★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

なぜ、ルーフトップでコンサートをやったのか?(214)

Beatles rooftop concert

1 ホッグ監督は頭を抱えていた

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映画の撮影は進行していましたが、ホッグの顔色は冴えませんでした。彼が抱えていた課題が未解決だったからです。「Get Back」プロジェクトをどう仕上げればよいのか見通しが全く立たず、1月29日、「もう、頭がおかしくなりそうだ…。」とホッグは思わず周囲に漏らしました。

彼は、後にこう語っています。「あの時は、このドキュメンタリーの出口が見つからなかった。良い素材は数多くあったが、それをどうまとめたら良いのか、全く見当がつかなかったんだ。」ビートルズは、解散の危機に瀕していましたが、その一方でホッグも行き詰まっていました。良い素材があってもバラバラでまとまりがつかないんです。

そうかといって、ドキュメンタリーですから脚色はできません。答えのないジグソーパズルのようなものでした。彼の不安と焦燥が伝わってきます。

スタジオでの収録シーンは数多く撮影済みでしたが、それをただ編集したのでは暗い雰囲気しか伝わってきません。その打開策として、ビートルズに久しぶりのコンサートをやらせようというアイデアが浮上してきました。

 

2 候補地は数多く検討された

ビートルズは、映画のクライマックスにコンサートを持ってくるというアイデアはあったものの、それをどこでやるかが問題でした。アイデアは数多く出されましたが、なかなかまとまりませんでした。

ロンドン・パラディウムやラウンドハウスのような会場は、平凡すぎて採用されませんでした。逆に他のアイデアは、とんでもなく遠く離れた場所でした。サハラ砂漠のギザにあるピラミッド、そして、豪華客船クイーンエリザベス二世号が候補地として挙げられていました。

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チュニジアにある2,000年の歴史を有するローマ時代の円形劇場については真剣に検討され、調査のためにロケーション・スカウトが現地に派遣されました。「朝日が昇るようにビートルズが動き始めた。」と監督のマイケル・リンゼイ・ホッグは、当時を振り返って語っています。

しかし、結局、何も決まりませんでした。スタジオでのゴタゴタで肝心のプロジェクトへの熱意が薄れたので、ビートルズは、海外でのロケはやめにしてもっと近場で制作することにしました。

3 ジェファーソン・エアプレインが先だった

(1)反体制的映画の撮影

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ビートルズは、そのキャリアの過程で世界初となったことをたくさんやりましたが、残念ながら、大都市の屋上で無許可のコンサートを開催した最初のバンドにはなりませんでした。

アメリカのロックバンド、ジェファーソン・エアプレインが、ビートルズより一足先の1968年12月7日、ニューヨーク・マンハッタンのビルの屋上でゲリラ・ライヴを行ったのです。フランスの映画監督のジャン・リュック・ゴダールが、ヴェトナム戦争反戦活動家を描いた映画「ONE AMERICAN MOVIE(仮題)」で使用するために、ジェファーソン・エアプレインにライヴ演奏をさせ撮影しました。

(2)ニューヨークのビルの屋上から

ジェファーソン・エアプレインは、ミッドタウンのスカイラーホテルの屋上に登り、「おはよう、ニューヨーク!みんな、目を覚ませよ!タダだよ!いい曲だよ!フリー・ラヴ!」と叫んで街の人々を驚かせました。

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ニューヨーク市警が騒音による妨害をもたらした嫌疑で彼らを逮捕する危険を冒して、彼らは、1曲だけ「The House at Pooneil Corners」という曲のいかしたヴァージョンを演奏しました。バンドは何事もなかったのですが、彼らの友人である俳優リップ・トムは、警官と揉めて逮捕され、パトロールカーに連行されました。

(3)ルーフトップ・コンサートといえばやっぱりビートルズ

D. A. Pennebaker: Interviews

このゲリラ・ライヴの模様は、ゴダールの映画のワンシーンとなりましたが完成に至らず、その後、D・A・ペネベイカー監督によって「One P.M.」と題して1972年に完成され、公開されました。

彼もドキュメンタリー映画監督として高い評価を得ており、特に音楽関係については、ボブ・ディラン主演の「Don’t Look Back(1965)」、デヴィッド・ボウイ主演の「Ziggy Stardust and the Spiders from Mars(1973)」など数多くの作品を世に送り出しています。

そして、ジョンとヨーコのライヴを撮影したドキュメンタリー映画John Lennon and the Plastic Ono Band: Sweet Toronto」も1971年に制作し、公開しました。

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映画の完成が遅れたこともあり、ジェファーソン・エアプレインには気の毒ですが、彼らが先にやったにもかかわらず、その事実は人々の記憶から薄れ、「ルーフトップ・コンサートといえばビートルズ」というイメージが定着しました。

 

4 ゴダールストーンズも撮影した

(1)「Sympathy for the Devil(悪魔を憐れむ歌)」

ゴダールといえばヌーベルバーグの巨匠で、フランスの名俳優ジャン・ポール・ベルモンド主演の「勝手にしやがれ」で有名です。彼は、ローリング・ストーンズのスタジオでのレコーディングを絡めて、反体制的な思想をテーマにした映画「One Plus One」の監督も務めました。

この映画の主題歌となった「Sympathy for the Devil(悪魔を憐れむ歌)」は、ストーンズのアルバム「ベガーズ・バンケット」のA面のトップに収録されています。

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自分の映画の主題歌にストーンズの楽曲を使ったぐらいですから、さぞかしゴダールは、ストーンズを気に入っていたのかと思うとさにあらず、映画を撮影するまで彼らのことを知らなかったんです(笑)

彼は、ジョンにキリスト教を題材にした映画を撮影しようとビートルズの出演をオファーしたのですが断られたため、代わりにビートルズに近いバンドがいないか探した結果、ストーンズに行き着いたというだけです。

それにしても、ゴダールはヌーベルバーグの巨匠として名を馳せてはいましたが、「キリスト発言」でアメリカで散々叩かれたジョンに、キリスト教を題材にした映画への出演をオファーするなんて呆れるほどの度胸ですね(^_^;)さすがにジョンも断りましたが、そりゃまあ当然でしょう。

(2)編集によって映画は変わる

ビートルズは「Let It Be」、ストーンズは「悪魔を憐れむ歌」と、ほぼ同じ頃にドキュメンタリー映画を制作していたというのは面白い偶然です。ただ、「悪魔を憐れむ歌」でもレコーディング風景が撮影されていますが、完成版ではかなり編集が加えられていたようです。

編集で印象がガラッと変わるというのは音楽も映画も同じですね。ということは、今回リメイクされる映画「Let It Be」も、新たな編集によってかなり印象が変わるのではないかと期待されます。

 

5 エアプレインからヒントを得たのか?

(1)可能性はある

NY Rooftop, 1968

さて、ここで浮かび上がるのは、ビートルズのルーフトップ・コンサートはエアプレインからヒントを得たのか?」という疑問です。

ホッグがこのシーンを見たか、あるいはその情報を得て、ヒントを得た可能性はあります。奇才のゴダールだからこそ思いついたアイデアであり、ホッグ自身では思いつかなかったのではないかと思います(間違いだったらごめんね、ホッグさんm(__)m)。ホッグは、自分のアイデアだったと語っていますが、このことについてビートルズは特に何も語っていません。

もっとも、ゴダールは、このシーンをアメリカで撮影しているんです。それをイギリスにいたホッグがどうやって知ったのかは分かりません。2か月弱の期間がありましたから、知る機会はあったとは思いますが、今ほど情報がいち早く伝達する時代ではありませんでしたからね。

ただ、芸能関係のネットワークは当然ありましたから、ホッグまたはビートルズが事前に知っていた可能性はあります。

(2)推測

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ここから先はあくまで私の推測ですが、ッグまたはビートルズが、エアプレインのビルの屋上でのゲリラ・ライヴの情報を何らかのルートで知り、これは使えるということで行ったのではないでしょうか?

当時、彼らは、観客の前でのライヴは長い間やっておらず、久しぶりにやることについては非常にナーヴァスになっていたと思います。また、前期の頃に比べて楽曲がずっと複雑になっていて、ライヴで演奏するのも難しくなっていました。

果たしてアイドルの頃のように演奏ができるかどうか、しかも、アイドルの頃は観客の絶叫にかき消されて、演奏自体はほとんど聴こえませんでした。

しかし、アーティストとなった今では、観客も落ち着きを取り戻し、静かに彼らの演奏を聴くことになります。そこで天下のビートルズが失敗するわけにはいきません。おまけに彼らの人間関係は、最悪になっていました。悪条件だらけで彼らが躊躇(ちゅうちょ)したのも当然でしょう。

ところが、ビルの屋上なら、観客は彼らの目には見えません。「ライヴをやる」「観客の視線というプレッシャーから逃れる」という相矛盾するテーマをクリアするために、屋上でのゲリラ・ライヴはうってつけでした。たとえ、市民がサウンドを聴きつけて近寄ろうとしても、屋上ではどうしようもありません。せいぜい近くのビルの屋上に登るのが関の山ですし、実際そうした人が何人かいました。

(3)There is still a light that shines on me

On the roof waiting On Apple rooftop before the stage was ready in January 1969... Paul, Ringo, Mal, Glyn Johns and Director Michael Lindsay-Hogg.

パーソンズの記憶によると、アップルにスタジオを移してから、ふとポールが「ビルの屋上でライヴをやらないか?」と提案し、それが一気に広まったとのことです。これがエアプレインにヒントを得たものかは分かりません。

いずれにせよ、ホッグの発案ではなかったようです。どうやら、バタバタと決まった感じですね。

4人の険悪なムードをそのまま反映して、スタジオでの撮影シーンは気が滅入るような陰鬱なものになっていました。それが屋外、しかもビルの屋上となると、一気に解放された気分になります。これをラストのハイライトシーンに持ってくれば、映画を盛り上げてエンディングを迎えられるかもしれないと考えたとしてもおかしくはありません。

   

(参照文献)TIME, RollingStone

(続く)

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