1 ビートルズからのスカウトを断った!
(1)ビートルズがメンバーとしてスカウトした
ヤングによると、ビートルズと彼はとても良く息が合っていたので、彼らは、マネージャーのブライアン・エプスタインを通して、彼にメンバーとして加入するようスカウトしたんです。
ヤング自身は、当時を回想してこう語っています。
「ハンブルクのスタークラブは、1962年4月13日にビートルズのデビューとともにオープンした。私はクラブのレギュラー・ピアニストだった。私は、私の名前をデザインしたピアノと、ハモンドオルガンを持っていた。」
「私は、ジェリー・リー・ルイスのロックスタイルで演奏し、イギリスのテレビに出演したり、クリフ・リチャードとツアーしたりしていた。」
「私は、ビート・ブラザーズ、つまり、トニー・シェリダンが率いていたバンドに参加し、その時、ロリーストームにいたリンゴと一緒に演奏した。ビートルズは、私の演奏スタイルをとても気に入って、いつも私と一緒にプレイしてくれた。」
当時のスタークラブのポスターです。下に小さくビートルズとともにヤングの名前が印刷されています。
「ある夜、私たちはビールを飲んでいたが、ジョン、ポールとジョージは、リンゴのことをどう思うか私に尋ねてきた。私は、彼が素晴らしいドラマーであることは確かだと応えたが、リンゴと親しかったポールとジョンは、ピートとはうまくいっていないんだなと感じた。」
「数日後、ビートルズのパフォーマンスが終わった後で、ブライアン・エプスタインは、「ねえ、ロイ、ビートルズがイギリスへ戻って、彼らと一緒にレコーディング契約にサインしてほしいと言っているんだ」と言って私に近づいてきた。私は、ちょっと驚いたが考えてみると返事した。」
何と、ビートルズがマネージャーのブライアンを通じて、ヤングに対し、メンバーに加入しないかとスカウトしたのです!この頃、彼らは、メジャーデビューを控え、ドラマーのピートに見切りをつけていて、リンゴをハリケーンズから引き抜こうと考えていました。
それに留まらず、ヤングもメンバーに加えようとしていたのです。ビートルズが、彼の実力をいかに高く評価していたかが窺えますね。
(2)ビートルズからのオファーを断った!
しかし、ヤングは、この申し出を断ってしまいました。
「私は、丁重に彼の申し出を断り「ねえ、ブライアン、僕は、家も車も持っていて、非常に良いギャラをもらっているし、ありがたいことにスター・クラブと3年契約を結んでいるんだ。僕の生活は保障されているんだよ。僕があなたと一緒にビートルズに参加することで得られるものが何かあるのかい?」そう言って私は笑った。でも、やがて私は、とんでもない大魚を逃がしたことに気がつくことになった。」
もし、ヤングがビートルズと同じように安いギャラで働いていて、何の生活の保障もなかったとしたら、このオファーにすぐに飛びついたでしょう。しかし、幸か不幸か彼は、十分なギャラをもらっていて、生活の心配はありませんでした。運命というのは皮肉なものですね。
「人間万事塞翁が馬(人生における幸不幸は予測しがたい)」という中国の故事がありますが、人にとって何が幸いするか災いになるか分かりません。
「私は、ハンブルクに住み慣れていて離れたくなかったんだ。私は、ブライアンにノーと返事したが、彼のオファーには感謝した。彼らは、地球上で最高の音楽的存在になったが、私は家族を持たず、今日という日を大切に生きているので、後悔してないよ。」
おそらく、これは強がりでも何でもなく、彼の本音だと思います。実力がないために解雇されたピートとは対照的に、彼は、ビートルズから十分な実力を認められながら、彼らからのオファーを断ったのです。「5人目のビートル」が消えた瞬間でした。モーツァルトの未完成交響曲になぞらえるのは恐れ多いでしょうか?
(3)もし、ヤングがビートルズのメンバーになっていたら?
もし、彼がビートルズからのオファーを受けていれば、ビートルズの一員としてデビューし、キーボードを担当したでしょう。そうすると、必然的にビートルズのサウンドは、デビュー当時からキーボードが加わることになり、かなり違うものになった可能性が高いと思います。
しかも、彼は、ピアノに加えヴォーカルもでき、作曲もできましたから、「レノン=マッカートニー=ヤング」というクレジットが誕生したかもしれません。歴史に「たられば」はありませんが、そう思うといかにも惜しい気がします。
彼がビートルズからのオファーさえ受けていれば、実力からして5人目のビートルとなったのは確実であり、デビュー当時から5人編成のバンドとなったのです。ただ、リンゴの加入と時期が重なるので、どちらが先に4人目のビートルになったかは何とも言えませんね(^_^;)
2 その後のロイ・ヤング
ヤングは、イギリスに戻り、イギリスのトップロックンロールバンドであった「Cliff Bennett and the Rebel Rousers」に参加し、「One Way Love」「Got To Get You Into My Life」などを演奏しました。二つ目の曲は、もちろんビートルズの曲で、ポールがプロデュースしました。
ビートルズの解散後、ポールがWingsを結成したとき、彼は、妻のリンダにピアノのレッスンをして欲しいとヤングに依頼しましたが、彼はツアーに出発するところだったので断りました。
1970年代に入ると、ヤングは、アルバム 「Roy Young Band」「Funky」を収録しました。「Rag Mama Rag」という曲は、リトル・リチャードを彷彿とさせ、ビートルズの「Lovely Rita」は、魂の叙事詩へと見事にアレンジされました。
1971年にはロイ・ヤング・バンドを結成し、ツアーでチャック・ベリーを一時的にサポートしました。
3 数多くのアーティストから絶賛された
(1)名だたるアーティストたちがこぞって絶賛した
また、ヤングは、クリフ・リチャード、デヴィッド・ボウイ、ジェフ・ベック、ディープ・パープル、エリック・クラプトン、ジーン・ヴィンセント、ビル・ヘイリーといった錚々たるアーティストたちとツアーやレコーディングを行いました。
数多くのアーティストがヤングを称賛しました。チャック・ベリーは、滅多に他のアーティストを褒めない人でしたが、ヤングの演奏は「私にジョニー・ジョンソン(チャック・ベリーのサイドマンのピアニスト)を思い起こさせる。」と称賛しました。
また、アニマルズのエリック・バードンは「ヤングは、リトル・リチャードを彷彿とさせる、この惑星で最も魅力的なヴォーカリストである。」
ジョン・レノンは「ロイ・ヤングが学んだ本から歌い方を学べば、私たちは皆「偉大な」存在になるだろう。」ポール・マッカートニーは「私たちのサウンドはリトル・リチャードに驚くほどそっくりで、偉大な存在であることに疑いはなかった。」と称賛しました。
(2)デヴィッド・ボウイのアルバムに参加
デヴィッド・ボウイは、ヤングのSpeak easyでのパフォーマンスを観て、彼のサポートとなるようオファーしました。ヤングは、ボウイの1977年のアルバム「ロー」でキーボードを演奏しました。
ボウイは、「ロイ・ヤングは、早期、中期、現代といつの時代においても、ピアノの偉大な先駆者である。誰にも知られている成功したアーティストとしての立場から言わせてもらえば、ロイ・ヤングは、我々の時代の最も優れたミュージシャンの一人である。」と称賛しました。
4 最大の賛辞は「イギリスのリトル・リチャード」
このようにヤングを称賛する声は多数ありましたが、彼の最も有名な称号は、「イギリスのリトル・リチャード」であり、彼は、そう呼ばれることに満足していました。
ヤングは、リトル・リチャードと共演したことを振り返ってこう語っています。「リトル・リチャードは、ハンブルクのゲスト・スターだった。私は、彼の持ち歌の一つを演奏していた。」
「私は、パワフルな声を出していた。その時、トニー・シェリダンから注意されたんだ。気が付かないうちに私は、ピアノに昇ったり降りたりしていた。このパフォーマンスは、リトル・リチャードがやっていたことだったんだ。」
「私は、リチャードに「すいません、あなたのマネをしてしまって。このパフォーマンスはあなたしかやっちゃいけないのに。」と謝ったら、彼はこう言ったんだ。「いや、君のサウンドはすごかった。僕が歌っているみたいに聴こえたよ。」それは、私がそれまで受けた中で最大の賛辞だった。」本家のリチャードに褒められたことが、よほど嬉しかったんでしょうね。
ヤングは、ビートルズのフェスティバルに出演し、2013年の「レノン・バミューダ」のトリビュート・アルバムでは、ジョー・コッカー風の「Nowhere Man」をレコーディングしました。
彼の友人で時々パートナーを務めたハウイー・ケイシーは、「ロイは、素晴らしい歌手だった。彼は、未だにFとGのキーでリトル・リチャードの曲を歌えるんだ。本人ですらもうできないというのに。」
ヤングは、多くの人々に惜しまれつつ、2018年4月27日、オックスフォードの地で83歳でこの世を去りました。
(参照文献)Songs We Were Singing, fyi music news, INDEPENDENT, The Beatles: 100 Historias
(続く)
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