- 1 ビートルズと苦楽を共にしたマージー・ビート紙
- 2 発行部数が急速に増大した
- 3 数多くの偉大なアーティストを世に送り出した
- 4 若者の声を代表した
- 5 「若者文化」を作り出した
- 6 マージー・ビートの終焉(しゅうえん)
1 ビートルズと苦楽を共にしたマージー・ビート紙
ビル・ハリーの回想です。「ビートルズにとっても私にとっても、友人であったスチュアート・サトクリフに関する短い追悼記事を書かなければならなかったのは悲しいことだった。」
スチュアートは、類まれな画家としての才能を持ちながら、若くしてこの世を去りました。
「新聞を発行している間に、ピート・ベストがビートルズを解雇され、リンゴが代わって私の好きなグループのビートルとなり、アメリカで大成功を収め、『リンゴ・フォー・プレジデント』などのレコードがリリースされた。」
マージー・ビートが、ビートルズがヨチヨチ歩きを始めた頃から、彼らがアメリカで大成功を収めるまで苦楽を共にしてきたことがよく分かります。
下の写真は、ビートルズがパーロフォンとレコード契約できたことをブライアン・エプスタインがマージー・ビートに報告した電報です。彼の興奮と喜びが伝わってきます。
ところで皆さん、「リンゴ・フォー・プレジデント」というレコードをご存知ですか?これは1964年にイギリスでリリースされたレコードで「もしできるなら、彼に投票して彼を大統領にしたい」などといった彼を褒め称える内容の歌詞です。いかに彼がビートルズの中でも人気が高かったかが窺えますね。
このレコードの他にもリンゴを褒め称えるレコードが数多くリリースされていますが、それらについてはまた改めてお話しします。
「私は、数多くのプロカメラマンにビートルズの写真撮影を依頼したが、それらは、すべてかなり早い時期のものであること、そして、ジョンの最初の作品が後にポールに影響を与え、『Flaming Pie』という作品に結びついたことを誇りに思う。」
ポールがソロになってから発表した「Flaming Pie」という作品は、ジョンがマージー・ビート紙に寄稿したビートルズに関する伝記の言葉からヒントを得たものだとハリーも認めています。
2 発行部数が急速に増大した
マージー・ビート紙は、リヴァプールだけでなくマンチェスター、バーミンガム、シェフィールド、ニューキャッスルで活動していたバンドについても記事を書くようになり、発行部数は急速に増大しました。その需要に応えるために事務所を地下に移動し、2つの大きな部屋を確保したのです。
新聞の売り上げが増え続けると、やがて「ティーンエイジャーズ・バイブル」つまり、「ティーンエイジャーの聖書」として知られるようになり、最高25万部を発行するまでになりました。
地元のバンドは「ビート・グループ」と名乗るようになり、「ビート・セッション」と題したコンサートを盛んに行い、宣伝するようになりました。
ただ、相変わらずビートルズに関する記事を優先して書いていたので、他のバンドからクレームをつけられたというお話は前回にしましたね。それでも、マージー・ビートは、誇らしげに「イギリス北部唯一のエンターテイメント紙」を宣言していたのです。
3 数多くの偉大なアーティストを世に送り出した
「1960年から1965年にかけてのあの時代は、もはや二度と経験することはできない。ヴァージニアと私は、様々な機会にハンブルクのスタークラブを訪れ、そこでたくさんの友人を作り、リトル・リチャード、ジーン・ヴィンセント、チャック・ベリー、ビル・ヘイリー、カール・パーキンスなどの多くのロック・アイドルと会った。」
「マージー・ビートは、マージー川沿いで生まれ育った若者たちが、世界中に響き渡るサウンドを作り出したことを示す最も詳細な記録となったのだ。」
「私は、あの時代は決して繰り返されないと言ったが、正直に言うと、ヴァージニアと私も恩恵を受けた。私たちはロンドンに移住し、そこでの音楽シーンに没頭し、ギグ、コンサート、そしてパーティーに週に数回参加した。」
「私は、ピンク・フロイド、キンクス、デヴィッド・ボウイ、レッド・ツェッペリンなど幅広いアーティストが参加した『スピークイージー』などのクラブでのサウンドを紹介した。」
マージー・ビートがビートルズを強力にバックアップしたことは間違いありません。しかし、ハリーはそれに留まらず、ビートルズの成功をきっかけとしてロンドンに活動拠点を移し、後世に残る偉大なアーティストたちを世に送り出したのです。この功績も多大なものだったといえるでしょう。
4 若者の声を代表した
(1)若者たちは抑圧されていた
「新聞、テレビ、劇場、ラジオはすべて、若者たちとは世代の異なる人々によってコントロールされていた。彼らは、若者たちが何を望んでいるかまったく分かっていなかった。」
「そして突然、若者たちの時代がやってきたのだ。彼らは、自分でお金を稼ぐようになると、自分たちの音楽スタイルを追い求め、力を発揮し始めたのだ。」
「マージー・ビートは、若者たちの声だった。それは、彼らが応援するグループに関する写真や情報を詰め込んだ情報紙だった。そういった若者の動向は、他の分野にも拡大し、イギリス全土の若者を巻き込んでいった。」
(2)若者たちを鎖から解き放った
いつの時代であれどこの世界であれ、中年以降の年齢層の人々が、組織を支配していることは変わりません。しかし、本当に時代を動かしているのは、間違いなく若者たちです。若者の流行に敏感なごく一部の大人たちだけが、それに気づいて彼らを育てていったのです。
マージー・ビートは、マージーサイドの近辺から轟く雷鳴であり、原子力ともいえる存在であった4ビートに名前を付けただけでなく、それまで人々が喪失していた一体感やアイデンティティーを与えました。それはまた、ビートルズという素晴らしい現象を巻き起こすことにもつながりました。
実際のところ、世の中に必要とされる物は、誰かがそれを発明しなければならないのです。マージー・ビートは、その一つだったといえます。
ビートルズのファンは、ハリーと彼のガールフレンドのヴァージニアが、ビートルズを支援してくれたことにただただ感謝するばかりです。彼らは、機知に富み、情熱を持っていました。
5 「若者文化」を作り出した
(1)出版期間は短かったが
マージー・ビートは、あの時代における不思議な存在でした。約90版を出版し、僅か4年足らずで他の音楽出版物と統合されてしまったにもかかわらず、それが存在したこと自体が今ではもはや伝説となっています。
ハリーは、マージー・ビートを出版しただけではなく、ロンドンのメジャーなメディアにも、マージーサイドで爆発的にブレイクしているサウンドを紹介しました。
彼は、マージーサイドで何が起こったのかを伝えるために、英国の有力新聞の一つであるデイリー・メールに記事を寄稿しました。「リヴァプールは、正に新世紀のニューオーリンズのようだ。ただし、ジャズではなくロックンロールの聖地としてである。」
(2)ローカルな流行をメジャーにした
これは、サーチャーズで「Love potion number 9」です。
初めの頃は、誰も彼の言葉にまともに耳を貸しませんでした。それでも彼は、音楽やエンターテイメントの代表的な新聞、ニュー・ミュージック・エクスプレスやメロディー・メーカーなど当時のヒットチャートの媒体として、確立された音楽アーティストばかりに注目していた他の音楽系情報誌に記事を掲載し続けたのです。
彼は、メジャーなメディアがまだ注目していなかった、リヴァプールで爆発的な流行を迎えていた音楽シーンを盛んに紹介していました。
その頃の若者たちには「世の中を支配する大人たち」に対する欲求不満が溜まりに溜まっていたのです。しかし、それを爆発させる爆弾がありませんでした。
そこへロックンロールが登場し、それにマージー・ビートが火をつけたんです。そうです、音楽がレボリューション(革命)を起こしたんです。ある意味、「1960年代の若者の反乱」は、ここが原点だったのかもしれません。
6 マージー・ビートの終焉(しゅうえん)
やがて、マージー・ビート紙は、ミュージック・エコー紙に徐々に吸収される形で発行されることになりました。そして、1967年に入ると、音楽シーンにおいてマージー・ビートは、難局に直面することになりました。ブルース、ロック・サウンドが隆盛を極める一方、マージー・サウンドは衰退していったのです。
これは、クリームの「Sunshine of Your Love」です。
このような時代の流れに合わせ、マージー・ビートの紙面に登場するグループの大部分は、サイケデリックやプログレッシヴ・ロックの領域へと方向性をシフトしていきました。これは、ビートルズのサウンドが革命的に変貌した「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」や「マジカル・ミステリー・ツアー」のようなアルバムの影響を受けたものでした。
マージー・ビートが流行した期間は比較的短いものでしたが、その影響は今日にまで及んでいます。リヴァプールは、未だに世界で最も音楽が盛んな都市の一つとしてみなされており、ビートルズは、あらゆる期間において最も愛されているバンドの一つとなっているのです。
(参照文献)The Internet Beatles Album, The One After 9:09, culture trip
(続く)
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