- 1 「Dear Prudence」後半のドラム~新たな指摘が
- 2 「A World Without Love(愛なき世界)」~ピーター&ゴードン-大ヒット
- 3 「One and One is Two」~ザ・ストレンジャーズ・ウィズ・マイク・シャノン-さっぱり売れず
1 「Dear Prudence」後半のドラム~新たな指摘が
本題に入る前に、このブログの(200)で「「Dear Prudence」後半のドラムはリンゴが叩いたのか?~ホワイト・アルバム・ミステリー」と題した記事を投稿しました。これはホワイトアルバムに関する記事に対して、コメントで寄せられた疑問について私なりの見解を書いたものです。
すると、この記事について、また別の方から次のようなコメントを頂戴しました。
「はじめまして。
この曲のクライマックス部分のドラムは、リンゴが叩いていると信じている者です。
ジョンのヴォーカルトラックだったか、ジョンのギタートラックだったかに、ポールが叩いたと思わしきオリジナルドラムがヘッドフォンから漏れて聴こえます。
これは、2トラックにTDされたレコードの、例のクライマックス部分の左側chから一瞬聴こえる消し忘れのドラム音と同一のドラムです。
"don't pass me by"のドラムはポールで、キーボードはリンゴですが、それにしても"back in the USSR"にしても当時のポールのドラムテクニックが特別高いとは思えません。
おそらくですが、リンゴは、ポールが叩いたドラムトラックをガイドにして、例のクライマックス部分のドラムを叩いたのではないか...と推測しています。
"good morning,good morning"のバスドラムの技術はリンゴならではの凄いテクニックで、「目立ちたがらないリンゴ」をよく現しているものと私は思っています。」
いや、恐れ入りました(^_^;)正直、私は、「消し忘れのドラム音」にまで着目していませんでした。従来繰り広げられてきた論争よりは、信頼性のある根拠に基づいた主張であると思います。
ただ、残念ながら、私の能力では、このご指摘に対する適切な回答ができません。なので、この問題については今後の検討課題としたいと思います。
2 「A World Without Love(愛なき世界)」~ピーター&ゴードン-大ヒット
(1)ポールが制作
ポールは、16歳の時にこの曲を書きましたが、彼が最初のラインの「Please lock me away(僕を閉じ込めちゃってくれ)」と歌うと、ジョンは、いつもジョークで「Yes, Ok(ああ、そうしてやるさ)」と合いの手を入れたために、二人で爆笑してしまってそれ以上演奏が先に進まなくなってしまいました。
こういうエピソードを目にすると本当に微笑ましく思いますね。これがずっと続けばよかったのですが…。
この曲は、またクレイマーに提供されましたが、彼はいらないと断りました。ポールが1963年秋に当時彼のガールフレンドだったジェーン・アッシャーのロンドンの自宅に間借りした頃でしたが、クレイマーが断ったために他のミュージシャンに提供できたのです。
ピーター&ゴードン(ピーター・アッシャーとゴードン・ウォーラー)がレコード会社と契約を結び、1964年1月21日の最初のレコーディングセッションに間に合うよう、ポールがブリッジ(Bメロ)を書きました。というのも、ピーターはジェーンの実兄だったんです。彼女から兄のために曲を提供してほしいと依頼されたようです。
(2)ジェーン・アッシャーの影響
歌詞中の「I know not」は、文法的におかしいと思いますよね?そこは「I don't know」じゃないかと思ってしまいます。実は、I know notはちょっと古風な言い方なんです。
例えば、「新約聖書 ルカによる福音書1:26-38」の中に「あなたは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」と天使が聖母マリアのところにやって来て告げたことが記載されています。有名な「受胎告知」ですね。
マリアが驚いて天使に語った言葉を英語に翻訳したものがこれです。「How shall this be, seeing I know not a man?(どうしてそのようなことがありえましょうか、わたしは男の人を知りませんのに?)」。
ポールがあえてこんな古風な表現を使ったのは、労働者階級出身である彼が上流階級出身のジェーンと生活するようになり、彼女から上流階級の文化の影響を受けるようになったことを示しています。彼は、女優である彼女を通じて演劇を自分に取り入れ、さらに、音楽の教授であった彼女の母(マーガレット・エリオット)を通じてクラシック音楽を取り入れました。
(3)チャート1位を獲得
2月28日にリリースされた、この作品は、イギリスとアメリカの両方でチャート1位を獲得しました。そればかりか、ロックの殿堂(ロック(ロックンロール)に大きな影響や功績を残したミュージシャンやプロデューサーなど功績を讃え、それらのレコードが展示、保存されています。プロのロックミュージシャンにとって、ロックの殿堂入りを果たすことは大変な名誉です)は、ロックを形作った500曲の一つとしてこの作品を含めました。
500 Songs That Shaped Rock
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Peter and Gordon, “A World Without Love”
ビートルズの楽曲では、「A Day in the Life」など7曲が選出されています。500曲もあるとはいえ、ビートルズですら7曲しか選ばれていないんですから(というより一つのアーティストの楽曲が7曲も選ばれたことの方がスゴいですが(^_^;))、この中に選出されただけでも大変な名誉です。ビートルズがせっかく提供してくれたのに、どうしてクレイマーが断ってしまったのかは分かりません。
しかも、この500曲は、演奏者とタイトルが挙げられているだけで、コンポーザーは挙げられていないんです。そして、皮肉なことにクレイマーの楽曲は、一曲も挙げられていません。彼が提供を受けていれば、ここに名前が挙げられていた可能性は高かったでしょう。もちろん、ピーター&ゴードンだからこそ受賞できたかもしれないので、断言はできませんがそれにしてももったいないことをしたものです。
3 「One and One is Two」~ザ・ストレンジャーズ・ウィズ・マイク・シャノン-さっぱり売れず
レノン=マッカートニーの作品の中でも「誰からも忘れられた作品」だと思います。
1964年1月、ポールがパリのホテルの部屋でクレイマーに提供するためにこの作品を制作し、デモを演奏してクレイマーに渡しました。
この作品を提供したものの、ジョンは、「クレイマーがこいつをレコーディングするようじゃあ、もうおしまいだな。」と笑いました。ずっと後にプレイボーイ誌のインタビューで色々な質問に応えた彼ですが、この作品については「ポールの駄作の一つだ。」と酷評しています。
ビートルズが最初にこの作品をレコーディングで演奏した時は、かなり典型的でゆったりとしたマージー・ビートでした。最も弱々しく原始的な曲ですら、ビートルズを特徴付ける音楽的な想像力が掻き立てられるのですが、この作品にはそういった特徴も窺われません。ビートルズは、レコーディングしたものの「これはダメだ」と判断してリリースしなかったのでしょう。
この曲を提供した頃、レノン=マッカートニーは、ポピュラー音楽界で最も需要の高いコンポーザーとなっていて、この作品には誰も注目しませんでした。「She Loves You」「抱きしめたい」が大ヒットしていましたから。ビートルズにはたくさんの楽曲を提供してもらったクレイマーだったものの、流石にこの作品には手を出しませんでした。
ジョージは、歌詞の「One and One is Two」という部分をカットできないかと提案しました。あまりにも稚拙だと感じたんでしょうね。クレイマーが断ったため、この作品は、すでにレノン=マッカートニーの曲を2曲カヴァーしていたフォーモストに提供されました。
リードギターとヴォーカルを担当していたブライアン・オハラは、こう語っています。「ポールがスタジオにきてこの曲のベースを演奏してくれた。でも、我々は、それを聴いても何の手がかりも得られなかった。」そりゃ、ベースだけ聴かされてもどうしようもないですもんね(^_^;)
フォーモストにも断られたので、最終的に別のリヴァプールのバンドであるザ・ストレンジャーズ・ウィズ・マイク・シャノンに提供されました。しかし、彼らのヴァージョンは、デモが持っていたスウィング感すらなくなってしまい、1964年5月8日にリリースされたもののチャートインはできませんでした。
すいません、このシリーズ、もう1回だけ延長します。
(参照文献)SLATE, infoplease, THE PAUL MCCARTNEY PROJECT
(続く)
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