1 アストリッドが残した物
ビートルズの元ベーシスト、スチュアート・サトクリフに話を戻します。アストリッドがビートルズに多大な影響を与えたものの1つとして挙げられるのは、「ビートルズカット」として後に有名になるヘアスタイルの原型です。それだけではなく、彼女のファッションやカメラマンとしての才能は、若き日のビートルズにとても大きな影響を与えました。そして、彼女が撮影した「アーリー・ビートルズ」も高く評価されています。
彼女が撮影した写真はビートルズに強い印象を与え、後に彼らがリリースしたアルバム「With The Beatles」のジャケット写真を撮影した時には、写真家のロバート・フリーマンにアストリッドの写真を見せて「こんな風に撮影してくれ」と要求した程です。
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2 ビートルズ脱退後のスチュ
スチュは、1960年の終わりにはもうビートルズを脱退していましたが、彼らがハンブルクに来た時は付き合っていました。彼は、時折、即興で演奏したり、彼らのパフォーマンスをアストリッドと共に楽しみました。
ビートルズは、イギリスに戻りましたが、スチュとジョンは、頻繁にお互いに手紙のやり取りをしていました。ジョーク、詩や物語その他様々な情報を交換しました。スチュは、何通も手紙を書き、その中で「自分はキリストかもしれない」と書いていました。ジョンは、それをジョークだと捉えて、自分を洗礼者ヨハネになぞらえて答えました。
3 スチュ、頭痛に苦しめられる
しかし、この頃から、スチュは、次第に原因不明の頭痛に苦しめられるようになりました。1961年の終わりに、彼は、ハンブルク大学のクラスで倒れ、自宅に連れて帰られました。彼は、大学で絵画の制作に没頭していましたが、その制作振りは相当ハードだったと言われています。何と彼は、次の日には大学に戻ったんです。
アストリッドの母は、スチュを心配してあちらこちらの病院に通わせましたが、頭痛の原因は分かりませんでした。彼の症状は悪化の一途を辿り、極端な痛みや光に対する過剰反応に苦しめられました。
1962年2月、スチュは、再び倒れました。再度彼は、アストリッドと同棲していた部屋に運ばれました。彼は、絵を描いたり、長い手紙を書いたりすると激しい頭痛に襲われ、意識を失いました。彼は、何日間かそこに留まりました。アストリッドと彼女の母親が看病しましたが、彼の症状は悪化する一方で、もはや彼女たちの手には負えなくなっていました。どんな治療を受けても効果はあまり上がりませんでした。
4 ついに帰らぬ人に
1962年4月10日、スチュは、アストリッドが呼んだ救急車で病院に運ばれましたが、到着前に亡くなりました。死因は、脳の右側の出血でした。僅か21歳の若さでした。
アストリッドは、こう語っています。「彼は、私の腕の中で息を引き取ったの。余りに突然の出来事で、私もそして多くの人々も、彼が偉大なマインドと持って生まれたアーティストとしての才能を持つ、天才だった彼の死を嘆き悲しんだわ。彼が生きていたら、傑出したアーティストになっていたでしょう。」
彼の死から3日後、アストリッドは、ハンブルク空港でビートルズに会い、スチュの死を伝えました。彼女はその数か月後、うつ病になり、ジョンは、彼女を慰めました。彼は彼女に「アストリッド、元気を出しなよ。生きるか死ぬかは君が決めることだ。家にじっと引きこもっていても、スチュは戻っちゃこないんだぜ。」そう慰めているジョン自身が凄いショックを受けていたのですが。
5 スチュの死因は謎
彼の死因は、はっきりしていません。彼は、1961年1月にリヴァプールのレイサムホールでのパフォーマンス後、誰だか分かりませんが、殴られ頭部に外傷を受けたといわれています。後にアラン・ウィリアムズは、ジョンとピートがスチュを助けに行ったと語っています。その時、ジョンは、指をケガし、スチュが頭蓋骨骨折を負ったと考えられます。しかし、スチュは治療を拒否し、市立セフトン総合病院でX線の検査の予約を入れることもしませんでした。
なお、スチュの妹のポーラインが「ジョンがスチュとケンカして、頭を蹴ったのが原因だ」と語ったという話が流れたことがありましたが、彼女は、2003年7月24日のBBCオンラインの記事で明確にそれを否定しています。そんなことは一言も言ってないのに、噂が流れたことにとてもショックを受けたと語っています。
ありがちな話ですが、ホント、気をつけないとどれが真実でどれがデマなのか分からなくなってしまいますね。
スチュは、何故X線の検査を拒否したんでしょう?医者嫌いだったのか?もし、その時検査を受けていれば、頭蓋骨が損傷して脳出血していることが分かったはずです。その時、外科手術を受けていれば助かったかもしれません。
スチュの母ミリーは、彼を治療していたハンブルクの病院に彼の脳を遺贈しました。彼の死から18か月後、アストリッドは、X線で撮影された脳出血のフィルムをドイツからリヴァプールに届けました。X線には小さな脳腫瘍があったことが分かりました。放射線技師は写真にこのような補足を書き足しました。「頭蓋骨が陥没していることに注意」
何とスチュは、頭蓋骨を陥没骨折していたんです。これは直ちに手術しなければ、生命に関わる程の重傷です。というか、良くこんな状態で日常生活が送れたなと思います。普通の人だったら、激痛で耐えられませんよ。これ程の重傷を負ったとなるとやはり、ケンカの時に頭部を強打したのが原因としか考えられないですね。
6 スチュの死後
アストリッドは、スチュの母のミリーに手紙を書いて、あまりのショックで病気になってしまい、葬儀に出席できないことを謝罪しています。また、彼女は、ジョンも同様に打ちひしがれていると書いています。
彼女は、手紙にこう書いています。「ああ、お母さん、ジョンは、スチュの死を嘆き悲しみ、未だに受け入れられません。彼は、私をとても気遣ってくれています。彼は、スチュのことを愛し、彼のことをとても良く理解してくれていたからこそ、私のことも理解してくれています。」
ジョンは、ケンウッド、サリーの彼の自宅の壁にスチュの絵画を2枚飾っていました。彼の写真は、ビートルズが1967年にリリースしたアルバム、「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」のカバーの中にも登場しました。彼は、アーティスト仲間のオーブリー ・ ビアズリーと並んで、一番左端に肖像写真が印刷されています。(SHAMMY DEE)
スチュのベース演奏は、アンソロジー1に収録された「You'll Be Mine」「Cayenne」「Hallelujah I Love Her So」の3曲で聴けます。カヴァーのデザインは、フォアマンと仲間のアルフォンス・キーファーが手掛け、スチュの姿は右上の端に描かれています。
アストリッドは、1994年に公開された映画「Bachbeat」でアドバイザーを務めました。その映画は、ハンブルク時代のビートルズ、そしてスチュとアストリッドとの交際を描いたものでしたが、スチュを演じたのはスティーヴン・ドーフという俳優でした。
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アストリッドは、こう語っています。「私は、とても驚いたの。だって、陰のあるところや立ち居振る舞い、タバコの吸い方までスチュに生き写しだったんですもの。」
ヨーコは、ジョンが盛んにスチュのことについて「あいつはもう一人のオレだった。あいつの精神世界、指導力…」と語っていたと話しています。
ジョンにとって、スチュは生涯を通じて唯一無二の親友だったんですね。それは、ポールともヨーコとも違う存在だったのです。多くの人々は、彼が生きていれば恐らくビートルズに匹敵する程の偉大な画家になっていただろうと語っています。
さて、スチュのお話は以上です。次回からは、ビートルズの世界的に有名なあの「THE BEATLES」のロゴがどうして誕生したのか、その誕生秘話についてお話します。
(参照文献)THE BEATLES BIBLE
(続く)