スチュアート・サトクリフのお話を続けます。彼の作品は、後期に入ると前期の写実的な画風からこんな抽象的な画風に変わりました。1962年の作品でタイトルはありません。この画風だと私は、カンディンスキーやポロックを連想します。
(Judith I Bridgland)
これは、若き日のジョンです。1958年10月に店の前で撮った写真ですね。一緒に写っているのは、同じアートカレッジの学生仲間だと思われます。ジョンの隣の女性は…もちろん、シンシアですね。う~ん、チャーミング(*´∀`*)
(Ye Cracke)
これは、ジョンとスチュが2人で撮影した写真です。彼らは、ブラック・ベルベッツというカクテルが好きで昼食の時に良く飲んでいました。当時は店が混んでいて客同士が肩を寄せ合って立ち飲みしたこともあったようです。ジョンは、酔っぱらって床にこぼれたビールで泳いだこともあったとか(笑)
これは、店内にあるジョンを記念して作られた銘板です。「ジョン・レノンのもう一つのバンド『THE DISSENTERS』(演奏はしていない)を記念する銘板」と題された銘板には、ジョンの他に3人が描かれていますが、一人はスチュです。後は、「マージー・ビート誌」を出版したビル・ハリー、画家のロッド・マーレイです。4人ともアート・カレッジの学生だったんですね。
(Ye Cracke)
この銘板には「1960年7月、この4人の芸大生達は、ロイストン・エリス(ポール・マッカートニーの1966年の作品『ペイパーバックライター』のヒントになった作家)による詩の朗読会に参加した。エリスの作品は、アレン・ギンズバーグ等のアメリカの作家の影響を強く受けていた。彼ら4人は、ここで何を聞いたかを議論した。彼らは、『THE DISSENTERS』と名乗り、それぞれのやり方でリヴァプールを有名にした。そして、残りは…」と書いてあります。この銘板は、1980年8月24日に、ビル・ハリーとロッド・マーレイによりここに飾られたとあります。
ありゃりゃ、大変だ。ロイストン・エリスが登場しちゃった.。これを語り出すと話が長くなるんだよなあ~(^_^;)
ロイストン・エリス(クリストファー ・ ロイストン・ジョージ ・ エリス)は、1941年2 月10日に生まれたイギリスの小説家、旅行作家、ビートジェネレーションの詩人です。ビートジェネレーションの代表格は、アメリカのアレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックです。大人に反抗する若者の代表ですね。
エリスは、16 歳までミドルセックスの州立学校に通学しましたが、作家になることを決意して中退しました。その2年後に彼は、最初の詩集であるJiving to Gypを出版しました。そして、彼は、クリフ ・ リチャード・アンド・シャドウズのメンバーになり、ステージやテレビで彼の詩を披露しました。
(harrisonstories.tumblr.com)
1963年当時のビートルズですが、中央にいるのがエリスです。
何故、エリスがビートルズにとって重要なのでしょうか?それは、1960年6月のことでした。彼は、ステージで詩をそらんじ、そのバックでビートルズが演奏したんです。そして、エリスは、その当時「The Beetles」と名乗っていた彼らに「The Beatles」と改名するよう勧めたんです。自分自身がBeat詩人を名乗っていたぐらいですから、beatという言葉に拘りがあったんですね。それでカブトムシそのものより、 beatに引っかけた方がかっこいいだろうと。
ただ、ここまで書いておいて気が引けるんですが、こう主張してるのはエリスだけなんです(^_^;)スチュは若くして亡くなってしまいましたし、ジョンも一切エリスのことは語っていません。あくまでバンド名はスチュと2人で考えたのだと言ってます。ですから、信ぴょう性については?です。ヨーコなんかは、スチュすら登場させず、ジョンが一人で考え付いたって言ってますしね。ほら、また謎が増えちゃった。
ひょっとすると、エリスの言ってることはホントだったかもしれません。ただ、ジョンとしては、スチュならともかく、部外者のエリスに手柄を横取りされたくないという気持ちもあったのかもしれません。beetをbeatに変えるって、なかなか洒落たセンスですからね。ただ、証拠もなければ証人もいないし、その時の状況の詳細が不明なので、やはりマユツバかな?
1960年11月、カイザーケラークラブを最後に、ビートルズは、不法就労などの理由でドイツから国外退去を命じられました。当然、スチュも警察に追われたのですが、アストリッドに匿われ、潜伏生活を続けていました。しかし、結局、1961年2月にリヴァプールへ戻りました。
1960年12月にビートルズは、ハンブルクのトップテンクラブに出演する予定でしたが、それは翌年4月に持ち越されました。スチュは、もうグループを脱退していましたが、ビートルズは、彼ら自身で契約の交渉をしたにもかかわらず、当時のマネージャーのアラン ・ ウィリアムズから手数料を10%天引きされたと陳述書を書いてくれと彼を説得しました。
いやはや、スチュはもうビートルズを脱退したのに、面倒なことに巻き込まれてしまいましたねf^_^;このエピソードからして、どうもビートルズの最初のマネージャーだったウィリアムズという人物は金に細かいというか、セコいような気がします。そのセコさから、後に彼は、ビートルズというダイヤモンドの原石をブライアン・エプスタインに譲り渡してしまい、地団駄を踏むことになるのですが、それはまあ、当然の成り行きでしょう。
逆に、彼がマネージャーを続けていたら、ビートルズの成功は絶対に無かったと断言できます。かつてリヴァプールで有名だった一つのローカル・バンドで終わっていたでしょう。アーティストがブレイクするためには実力があることはもちろんですが、それをサポートする人達にも恵まれないと成功しないのは、今も昔も変わりません。
(参照文献)THE BEATLES BIBLE
(続く)