60)初の本格的なワールドツアーへ(その2)

1 香港へ
次の行き先は香港でした。 6月8日に、1,000人を超えるファンが、香港のカイ・タック空港でビートルズを出迎えました。彼らは、税関と入国審査をVIPルートで通過し、カオルーンにあるプレジデントホテルに直行して、15階の部屋に宿泊しました。

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(LIFESTYLE)

ホテルでポールと運転手のアスピノールは、24時間受付のオーダーメードのスーツを注文しました。当時、香港はイギリスの植民地だったので、そういうサービスは普通だったんです。ポールは、カオルーンの街をぶらつこうとしたのですが、目ざといファンに見つかってしまい、すぐにホテルに引き返しました。ニコルは、顔を知られていなかったので、自由に行動することができました。


ビートルズは、その夜にホテルのコンベンションホールで開催されるミス香港コンテストに招待されていました。しかし、彼らは、アムステルダムからの長旅の疲れと飛行機の遅れのため、出席をキャンセルし、主催者をガッカリさせました。でも、ジョンは、女性と会うのが嫌いではないタイプだったので、彼女達に挨拶するために何とかホールまで降りて行きました。

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ビートルズは、6月9日、プリンセスシアターで2回公演を行いました。ジョンは、1964年にこう語っています。「香港の新聞に『ビートルズは、静かな観客に負けた。』って書かれたよ。観客は、他の会場よりは静かだったね。」


コンサート会場は1,700席あったんですが、驚くべきことに売れ残りが出ました。ビートルマニア現象は香港にも及んでいましたが、主催者が、当時の一週間の平均賃金に当たる75香港ドルに入場料を設定したため、多くのビートルズファンは、彼らの演奏を聴くことができなかったんです。当時の香港ドルは、1香港ドル=0.129米ドルでした。ってことは、当時の日本円だと約47円です。75香港ドルだと3,525円です。消費者物価を考慮して今の貨幣価値に換算すると14,100円位ですかね。今なら普通でしょうけど、1960年代の香港ですから、これはかなり高かったんじゃないでしょうか?


日本は高度経済成長の真っ只中で、オリンピックも開催するほどの経済力がありましたが、当時の香港はそれ程ではありませんでしたから。因みに、1966年の日本公演のチケットは、A席2,100円、B席1,800円、C席1,500円でした。これと比較してもかなり香港ツアーのチケットは高かったようですね。


それに香港はイギリスの植民地だったとはいえ、やはり中国ですからまだまだ西洋文明がそれ程受け入れられていたわけではありませんでした。ですから、ビートルズを知らない人も多かったんです。しかたなくプロモーターは、売れ残ったチケットをタダで軍隊に渡しました。ですから、会場には軍服を着た軍人が大勢いるという、なんだか戦場へ慰問に来た音楽隊みたいなことになりました(笑)おそらくビートルズ史上、プロモーターが赤字になった唯一のコンサートではないでしょうか?


ポールは、こう語っています。「香港は、狭い場所で小さく平坦な会場だった。観客は、まるでカーキ色の軍服を着用した軍人みたいに整然と聴いていた。演奏はしたけど、それ程良い感じではなかった、演奏は良く聴こえたとは思うけどね。」いや、ポール、それ、本物の軍人だったんだよ、多分。


欧米人と異なり、アジア人は、コンサートで絶叫することにまだ慣れてなかったようです。それに、高いチケットを買えるかなりセレブに近い人が多かったので、上品だったのかもしれませんね。


2 オーストラリアへ

ビートルズは、ファンに見つかるととても危険だと考え、香港を観光することはしませんでした。6月10日、彼らは、オーストラリアのシドニーへ向けて飛び立ちました。
 
 
彼らの搭乗した飛行機は、シドニーへ向かう途中で、ダーウィン空港に給油のため着陸しました。これは当初のスケジュールには無かったのですが、6月11日午前2時35分に空港に着陸した時には、400人のファンが彼らを出迎えていました。しかし、当初のスケジュールには無い着陸だったのに、ファンは、彼らが搭乗している便だと良く分かりましたね。
 
 
ビートルズシドニーのマスコット国際空港に降り立った時は、2,000人のファンが出迎えていました。生憎、寒くて激しく雨が降っていたのですが、彼らは、オープン・トラックの屋根を開けてパレードし、ファンに応えました。

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運転手のニール・アスピノールは、こう語っています。「僕達が空港に着いた時は大雨だった。飛行機を降りるとビートルズは、屋根を開けたトラックに乗せられたので、ファンは彼らを見ることができた。彼らは、傘を持ち、香港製のコートを着ていた。運転手は、1時間に1マイル(約1.6km)のノロノロ運転をしていたので、ジョンが身を乗り出して『急いで!急いで!」と急かしたんだけど、ちっともスピードを上げなかった。」
 
 
恐ろしいことに、一人の女性が、「ポール、この子を受け止めて!」と叫びながら、6歳の精神障がいを持つ息子をビートルズに投げ付けたのです。彼女は、ビートルズが息子の世話をしてくれると考えたのです。幸いなことにポールがその少年を受け止め、トラックを停車できたので、恐れおののいたその少年はすぐ母親の元に戻されました。
 
 
いやはや、何とも危ないことをするものです((((;゚Д゚)))))))彼女も切羽詰まっていたのでしょうが、ビートルズは、ミュージシャンであって、救世主じゃありません。しかし、彼女の目にはそう写ったのでしょう。まあ、彼らの人気がいかに凄まじかったかが分かるエピソードの一つではあります。
 
 
ビートルズは、空港でのパレードが終わると、入国審査と税関を通過し、記者会見を行いました。彼らは、シドニーのポッツポイントにあるホテルに到着しましたが、荷物の到着は遅れていました。しかし、ジョンとポールは着替えを持っていたので、着替えることができました。ジョージは、バスタオルを羽織ってバルコニーに立ち、ファン達に手を降りました。
ジョージは、こう語っています。「僕は、元々バルコニーから手を振るのは嫌だったんだけどね。『手を振って〜!』とファンが叫ぶんだ。すると、いつもデレックが窓の外から手を振ってやったほうが良いよとサインを送って来たんだ。」
 
 
ビートルズは、ホテルを出ることはできませんでしたが、インタビューを受け、記者会見を行い、写真撮影にも応じました。その後、何人ものコンサートの主催者と地元の有力者に挨拶しました。 

 

ビートルズは、チャーター機でシドニー空港からアデレード空港まで飛びました。そして、午前11時57分に到達しました。彼らを一目見ようと、アデレード空港から都心まで約16kmに亘り、沿道に30万人の群衆が集まりました。3万人以上の群衆が市役所を囲みました。そこで、彼らは議員と彼らの家族、市長に会いました。 

 

ビートルズは、ぬいぐるみのコアラをプレゼントされました。「どこに行こうと、世界のどこであろうと、アデレードでのこの歓迎を僕達は忘れません。」と、ジョンは歓迎のレセプションで挨拶しました。

 

しかし、30万人ですよ、30万人!写真を見ても分かりますが、立錐の余地もありません。酸欠で倒れそうになりますf^_^;)

 

ポールは、これだけのファンが出迎えてくれたことに感激しました。ただ、いきなりスターダムにのし上がったのなら有頂天になったかもしれないが、リヴァプールの下積み時代から徐々に階段を登ってきたので、決してそんなことはなかった。出迎えてくれたファンの気持ちが痛いほど良く分かったので、全く疲れは感じなかったと語っています。


彼らは、ファンの声援に応えて親指を立てる仕草をしたんですが、それってオーストラリアでは卑猥な意味を示すポーズなんですf^_^;)もちろん、彼らはそんなことは知りませんでした。余談ですが、タイやイラクでも同じなので、これらの国々に行った時は、くれぐれもやらないように気をつけましょう。

 

3 リンゴが合流

2週間後に回復したリンゴは、6月14日、オーストラリアの メルボルンで合流しました。アデレードのタウン・ホールでの公演の際は、集まった30万人から大歓迎を受けました。リンゴは、マネージャーのブライアンと共にシドニー空港で記者会見を行った後、メルボルンのエッセン空港へ飛び立ちました。 5時間後に残りの3人が到着した頃には、既に大勢のファンが集まっていました。

 
リンゴは、こう語っています。「僕は、他のメンバーを放っておけなかった。それで、彼らを追い掛けてオーストラリアまで行ったんだ。空港には何人か人がいたけど、僕は、反射的に自分の目で他のメンバーを探したんだ。もう耐えられなかった。メルボルンでみんなと合流したよ。飛行機は怖かったよ。2時間飛んだんだけど、恐ろしいほど長く感じた。僕には飛行機が奈落の底へ堕ちるような気がしたよ。」
 
「オーストラリアは素晴らしかった。もちろん、メンバーに復帰できたこともね。他のメンバーは、僕の為に香港でプレゼントを買ってくれてたんだ。」
 
 
どうやらこの頃、彼は、「ビートルズをクビになる。」と本気で思い込んでいたようです。そんなことはあり得なかったんですがね(笑)
 
 
メルボルン・サザンクロス・ホテルにリンゴとブライアンが到着した時には、3,000人のファンが出迎えていました。その間、他の3人は、アデレード・ホテルを12時15分に出発し、チャーター機でメルボルン空港へ飛び立ちました。そこには、5,000人のファンが出迎えていました。
 
 
ホテルでは大勢の群衆が彼らを一目見ようと集まっていたため、陸軍と海軍が出動して警備にあたりました。今じゃ、どんなスーパースターが来ても、ここまでやらないでしょう。当時の過熱ぶりが、いかに凄まじかったかが良く分かります。

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(The Week)
ビートルズは、12台の白バイに先導され、4時にメルボルンへ向かって出発しました。彼らは、サザンクロスホテルの駐車場の入口に到着し、パトカーが方向転換して車を寄せました。大混乱の中で300人の警官と100人の軍隊が、騒ぎ立てる群衆からビートルズを護衛していました。150人以上の少女達が失神し、50人がケガで病院へ運ばれました。ビートルズは、騒ぎを落ち着かせるために、1階フロアの窓からファンに手を振るよう求められました。
 
 
4人全員が集合し、リンゴの代役を務めたジミー・ニコルも同席して記者会見が行われました。その夜、歓迎パーティーが開かれましたが、ニコルは出席せず、午前4時まで続きました。
 
 
ビートルズは、1964年6月11日にシドニーに到着しましたが、この日はコンサートはやりませんでした。彼らは11時40分にシドニー市に飛行機で到着し、1200人のファンが空港で彼らを出迎えました。300人の警官が警備に当たりました。ビートルズは、シェヴロンホテルに到着し、そこでオーストラリアでの記者会見を開きました。
 
 
彼らは、15日から6回のナイトコンサートを行いました。どのコンサートにも1,200人の観客が入りました。その時にはもう当たり前のことになっていましたが、ビートルズは、ファンから投げ付けられるジェリービーンズの嵐に見舞われました。それは、ジョージが1963年の記者会見でポロっと漏らした「ジェリービーンズが好きだ」という発言が原因です。
 
 
ジョージは、こう語っています。「あの時以来、バカみたいに話が広がって、アメリカ、ヨーロッパそれにオーストラリアでも、ジェリービーンズにウンザリする程見舞われたよ。」ポールは、コンサートの途中で2回演奏を中断して、「お菓子を投げないで」と観客に呼びかけました。しかし、彼の呼びかけは無視され、演奏が始まると再びお菓子の嵐に見舞われました。これも警備が厳重になった今じゃ考えられませんけどね(^_^;)この頃のコンサートは何でもありでしたから。
 
 
1964年6月18日は、ポールの22歳の誕生日でした。ホテルでパーティーが開かれました。彼は、 17人の少女達からプレゼントをもらいました。彼女たちは、デイリー・ミラー紙が企画した「なぜ私は、ビートルズの誕生パーティーへ招待されたいのか?」というテーマに答えるというコンペを勝ち抜いて選ばれた少女達でした。リンゴは、酔いつぶれて午前3時にパーティーから退席しました。
 
(参照文献)BEATLES BIBLE
(続く)