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★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その65)「FAB4」の名付け親、トニー・バーロウを偲ぶ

1 「FAB4」の名付け親

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The Telegraph)

ビートルズの最初の広報担当だったトニー・バーロウが、2016年5月14日、ランカシャーのモーカムの自宅で亡くなりました。80歳でした。彼は、ビートルズ​に「FAB4」という親しみやすいニックネームを付けたことで有名です。

 

2 ビートルズの最初の広報担当になるまで

彼は、ビートルズのセカンドアルバム「WITH THE BEATLES」のレコード解説で、収録曲の「DON'T BOTHER ME」について触れ、「ジョージのダブルトラッキングされたヴォーカルのバックで、他のfabulous foursome (素晴らしい4人組)は、普通では考えられない演奏効果を創り出している」と書きました。ここで彼が使った「fabulous foursome」と言う言葉が省略されて「FAB4」となり、広く使われるようになったのです。つまり、「FAB4」というのは、彼が書いたレコード解説の中で、それもたった一言だけ使われただけなんです。もちろん、これを書いたバーロウ自身も、まさかこの言葉が一人歩きして、50年以上経った今でも世界中で使われるようになるとは思いもしなかったでしょう。それだけ、この言葉が魔法のような魅力を持っているということでしょう。

 

デッカがビートルズとの契約を拒否した後、ブライアンは、バーロウの宣伝マンとしての巧みな才能に着目し、20ポンドを渡してビートルズのプロモーションとEMIとのコンタクトを支援するよう依頼しました。その頃、彼は、デッカレコードでレコード解説を書いていましたが、ブライアンからスカウトされ、ビートルズがデビューした1962年から6年間ビートルズの広報担当を務めました。その仕事に掛かる前に、彼は、1962年11月にウェストエンドのパブでビートルズの4人に会いました。その時、ジョンは、彼に鋭い質問を浴びせました。「あなたがホモでもユダヤ人でもないとしたら、どうしてブライアンと一緒に仕事をしようと思ったんですか?」

 

そりゃ、ジョンが疑問に思ったのも当然ですよね。デッカ・レコードの正社員の地位を捨てて、ビートルズなんてリヴァプールという田舎の無名のバンドのスタッフになろうなんて正気の沙汰とは思えません。しかも、彼らは、デッカのオーディションに落ちてるんですよ。26歳のバーロウにとっても、これは賭けでした。彼がその時点でビートルズに才能を見出していたのかどうかは分かりません。


ただ、裏話ですが、彼は、デッカ・レコードの正社員でありながら、偽名を使い、リヴァプール・エコーという会社で、ビートルズのデビュー・シングル「LOVE ME DO」のレコード批評を書いてちゃっかり小遣い稼ぎをしてたんです。その時、彼は、「聴いたこともないような心に突き刺さるハーモニカの伴奏」とか「単純な歌詞の繰り返し以外に目を引くものは何もない。しかし、それは人の耳を傾けさせるだけのパンチの効いたプレゼンテーションである。このシングルをぜひ自分で聴いてさわやかな気分になってもらいたい」なんて批評を書いています。この気の利いた解説がブライアンの心を掴みました。

 

何とブライアンは、彼を獲得するために、当時、彼が得ていた週給の倍に相当する32ポンドを払うと提案してヘッドハンティングしたのです。彼の目に狂いは無く、バーロウは、ビートルズの広報担当として大活躍し、ビートルズの「メディア対策専門家」とまで呼ばれるようになりました。特に、ビートルズの前期に彼らをメジャーにするために彼が果たした功績は多大なものがあります。それにしても、ビートルズといい、バーロウといい、ブライアンの人の才能を見抜く資質には驚嘆すべきものがありますね。しかも、これはと見込んだ人物には金を惜しまないんです。

  

3 広報担当となってから

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The Telegraph)マイクを握っているのがバーロウ

バーロウの仕事は、ビートルズのアルバムのレコード解説を書くことでした。バーロウは、1963年にビートルズがリリースしたEP「TWIST AND SHOUT」のレコード解説でこう書きました。「ジョンは、喉に炎症を起こしていたにも関わらず、この激しくエキサイティングな曲を歌い切らなければならないと固く決意したのだ!」このEPは、歌手のトム・ロビンソンが初めて買ったレコードですが、彼は2007年にガーディアン紙に「トニー・バーロウのレコード解説はあらゆる金銭に匹敵する価値がある。」と書いています。それだけではなく、ビートルズの広報を一手に引き受け、彼らがイギリス全土やがては全世界を制覇する上で重要な役割を果たしました。

  

1963年にビートルズが始めて成功を収めてからも、バーロウは、ブライアンの方針に従い、ジョンが既に結婚して子供までいることをその5月まで公表しませんでした。その3年後、アメリカツアー中にジョンがやらかした有名な「ビートルズはキリストより人気がある」という失言から始まった大スキャンダルに対する謝罪を指揮したのも彼でした。また、ビートルズがフィリピン公演を終えた後、マルコス大統領夫妻からの晩餐会への招待を断ったとして(これは誤解だったのですが)、マニラ空港で激怒した大群衆に囲まれ窮地に陥った時に、彼らを無事に帰国させたのも彼でした。

  

4 キャンドルスティックパークでのラスト・コンサートの録音

バーロウはまた、ビートルズのラスト・コンサートとなった(ルーフトップ・コンサートを除く)アメリカのキャンドルスティックパークのコンサートで、ポールからの依頼により、当時はまだ珍しかった携帯用のカセットテープで演奏を録音したことでも知られています。そのテープは片面30分録音できたのですが、彼は、うっかりA面をB面にひっくり返すことを忘れたため、ラストナンバーの「LONG TALL SALLY」が途中で切れてしまいました。まあ、出回ったばかりで扱い慣れていなかったからしょうがないですねf^_^;

 

この時のことについて、彼は、こう語っています。「これがラスト・コンサートになるだろうということは、ビートルズもスタッフも分かっていた。」

「ポールは、コンサートが始まるほんの数分前に『カセットレコーダー持ってる?』と私に尋ねた。私は『もちろん持ってるよ』と答えた。すると彼は、『コンサートを録音しといてよ』と言った。」

「それで私は、文字通り、マイクをフィールドの真ん中に置いた。」
「それは、個人的にはご褒美といえる出来事だったし、素敵なことでもあった。ただ、他の出来事との唯一の違いは、それ自体はそれ程凄いことではなかったということだ。」
「シェイスタジアムの時にはそんなことは無かったし、この時も特別なことは何も無かった。ただ、彼らは、それまでになくアドリブを入れていたことを除いてはね。」

 

彼らもこれがラスト・コンサートになるだろうという共通認識があったため、万感の思いを込めてそれまでやらなかったアドリブを入れたのでしょう。そして、バーロウは、ポールにテープを渡し、さらに一つだけコピーしたテープを自分のオフィスの机の引き出しに入れて鍵を掛けていたんですが、いつの間にか流通してしまいました。多くの海賊版が出回っていますが、どういう経緯でそうなったかは分かりません。しかし、この音源は、ポールに渡す際に、既に途中で切れてしまっていた「LONG TALL SALLY」に、スタジオテイクが繋げられていたということです。このテープは、後に「Beatles' Last Concert At Candlestick Park 1966」としてリリースされたCD、DVDの音源となっています。

 

バーロウは、こう語っています。「サンフランシスコ空港の機中で離陸を待っていると、ポールが私の座席に来て声をひそめて『テープ録音しといてくれた?』と聞いた。私は彼にカセットレコーダーを返した。「録音したんだけど、『LONG TALL SALLY』の途中でテープが切れちゃったよ。」
「彼は、曲と曲の間のアナウンスや彼らの目立つアドリブも全部入っているかどうかを尋ねた。私は、『一曲目の前に入れたギターのフィードバックも入ってるよ。』と答えた。」
「彼は、FAB4が素晴らしいコンサートを行った歴史的な夜を証明するであろうユニークなお土産を手に入れることができて、明らかに喜んでいた。」
「ロンドンに戻り、私は、個人的なコレクションにするためにコピーしたカセットテープをオフィスの机の引き出しの中に入れて鍵を掛け、オリジナルのテープはポールに渡した。」
「何年か後にキャンドルスティックパークのコンサートのライヴアルバムの海賊版が出回った。」
「『LONG TALL SALLY』が途中で終わっているなら、それは、ポールか私のテープのどちらかをコピーしたものに違いない。しかし、誰が盗んだのかは分からない。」

 

5 その後のバーロウ

ブライアンは、1967年に32歳の若さで亡くなりました。このことがビートルズの解散の遠因となったことは否めません。翌年、バーロウもビートルズの元を去ります。もしもですが、バーロウがブライアン亡き後、ビートルズのマネジメントを引き継いでくれていたら、もう2~3年、解散は先に延びたかもしれません。しかし、ビートルズ側からそんなオファーがあったという事実も、バーロウが持ち掛けたという事実もありません。

 

彼は、1963年から1980年に引退するまで他のアーティスト、シーラ・ブラック、ジェリー・アンド・ザ・ペースメーカーズなどを担当しました。後に自身で広告代理店を設立し、ポールのソロ・グループであるウィングスなどを担当し、ヘレン・シャピロのマネジメントも行いました。

(参照文献)

The Telegraph, theguardian, meet the beatles for real

(続く)