- 1 ブライアン・エプスタインにマネージャーを引き継いだ
- 2 マネージャーとしての実力が不足していた
- 3 とうやったらビートルズは売れるか?
- 4 イメージ・アップ戦略
- 5 モップトップヘアは導入済みだった
- 6 ステージでも品行方正なスタイルに
1 ブライアン・エプスタインにマネージャーを引き継いだ
ここまでこの記事を読んでいただいた方で、(その4)の記事も読んでいただいている方は、「あれ、ビートルズのマネージャーって、アラン・ウィリアムズじゃなかったけ?」と思われるかもしれません。そう、その通りです。確かに、彼は、ビートルズのマネージャーを3年程続けましたが、その地位をブライアンに譲渡してしまったのです。その理由は、「ビートルズがマネージャーの契約料金を滞納したから」というものです。それもたった9ポンドですよ‼
2 マネージャーとしての実力が不足していた
3 とうやったらビートルズは売れるか?
4 イメージ・アップ戦略
流石にスーツの着用には彼らも抵抗したようです。まあ、ポールは比較的早く受け入れたんですが、ジョンは結構抵抗しました。しかし、ブライアンの粘り強い説得に根負けし、「分かりましたよ。それで売れるんなら、スーツだって何だって着ますよ。」と受け入れました。彼らも売れるためにはサウンドだけじゃダメだと、ハンブルクの経験で気が付いていたんでしょう
5 モップトップヘアは導入済みだった
彼らは、1961年9月30日に2人だけでパリまで旅行をしました。その時にハンブルクで会ったことのあるユルゲン・フォルマーという写真家に偶然再会することになりました。初めて会った時に彼の洗練されたファッション・センスや考え方に衝撃を受け、かっこいいと思っていたんです。
その4でも書きましたが、彼は、写真家仲間のアストリッド・キルヒャーがスチュアート・サトクリフに奨めた「モップ・トップ」というヘア・スタイルにしていました。前髪を額に垂らした、床を掃除する時に使うモップみたいなヘアということですね。ジョンとボールは、彼のヘア・スタイルを気に入り、同じスタイルにするよう、彼にカットを依頼しました。
ヘア・スタイルを変えるというのは、結構勇気がいるものですが、パリと言う異国の地に来ていたので気分がハイになっていたせいもあるかもしれません。ただ、完全に彼と同じスタイルにはなりませんでした。でも、それが却って後のビートルズ・スタイルになったのです。彼らは、そのヘア・スタイルを気に入り、そのままリヴァプールまで帰りました。結局、このスタイルで生活を続けることになります。そのうちジョージもそれに倣い、リンゴも同じスタイルにしました。
これは、1961年11月に、ファンの女の子たちと一緒に撮った写真です。相変わらず黒の革ジャンですが、リーゼントはやめています。中央の一番上にジョン、その下にポール、右隣にジョージ、ポールの左隣で顔が半分隠れてますがピートがいます。彼だけは最後までリーゼントを止めませんでした。このことが後に悲劇を生みます。
後年、ポールは、「あのヘア・スタイルが僕たちに成功をもたらした。特にアメリカでのね。あんなユニークなスタイルをしているヤツは他にいなかったから。ひょっとしたら、サウンドよりそっちの方が受けたのかもしれない。」と語っています。それを裏付けるように、初めてアメリカでコンサートを開いた時のニューヨーク・タイムズ紙も「彼らのヘアが揺れるだけで観客が熱狂した。」という記事を書いています。
6 ステージでも品行方正なスタイルに
また、ブライアンは、コスチュームだけではなく、ステージ上での彼らの態度も改善する必要があると考えました。彼らは、ステージ上で飲食し、タバコをふかし、気に入らないと演奏を途中で止めたり、観客に背を向けたりしました。それで、ステージ上での飲食や喫煙を禁止し、1曲の演奏が終わる度に客席に向かってお辞儀するというように改めさせました。
ロックバンドが客席に向かってお辞儀するなんてそれまで誰もしていませんでしたから、これはかなりのインパクトでした。「ミュージシャンにも楽曲だけではなく、イメージも含めた総合的な戦略が重要だ。」という業界の常識を初めて確立した人かもしれません。彼のこのイメージ戦略は大成功でした。
あ、そうそう、彼らはバンドを始めた頃に、下の写真の「ヘッシーズ楽器店」で楽器を購入しましたが、まだツケが残っていたんです。彼らが楽器店に溜めてた200ポンド程のツケを払ったのもブライアンです。っていうか、それが彼のマネージャーとしての初仕事でした(笑)今の貨幣価値に換算すると1000ポンド(50万円?)位ですかね?結構な金額ですが、彼は、将来の投資と割り切ったんでしょう。
それから、「客が物凄く増えてるのに俺たちのギャラは僅かしか上がっていない。」とメンバーから文句が出たので、ブライアンはマックフォールと交渉し、3ポンド15シリングから10ポンドまでギャラを引き上げさせました。
いつの時代もマネージャーは大変ですね(^^ゞ
(続く)
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