★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(190)レコーディングのマジシャン〜ジェフ・エメリックを偲ぶ(その1)

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1 突然の訃報

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ビートルズのレコーディング・エンジニアだったジェフ・エメリックが、2018年10月2日に72歳で心臓発作のため亡くなりました。

ビートルズの育ての親ともいえる名プロデューサーだったジョージ・マーティンについては、このブログで過去に触れましたが、エメリックについてもいつかはお話ししようと思っていたところでした。その前に彼の突然の訃報に接し、とても驚くとともに悲しく思っています。

何と彼は、私も参加している日本のビートルズファンのFacebookのファングループに参加していたのです。最初、彼の参加の知らせを聞いた時には「なりすましではないか?」と疑いましたが、本人であることが分かり、とても驚きました。

まさか彼ほどの大物が、世界中に山ほどあるビートルズのファングループ、それも日本のグループの一つにメンバーとして加わるとは信じられませんでした。

今回は、急きょ予定を変更して、彼の功績などについてお話しします。

2 ジェフ・エメリックとは?

(1)ビートルズの音楽制作を陰で支えた

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エメリックを一言で言い表すならば、ビートルズの音楽制作を陰で支えた偉大なレコーディング・エンジニア」です。

マーティンが、ビートルズサウンドを作り上げたと一般的には信じられていますが、エメリックは、ビートルズの構想を実現するために重要な役割を果たしたのです。1966年から1969年の間でビートルズと一緒に仕事をしたスタッフの中で、彼ほど大きな影響力を持ち、重要な役割を果たした者は誰もいませんでした。

 

エメリックは、後にこう語っています。「ビートルズは、最もふさわしい時期に最もふさわしい場所に登場した。その頃は、支配階級に反発する空気が世の中に漂っていて、誰もが若い指導者を追い求めていた。それらすべてが一つになった。正にビートルズがそれを実現したんだ。そして、私は、あの現象が二度と再び起こったところを見ることはできなかった。」

ビートルズは、大人によってがんじがらめに縛られ、閉塞感に包まれた当時の若者たちを解放したまさに救世主だったのです。

(2)15歳でレコーディングに参加

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エメリックは、ロンドンで1945年12月5日に生まれ、15歳(!)でEMIに入社し、アビイ・ロード・スタジオでアシスタント・エンジニアとして働き始め、そのわずか数か月後にビートルズと仕事をすることになりました。1962年9月4日、スタジオで働き始めた最初の週に、彼はリンゴ・スターが新たに加わったビートルズの最初のレコーディング・セッションに参加しました。これが彼の音楽人生の始まりでした。

ビートルズは、リヴァプールの片田舎からロンドンという大都会へやってきた若者たち。対するエメリックは、入社したばかりの新入社員。音楽業界への新参者としては、どちらも同じでした。しかし、この新参者同士の取り合わせが、後にビートルズの様々な革命的サウンドを創造することに繋がったなどとは、ビートルズもエメリックも、そして他の誰にも予想できなかったのです。

 

しかし、15歳といえば、まだ少年ですよ?にもかかわらず、まだ掛け出しのバンドだったとはいえ、ビートルズのレコーディングという重要な仕事に携われたのは、よほど彼のレコーディング・エンジニアとしての才能が認められたからでしょう。昔も今も年功序列が支配する日本の社会では考えられませんね。

(3)次々と大仕事に携わる

ãGeoff Emerickãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ1963年2月20日、エメリックは、「Misery」と「Baby It's You」のオーバダブ・セッションでテープ・オペレーターを務めたグループの一員として仕事をしました。その後、彼は、EMIの別の担当に移籍するまでにアルバム「Please Please Me」「With The Beatles」「A Hard Day's Night」などのセッションに携わりました。

シングル「Love Me Do」「I Want To Hold Your Hand」「She Loves You」「A Hard Day’s Night」などに代表される初期のビートルズのレコーディングに名を連ね、後にバンドのチーフ・エンジニアになりました。

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1966年には、バランス・エンジニアの地位に昇格しました。バランス・エンジニアとは、レコーディングにおいてサウンドのバランスを調整する仕事です。マイクで拾ったサウンドは、耳で聴こえるイメージとは異なるので、機材が拾う音と人間の感覚がずれないように調整するのです。

やがて、彼は、「Revolver」「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」「The BeatlesWhite Album)」などビートルズの数々の傑作アルバムのレコーディングに参加しました。彼は、一時担当を外れましたが、シングル「The Ballad Of John and Yoko」とラストアルバム「Abbey Road」で復帰しました。

3 不可能を可能にした男

(1)大抜擢

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ビートルズのプロデューサーとしてはジョージ・マーティンが有名で、公の舞台に登場することも多かったのです。しかし、エメリックは、ビートルズサウンドを形成するのに大きく貢献した「舞台裏の頭脳」ともいうべき存在でした。

1966年4月、エメリックはまだ20歳でした。ある日、スタジオ・マネージャーがエメリックを事務所に呼び寄せ、「ビートルズのエンジニアをやってみないか?」と尋ねました。何とチーフ・エンジニアをやれというのです。彼は、いささか驚きと恐怖を感じました。それまではノーマン・スミスがその役割を果たしていました。

 

具体的に誰がエメリックを抜擢したのかは分かりません。しかし、彼の若さと新たなレコーディング・テクニックを開発してみたいという意欲は、ビートルズが求めていた新しいサウンドに正にピタリとはまったのです。

しかし、ビートルズは、世界に君臨するトップ・アーティストに昇り詰めていました。そのチーフ・エンジニアを20歳そこそこの若者に任せるというのですから、エメリックが驚いたのも無理はありません。

しかもですよ、ビートルズは、それまでのアイドルを脱してアーティストへと変貌している時期でした。つまり、前人未到の境地へと足を踏み出していたのです。並の人間なら尻込みして当然です。

引き受けるべきか断るべきか悩んだ末、彼は承諾しました。責任は重大だが、何が起こっても受け入れるしかないと腹をくくったのです。もし、彼が断っていたら、その後のビートルズの歴史は大きく変わっていたかもしれません。

(2)初仕事が「Tomorrow Never Knows

おまけに彼のエンジニアとしての初仕事は、ビートルズサイケデリックサウンドの幕開けともいえるアルバム「Revolver」の収録曲「Tomorrow Never Knows」でした。こんな実験的な曲をいきなり任されたら、たまったものではありませんね(^_^;)

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ジョン・レノンは、レコーディングの際に、彼のヴォーカルを「ダライ・ラマと何千人もの僧侶が山頂から読経しているような声にしてくれ」とマーティンに依頼しました。

マーティンは、あっさりそれを受け入れたのですが、傍ら(かたわら)でそのやり取りを耳にしたエメリックは仰天しました。殆どの場合、マーティンは、「ジョンの無茶振り」を拒否することはありませんでしたが、そのお鉢は、いつもエメリックのところに回されて来たのです。

(冗談じゃない。「ダライ・ラマと何千人もの僧侶が山頂から読経しているような声」って一体何なんだよ?)と内心では思ったかもしれませんが、名プロデューサーの命令には逆らえません。持ち前の好奇心にも火が付いて(よ~し、やってやろうじゃないか)と袖をまくって積極的に取り組むことにしました。

 

(参照文献)The Beatles Bible

(続く)

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