★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(179)ビートルズ最初の公式作品は音楽ではなかった

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1 PAシステムをビートルズに貸し与えた

(1)当時の最新機器を導入

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前回に続いてビル・ハリーの回想です。

「我々は、大学でダンスをやりたくてグループを作ったが、当時、彼らは名前を決めていなかったので、私は、彼らを学生バンドと呼んでいた。スチュと私は、組合の資金を使って、彼らが使えるPAシステムを購入した。でも、彼らは、それをもっていったきり返してくれなかったよ!」

 

1960年代初頭といえば、バンドの間でPAシステムがようやく普及し始めた頃です。ビートルズは、まだアマチュアバンドだったのに、驚くべきことにハリーは、もうすでにこの先進的なシステムを導入して、ビートルズに貸し与えていたんですね。相当高価だったはずです。

それにしてもビートルズは、生協から借りた機材をちゃっかり自分たちのものにしちゃったんですね(^_^;)しかし、そのことがスチュアート・サトクリフにとっては、裏目に出てしまったかもしれません。

(2)スチュアートには裏目になった?

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ハリーは、こう語っています。

「私は、このことが、スチュがハンブルグからリヴァプールに戻ったときに、ATD(Art Teachers Training Diploma 芸大の教員資格)を取得できなかった原因ではないかと疑っている。その結果、彼はハンブルクに戻り、私は、二度と再び彼に会うことはなかった。」

これがスチュアートとハリーとの永遠の別れになるとは、お互い知る由もありませんでした。

ビートルズは、ジャカランダのホールで演奏を始め、ヴァージニアと私を呼んでくれた。演奏を観た後、我々は、しばしば詩の朗読を聴くためにマウント・プレザントの通りをぶらぶら歩いていると、スレイター・ストリートの入口でポールとドット・ローヌ、ジョンとシンシアをよく見かけた。」

ドット(ドロシー)・ローヌは、当時、ポールのガールフレンドでした。彼女についてもまたお話する機会があると思います。

2 マージー・ビート創刊

(1)ビートルズの広報紙となった「マージー・ビート」

「1960年、ヴァージニアと私は、新聞を発刊する企画を始めた。ビートルズのプロモーションに役立った新聞「マージー・ビート」を創刊した時、私はディセンターズとして誓ったことを実現したのだ。」

前回お話しした通り、彼は、ジョン、スチュアート、ロッドの四人でザ・ディセンターズというグループを立ち上げ、リヴァプールを有名な街にしようと誓いを立てました。マージー・ビートの創刊により、彼は、メンバーの中で一足早くその誓いを実現したことになります。

これが1961年7月6日の記念すべき創刊第1号の一面です。

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(2)ビートルズの伝記が記事に

「1961年7月6日に第1刊を発刊した。私は、ジョンに依頼して彼の最初の作品となったビートルズについての短い伝記を書いてもらい、それを2ページ目に掲載した。彼がタイトルをつけていなかったので、私は『ビートルズの奇妙な起源についての短いお話~ジョン・レノン翻訳』とタイトルを付けた。」

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「ジョンが書き、描いた事実のすべてを掲載したら、彼は、とても驚き喜んでいたよ。それで、彼は、今まで自分が書いたものを事務所に持ち込んで、それを全部やるから好きなようにしてくれと言った。」

普通ならいくらか編集するところでしょうが、ハリーは、ジョンの作品のクオリティーの高さを認めて、一言一句も変えずそのまま記事として掲載しました。自分たちのことが新聞の記事に掲載されて喜ぶジョンの姿が目に浮かびます。

それにしても、ビートルズが公式に発表した最初の作品は、音楽ではなく彼らについての伝記だったとは意外ですね。

(3)ジョンが執筆したビートルズの伝記

これが、ビートルズが初めて公表した作品です。ちょっと長くなりますが、全文を掲載します。

「かつてジョン、ジョージ、ポールという名の3人の少年がいました。彼らは、やりたいことが同じだったので仲間になろうと決めました。彼らは仲間にはなったものの、何をしていいか分かりませんでした。」

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「突然、彼らは、ギターを弾き出し、騒音を出し始めました。面白いことに、誰も3人の小さな少年たちには興味を示しませんでした。それで、4人目の彼らよりもっと小さなスチュアート・サトクリフという名の少年を見つけ、『君は、ベースギターを手に入れなさい。そうすれば上手くいくから。』と口説きましたが、彼は、それを上手く演奏できませんでした。そこで、彼らは、彼が演奏できるようになるまで辛抱強く待つことにしました。」

「それでもまだビートがなく、ある老人が『ドラムがないよ!』と親切に教えてくれました。私たちはドラムがなく絶望的でした!そして、ドラマーがやって来ては去っていきました。」

 

「突然、スコットランドで、ジョニー・ジェントルと一緒にツアーを行ったグループ(ビートルズと呼ばれていた)は、アンプを持っていなかったので、素敵なサウンドが出せないことに気づきました。彼らは、いくつかを手に入れました。」

「多くの人がビートルズって何?何でビートルズなの?ああ、ビートルズね、名前はどうやって付けたの?と尋ねました。それで、僕たちはあなたに語ります。」

「ここに一つの映像があります。火のついたパイの上に男が現れ、彼らに語りました。『今日からあなたたちはビートルズと名乗り、スペルをAにしなさい(BeetlesではなくBeatles)」と。彼らは、『ありがとう、ミスター・マン」と彼に感謝しました。」

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「そして、ひげをそった男が言いました。『あなたたちは、ドイツのハンブルクへ行き、地方の人たちのために素敵なロックを演奏して沢山のお金を稼いだらどうかね?』それで、僕たちは、お金のためなら何でもすると答えました。」

「しかし、僕たちは、出発する前にドラマーが必要だったので、ウェストダービーのカスバと呼ばれるクラブにいたピート・ベストに『やあ、ピート、ドイツへ行こうぜ!』と呼びかけると彼は『うん、ズ~~~~ム』(テレビで良くやるカットを切り替えた瞬間移動でしょう(笑))」

「数か月後、ピーターとポール(ジム・マッカートレイの息子、マッカートレイと呼ばれる)はキーノ(映画館)に放火し、ドイツ警察は『悪いビートルズよ、あなたたちは、放火するなら家に帰ってイギリスの映画館にしなさい。』と言った。ズ~~~~ム、グループの半分は家に帰りました。」

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「しかし、これ以前にも、ゲシュタポナチスの悪名高い国家秘密警察)は、私の友人であった少年ジョージ・ハリスン(彼はたった12歳でドイツで投票するには若すぎたので)を帰国させました。しかし、彼は、2か月後イングランドで18歳になり、ゲシュタポが『来ても良い。』と言いました。」

「突然、全員がリヴァプール村へ戻りました。そこでは、多くのバンドはグレーのスーツを着て演奏していました。ジムが『なぜ、君たちはグレーのスーツを着ないのかね?』と尋ねると、彼らは、『僕たちはスーツが好きじゃないんだ。』と応えました。」

 

「クラブで演奏した後、みんなが『ドイツへ行こう!』と言いました。それで、私たちは、ドイツへ行きました。ズ~~~~ム、スチュアートはいなくなりました。ズ~~~~ム、ジョン(ウールトンの)ジョージ(スピークの)ピーター&ポール。みんないなくなってしまいました。」

「クラブメンバーに感謝します、友人のジョンとジョージより」

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ジョンは、ビートルズの結成からハンブルクでの巡業などのエピソードを巧みに織り交ぜ、ビートルズの伝記としておとぎ話風の作品を作りました。ビートルズの中期から後期にかけて冴えわたった、彼独特の幻想的な感性を反映した歌詞の到来を予感させる、なかなか面白い仕上がりになっています。

彼には音楽だけではなく、文学の才能もあったということです。ハリーが編集しないで記事にしたのも納得がいきます。

面白いのは、「火のついたパイ」という言葉です。原文では「flaming pie」となっていますが、1997年にリリースされたポールのアルバム・タイトルと収録曲が同じ言葉を使っているんです。
彼は、この単語を1996年2月の朝、乗馬中に思いつきました。それから急いで歌詞を製作しました。おそらく、ジョンが伝記の中で使った言葉をふいに思い出したのでしょう。

 

(参照文献)The Internet Beatles Album, Mersey Beat

(続く)

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