1 ホリーの発声法の特徴
ホリーの発声法の特徴は、ファルセットと地声の間のいわゆる「ミックスボイス」と呼ばれるもので、これは、ポール・マッカートニーやボブ・ディラン、その他多くのアーティストに影響を与えました。
彼は、アメリカはもちろん、初期のイギリスのロックンロールにも強い影響を与えました。
2 ホリーは、誰から影響を受けたのか?
では、逆にホリーは、誰から影響を受けたのでしょうか?
彼は、ラジオKDAVで友人のボブ・モンゴメリーと共にブルーグラスを演奏していました。その頃の音源は、まだいくつか現存しています。
そして、彼は、1955年にエルヴィス・プレスリーの前座としてカントリーを演奏したのです。ソニー・カーティスは、「エルヴィスが現れると、バディは、たりまち彼に惚れ込んだ。翌日にはオレたちは、もうエルヴィスのクローンになってたんだ。」カントリー一筋だったホリーが忽ちロックンロールに取り憑かれたんですね。
これが当時の貴重な映像です。何と、カール・パーキンスや ジョニー・キャッシュも一緒に出演していたんですね!
1956年と1957年にホリーとドラマーのアリソンは、ラボック青少年センターでデュオとして演奏し、その時もプレスリーと共演しました。後にホリーは、「何もかもエルヴィスからもらった」と語りました。
1956年夏、ホリーは、西部劇のスーパースターだったジョン・ウェインのセリフからヒントを得て、生まれて初めて制作した曲をデッカレコードでレコーディングしました。ところが、プロデューサーは、「これは、私が生涯で聴いた中で最悪の曲だ。」と酷評しました。この言葉には、ホリーも相当傷付きました。
しかし、この曲こそ大ヒットしたデビュー曲の「ザットル・ビー・ザ・デイ」だったのです。デッカは、後にオーディションを受けたビートルズも不合格にしていまいますが、ホリーの才能にも気が付かなかったという前科があったんですね。
ホリーの才能に気がつかなかったことをちゃんと反省していれば、ビートルズを逃がすこともなかったかもしれないのに…。
この曲は、全米でも全英でもチャートNo.1を獲得し、全米では何と500日もその地位に留まったのです。
3 ビートルズというバンド名への影響
バディ・ホリーのバンド名である「クリケッツ」は、コオロギという昆虫の名前にヒントを得たものでした。う~ん、でもこのイラストは、ちょっと気持ち悪いですね(;^_^A
そして、ビートルズもそれにあやかって、昆虫の名前をバンド名にすることにしました。ポールは、こう回想しています「このことでジョンと話したことを覚えてるよ。クリケットというのは、素晴らしいアイデアで、昆虫の意味もあるし、ゲームの意味もあるし。」
「僕たちは、バンド名に二重の意味を持たせることを考えた。beetleという名前は気持ちの悪い昆虫のことを指し、あまり良いイメージではなかったので、スペルのeをaに変えてビートの意味を持たせたんだ。」
ジョン・レノンもこの発言を裏付けています。「僕たちは、二つのことを意味するクリケットのような名前を探していた。そして、ビートルという虫の名前を思いついたんだけど、それだけだと二重の意味にならないからスペルをBEAに変えた。人々が名前を聞くと気持ち悪いと思うけど、スペルを読めばBEATで音楽のことだと分かるようにね。」
日本人には分かりにくいのですが、英語圏の人にはビートルという名前は、ちょっと気持ちが悪い虫というイメージがあり、そのため、そんな名前はやめた方が良いとアドヴァイスした人もいました。しかし、スペルを変えることで、その難点を克服したのです。
話が脱線しますが、アルバム「アビイ・ロード」の中の「サン・キング」という曲の冒頭で、コオロギの鳴き声のようなものが聴こえるんですが、これとクリケッツと関係があるのかは分かりません。日本人は、虫の声を風流と感じますが、欧米人には雑音にしか聞こえないそうです。
4 ジョンとポールが受けた影響
ジョンとポールは、ホリーが自分でギターを演奏しながら歌うというスタイルに強い影響を受けました。
ジョンは、「バディー・ホリーは、自分で演奏しながら歌うというスタイルを最初にイギリスに持ち込んだ。」と語っています。
彼は、エルヴィス・プレスリーもこよなく愛していましたが、彼は、ギタリストではなく歌手としての存在の方が大きかったのです。ジョンも「プレスリーは、ギターを弾くより持っていることの方が多かった」と語っていました。
ジョンは、16歳でホリーを知ってから、彼を崇拝するようになりました。彼は、レコードを聴きながら、ホリーがどうやってあんなサウンドを出しているのか、オタク的な強い関心を持って探ったのです。ホリーの音楽は、とても巧みに構成されていて、ロックとは何かを知る上で格好のお手本でした。
そうしながら、ジョンは、ホリーをスポンジが水を吸い込むように自分のものとして吸収したのです。そして、そのことが、ポールをパートナーとして選んだキッカケにもなりました。彼らが目指す音楽の方向性が同じだったからです。
ジョンがいかにホリーの影響を強く受けていたかは、ホリーのアイデンティティーともいえる、抑制されつつも頑強なまでにこだわった表現や、ドラムを無視したリズムの取り方などから見てとれます。
例えば、「ベイビー・アイ・ドゥント・ケア」「ノット・フェイド・アウェイ」では、ドラマーのジェリー・アリソンは、ドラムを叩く必要もなく、ただ、スティックで段ボール箱を叩いただけでした。
つまり、バンドリーダーであるホリーが、バンド全体をグイグイ引っ張っていたんですね。このように、ホリーがスタジオでレコーディングする際に開発したサウンドやイメージは、明らかにジョンにそのまま受け継がれています。
さらに重要なのは、彼がオリジナルの楽曲を書いていたことであり、このことが、ジョンとポールに強い感動を与え、彼らが自分たちのオリジナルの曲を作る動機になったことです。
これは、ホリーが1956年に「ラブズ・メイド・ア・フール・オヴ・ユー」という作品を書いた時の手書きの貴重な原稿です。
そして、これがホリーのオリジナルです。ビートルズがこのスタイルに影響を受けたのは明らかですね。
ポールはこう語っています。「僕は、バディのヴォーカルスタイルが未だに好きだ。そして彼が自分で曲を書いたこともね。ビートルズにとって重要なことの一つは、自分たちのオリジナルの作品を書き始めたことだった。ジョンは、バディ・ホリーの影響を受けてオリジナルの作品を書き始めたんだ。」
このことについてローリングストーンズのロニー・ウッドが、自分の番組の「ロニー・ウッド・ショウ」にゲストで出演したポールと語っています。
ロニー「ジョンとあなたが作詞作曲を始めたきっかけは、バディー・ホリーだったんですよね。」
ポール「そうだよ。その頃のスターは、大体みんなハンサムだったんだ。」
ロニー「でも、バディは、べっこう縁のこんなメガネをかけていた。」
ポール「ジョンも普段は目が悪くて、べっこう縁のメガネをかけていたんだ。それを外すと何も見えなかった(笑)」
「僕たちがバディを好きだったのは、彼が自分で作詞作曲して演奏もしたからさ。僕たちは、プレスリーのことも大好きだったけど、彼は、作詞作曲はしなかったからね。」
「僕たちは、バディのザットル・ビー・ザ・デイを演奏しようとしたんだけど、初めはイントロがうまく弾けなかった。でもジョージがこんな風に上手く弾いたんだ。ジョージ、それどうやって弾いたんだ?って、ビックリしたよ。」
そしてポールとロニーの二人は、この曲を演奏し始めました。
5 ホリーの曲を数多くカヴァー
ビートルズは、キャリアアップしていくうちに、アルバムの中でオリジナルの作品が次第に多くを占めるようになり、最終的にはすべてがオリジナルになりました。しかし、初期の段階では、彼らがステージでレパートリーに入れていたカヴァー曲が殆どでした。
そして、クオリーメン、ビートルズ時代を通じて、彼らは、ライヴで少なくともホリーの作品を13曲カヴァーしました。これだけ数多くカヴァーしたことからしても、いかに彼の影響が大きかったかが窺えます。ただ、音源が残されているのは、これらのうちの6曲だけです。
(参照文献)The Influence of Buddy Holly on the Beatles, INDEPENDENT
(続く)
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