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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズの足跡を訪ねて~リヴァプールとロンドン一人旅日記~(その4)「ハンブルク時代」

クオリーメンは、「Casbah Coffee Club(カスバ・コーヒー・クラブ)」を拠点にして活動を開始します。彼らは、そこを「パーソナル・クラブ」と呼んでいました。ジョンの妹のジュリアによれば、ここがビートルズのスタート地点であり、クオリーメンからビートルズという不朽のバンド名に変わったのもここだとのことです。

 

ポールは、後年、カスバの存在が多くの人に知られることで、沢山の出会いがあり知り合いになったことが後々役に立ったと述懐しています。

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このクラブの経営者は、後にドラマーとして加わるピート・ベストの母親のモナ・ベストでした。彼女は競馬で大穴を当てて得た賞金で屋敷を買い、愛する息子たちと彼らの友人たちが集まれるよう、そこを改装して地下にクラブを作ることにしました。「コーヒー・クラブ」という位ですから、アルコールは出ません。クオリーメンのメンバーは、クラブのオープン直前までペンキを塗るなどの内装の手伝いをしました。自分たちの音楽活動の拠点ができるということでとてもウキウキした気分だっただろうと思います。この店がオープンしたのは、1959年8月です。クオリーメンは、1959年8月29日に初めて演奏します。この時のドラマーは、ケン・ブラウンです。

 

下の写真に銀色の星のマークがありますが、私が得た情報ではジョンがデザインしたということになっています。しかし、ポールだという説もあり、はっきりしません。ただ、ジョンは絵が得意で沢山の作品を残していますが、ポールはそんなことはありません。とすると、やはりジョンなのではないかと思うのですが、ご存知の方がいたら情報提供をお願いします。

 

そして、この店のオープンをきっかけにピートがドラムを始めることになりました。彼らは、バンドとして演奏はしたもののプロとしての仕事は無く、ここに集まって暇を持て余していました。そして、オープンから僅か6週間後にモナと口論になり、彼らはクラブを立ち去ってしまいます。

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これがピート・ベストです。なかなかのイケメンですね。「ピート・ベストはあなたをカスバに招待します」というコピーが踊っています。この頃のメンバーには3人のギタリストは揃っていたものの、ロックバンドには不可欠な正式なドラマーがいませんでした。何人か入れ代わり立ち代わりドラマーが入るものの長続きせず、ピートはドラムを始めたばかりで、彼らはどこで演奏してもドラマー不在に悩まされました。将来はプロになりたいと熱望していたのは3人だけで、残りのメンバーはアマチュアで満足だったからでしょう。このドラマー不在は後々に騒動を引き起こすことになります。

 

クオリーメンは、リヴァプールのニュー・クラブムーア・ホールに1957年10月18日に初めてプロとして登場して演奏し、この時ポールがメンバーとして正式にデビューしました。この写真は、ジョンとポールが一緒に演奏したシーンを初めて撮影したものと言われています。この頃、ポールはまだギターを担当していました。中央でボーカルを担当しているのがジョン、一人おいてその左隣がポールです。

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ポールのギターの構えを一目見れば、彼が左利きだと分かります。左利きの人がギターを弾くのは結構苦労するようです。そもそもギターの殆どは右利き用に作られていますし、コードもそうなっていますから。それで左利きの人はどうするかというと、右利き用のギターをよいしょとひっくり返して、左利き用のコードを演奏する方法が一つ。もう一つはあえて右利きの人と同じに構えること。

 

しかし、ポールは、弦を張り替えて低音が一番上に来るようにして演奏していました。ですから、ちょうど右利きのギタリストが鏡を見ているような指使いになります。良く見ると本来はサウンドホールの下にあるはずのピック・ガードが上になってますね。実際、彼らが一つの曲を練習している風景が写真に残っていますが、見事に鏡を見ているように左右対称になっています。

 

クオリーメンは、その後次々と名前を変えていきます。最終的にThe Beatlesに落ち着くんですが、その名前の由来は、1960年頃にジョンと当時ベースを担当していたスチュアート・サトクリフが考案したというのが定説になっています。カブトムシを意味する「beetle」と音楽の「beat」を掛け合わせた造語ですね。

 

彼らはプロになるきっかけを探していました。そして、当時ジョンやスチュアートが足しげく通っていた「ジャカランダ」というクラブのオーナーであるアラン・ウィリアムズに仕事を世話してくれと頼みます。1960年5月にブルー・エンジェル・クラブでオーディションを行い、ようやく彼らに仕事をあてがってくれました。そういったいきさつから、彼は、ビートルズにとって初めてのマネージャーになります。

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1960年8月にアラン・ウィリアムズの下へ、西ドイツのハンブルクの知人のブルーノ・コシュミダーが経営するクラブで演奏するバンドを紹介してくれというオファーが来ます。リヴァプールハンブルクはどちらも港町で緯度も同じ、イギリス人やアメリカ人の船員が大勢やって来ては、酒場に繰り出していました。彼らは元々気性が荒いですから、ワイルドな演奏を好んだんです。それも当時、アメリカで流行していたロックンロールを。

 

ビートルズはその話に飛び付きました。週100ポンド(実際には一日2.5ポンド)とリヴァプールよりはるかに高額でしたし、何より自分達のプロとしての実力を買ってくれる人物が現れたんですから。アランの運転するバンに器材を乗せて、フェリーでハンブルクを目指しました。ネックだったドラマーもピートを勧誘することで解決しました。ここで初めてピートがメンバーとして加わります。これがイギリスのロック・バンドが初めてハンブルクへ演奏に渡航したケースになります。また、ベースとしてスチュアート・サトクリフも参加します。

 

ハンブルクには到着したものの、彼らにはホテルなんかありません。それで映画館の舞台裏に寝泊まりすることになります。それもトイレの近くでコンクリートがむき出しの悪臭が立ち込める酷いところでした。毎晩悪臭と寒さに震えながら眠り、映画の放映の音で起こされる毎日でした。彼らが初めて演奏したのは、「インドラ・クラブ」というナイト・クラブでした。「インドラ・クラブ」で1960年8月17日から48日間、毎晩、長時間にわたる演奏を行いました。客は10人程でした。客の目当てはストリップを肴に酒を飲むことですから、最初から音楽を聴く気なんかありません。

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労働条件は過酷で1日5〜6時間、長くて8時間毎日演奏しました。「なるほど、だからギャラが良かったわけだ。」と彼らは納得させられることになりました。彼らは、始めはリヴァプールでやっていたように普通に演奏していたんですが、そんな演奏では荒くれ物の酔っ払い相手では全然盛り上がりません。オーナーのコシュミダーは、ステージの前まで出てきて大声で「Mach Schau‼ Mach Schau‼(ショーを盛り上げろ!)」と叫び、盛んに彼らの尻を叩きました。それに応えようと彼らもシャウトし、激しく体を動かしてステージを動き回るなど、とにかく会場を盛り上げるよう全力で演奏しました。観客のヤジや暴力にも耐えながらの経験が彼らを鍛え上げ、彼らにとって後々貴重な財産となります。

 

ところが、このクラブは住民の騒音に対する苦情で閉鎖されてしまいました。そこで、10月から11月にかけて、同じ通りの「カイザーケラー」で演奏するようになりました。ある日ジョンは、女性といちゃついていてステージに上がりませんでした。それで頭に来たクラブの用心棒のホルスト・ファッシャーが、ジョンの頭から水をぶっかけて「ステージに上がれ!」と命令しました。しばらくすると、観客が爆笑しているのが聞こえました。何だろうと思って覗くと、何とジョンは、頭から便座を被ってパンツ一丁で登場し、ギターを弾いて観客の爆笑を取っていたんです。受けることなら何でもやる、この根性が後の大成功を生んだのです。その後も色々なクラブを転々とします。インドラ・クラブもカイザーケラーも、まだ現存しています。

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この頃、彼らは、クラブに来ていた女性カメラマンのアストリッド・キルヒャー達と知り合います。彼女は、ハンブルク時代のビートルズの写真を数多く撮影し、これらが後に傑作として高く評価されます。やがて、彼女とスチュアートは、恋に落ち、彼はビートルズを脱退してハンブルクに残りました。同じくカメラマンのユルゲン・フォルマーとも知り合うのですが、後に彼らの代名詞となる「マッシュルーム・カット(モップ・トップ)」はユルゲンが実際にやっていたんです。これをヒントに彼らはデビュー時のヘア・スタイルを決めます。

 

そして、もう一つ重要な出会いがあります。後に最後のメンバーとして加わるリンゴ・スターとここで知り合うんです。彼もまたロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズというバンドのドラマーとしてハンブルクに来ていて、ビートルズと交代で出演していました。そして、ピートが時々公演を休んだ時には代役でリンゴがドラムをやりました。この共演はとてもしっくりした感じを彼らに抱かせました。それが後にリンゴをメンバーに加える一つの動機になります。

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その後、今度は「トップ・テン・クラブ」で演奏することになりますが、これはコシュミダーとの契約に違反していました。彼は、激怒し、契約を解除してしまいます。ただ、この1961年4月にビートルズは、このクラブに出演したイギリスのソロ歌手トニー・ シェリダンと共演し、彼の「マイ・ボニー」というシングル曲のバックバンドとして演奏することになります。この曲は、ドイツで1961年10月にドイツのポリドールから発売され、ヒットチャートの5位にランクされる程ヒットしました

 

しかし、この時、ビートルズの名前はクレジットされていません。というのも、「ビートルズ」という発音は、ドイツ語の隠語で男性の男の子の局部を指す「pidels(ピーデルス)」という言葉に近いそうですf^_^;それで、クレジットは、「トニー・シェリダンとザ・ビート・グループ」に変更されました。後に彼らが有名になってからは「ビートルズ」に変更されましたが。左が最初のジャケット写真で「ビートルズ」の名前はどこにも出てきません。しかし、彼らが有名になるとトニー・シェリダンより大きく表記されています。

やがて、ジョージが満17歳で西ドイツの就労年齢制限に抵触している事がバレて本国へ強制送還となってしまいます。それまでも何度か警官の巡回捜査を受けていたんですが、その度にスルーして何とかごまかしていました。さらに宿舎にしていた映画館で寒さを凌ごうと火気を用いたことで出火してしまい、それが元でポールとピートも強制送還となります。スチュアートはキルヒャーの援助でハンブルクに残りますが、たった一人になったジョンもやむを得ず自分で帰国しました。

(続く)