★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ジョンとポールの絆は断たれていなかった(222)

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1 ジョンとポールの緊張関係は和らいでいた

(1)ジョンは「ベッド・イン」で窮地に追い込まれていた

幸運だったのは、新たなセッションが「Get Back / Let It Be」のレコーディングよりはるかに生産的で緊張感が和らいでいたことです。4月にジョンとポールがシングル「The Ballad of John and Yoko」を共同制作したことで、互いの間に横たわっていた緊張感を和らげることができたのです。

ジョンがヨーコと有名な「ベッド・イン」パフォーマンスを開いたことで、マスコミから絶え間ない批判にさらされていたので、このレコーディングは、ジョンにとって重要だったと語っています。「ベッド・イン」は、1969年3月と6月に行われたジョンとヨーコの世界平和を訴えるというパフォーマンスで、彼らがベッドに入ったまま行われたものです。当時はヴェトナム戦争が泥沼化しており、彼らは反戦平和を訴えたのです。

「ベッド・イン」と題されたパフォーマンスを二人がベッドの中で行うと知らされたマスコミは、「ジョンとヨーコが公開でセックスする。」と思い込み、色めき立って駆けつけました。しかし、実際にはホテルの一室に記者を招き入れ、彼らが平和を訴えるだけという内容だったため、肩透かしを食らわされたマスコミは、くだらないパフォーマンスだとジョンとヨーコを激しくバッシングしました。


Give Peace A Chance - Plastic Ono Band (official music video HD)

(2)それでもポールはジョンを見放さなかった

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ヨーコは、こう語っています。「ポールは、人々がジョンに対して不快感を持っていることを知っていたので、何とか彼の窮状を救おうとしていた。ポールは、ジョンの兄弟であるかのように彼を支援してくれた。」

このエピソードを耳にすると、何だか心がホッとなごみますね。どんなに険悪な間柄になっていても、ジョンとポールの絆は決して断たれることがなかったのです。ジョンが自らのパフォーマンスのせいで窮地に陥った時でも、ポールは、決してジョンを見放すことなく、彼の側に立っていました。

そして、そのことをヨーコも感謝していたんですね。ステレオタイプにポールとヨーコが犬猿の仲であったかのように思われがちですが、必ずしもそんな単純なものではなかったということがこの事実からうかがい知れます。つまりポールとヨーコは、ジョンを巡って反目し合いながらも、どこかではお互いを認め合っていたんですね。

 

2 アップル帝国の崩壊

(1)アラン・クラインがマネージャーに就任

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このアルバムのレコーディングが開始された時、アップルコア社の資金は、明確な方向性も示されず、きちんとした意思決定も行われないまま大量に外部へ流出していました。ジャーナリストのレイ・コールマンは、ジョンに対し、アップルを設立したことが「幸せ」だったかどうかインタヴューしました。彼は、そこで不満を一気に吐き出したのです。

「いや、幸せじゃないよ。」と彼は応えました。「ちょっとばかり面倒だけど、きちんと締めなきゃいけないと思っている。我々は、我々が持っているだろうと人々が思っている半分の金額しか持っていないんだ。我々は、食べていくために十分な資産は持っている。でも、我々は、アップルをこのままにしておくことはできない。このままの状態が続けば、我々は、全員あと6か月で崩壊してしまうだろう。」

ジョンの最後のコメントは大げさでした。この時点ではまだ、ビートルズに解散する危険性などなかったのです。彼は、アップルの経営があまりにもズサンであること比喩的に表現したにすぎません。

世界中の新聞が彼の発言を取り上げましたが、それはアップルが経営危機に陥っていることを報道したもので、それが直ちにビートルズの解散に繋がるとは流石に誰も予想できませんでした。この記事を読んだ公認会計士のアラン・クラインは、自分にアップルの経営を任せてくれとジョンにコンタクトしてきました。

 

(2)ジョンはクラインを信用した

ジョンとクラインが知り合ったのは、1968年12月に完成したローリングストーンズの映画「Rock and Roll Circus」にジョンが出演したことがきっかけでした。クラインは、当時ストーンズのマネージャーを務めていたのです。ただ、この時は挨拶を交わした程度で、アップルの経営の話はしませんでした。

ジョンは、彼に経営を任せようと考え、ジョージとリンゴもそれに同意しましたが、クラインの悪評をストーンズミック・ジャガーから聞いて知っていたポールは必死に抵抗し、契約書へのサインを拒否しました。しかし、他の3人は、彼を無視して契約を結びました。早速、クラインは、ビートルズが抱えていたビジネス上の問題を管理するために活動を開始しました。

この写真は、ビートルズがクラインと契約した時のものです。中央の人物がクラインです。ポールだけが険しい表情で親指を下に向けるサム・ダウンのポーズを取っています。冗談めかしていますが、実際のところ、彼は、この契約に不服だったのです。

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1969年9月20日ですが、この日、ジョンが初めてビートルズを脱退したいとメンバーに打ち明けました。クラインは、それは公表しないでくれと懇願しました。そりゃ、そうですよね。せっかくビートルズと契約できたのに、ジョンが脱退してしまったら元も子もありませんから。ポールもジョンを説得して、その話はメンバーの中だけで収めることにしました。

それまでメンバーの中に漠然と存在した「解散」の二文字が、にわかに現実味を帯びてきたのです(ああ、いやだ。もうこれ以上書きたくない( ノД`))。

(3)書類にサインする毎日

ジョージは、こう語っています。「「くだらない紙切れ」…我々が手に入れたものはそれだった。我々がいくら稼いだのか、あれこれと書いた紙切れを手に入れはしても、ポンド、シリング、ペンス(イギリスの通貨の呼び名)でそれを得ることはなかった。我々は、みな大きな家、車、オフィスを持っていたが、実際に稼いだ金を手に入れるのは無理だったようだ。」

ビートルズが、次から次へと訳の分からない書類にサインさせられ、ウンザリしている光景が目に浮かびますね。もちろん、それで彼らに収入が入るわけですが、現金を直接手渡されたわけではありませんでした。ですから、実感がわかないのも無理はないですね。 

 

3 ゴタゴタのおかげで生まれた名曲~Here Comes The Sun

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ビートルズは、問題を数多く抱えていましたが、そのおかげで名曲が誕生したのは、彼らの偉大なる才能のなせる業だったのかもしれません。その一つはジョージの「Here Comes The Sun」です。

「「Here Comes The Sun」は、アップルがまるで学校みたいになっていた時に書いた。我々は、そこへ行って仕事をしなくちゃならなかったんだ。「これにサイン、あれにサイン」ってね。まるで、イギリスの冬が永遠に続くみたいな感じだった。ああ、春が来るのが待ち遠しいなって思ったよ。そんなある日、私は、アップルから抜け出して、エリック・クラプトンの自宅に行ったんだ。間抜けな公認会計士の顔を見に行かなくて済むようになって清々したね。私は、エリックのアコースティックギターを一本持って、彼と一緒に庭を歩きながらこの曲を書いたんだ。」

アップルの経営があまりにもデタラメで、絡み合ってほどけなくなったコードみたいグチャグチャになっていたんです。そのためにビートルズが何かをしようとすると、沢山の書類にサインをしなければならないことになってしまいました。アーティストが経営に手を出すと失敗するという見本のようなものですね。

「間抜けな公認会計士」とは、クラインのことでしょう(笑)悪評高い人物ではありますが、このときは、彼なりに一生懸命仕事をしていました。ただ、そのやり方は、結果としてビートルズの解散に繋がる致命的なもので、彼が崩壊しかけていたビートルズにとどめを刺したともいえます。

アコギの7フレットという高いポジションにカポをはめ、コードとメロディーを同時に弾くマンドリンのようなあのキラキラしたイントロは、いかにも重い冬空が明けて春の日差しが照り始めた、正にその瞬間を捉えた素晴らしいサウンドです。ただ、ジョージが、ビジネス上のゴタゴタから逃れたいという心境に追い込まれたおかげで、あの名曲ができ上がったと聞くと何だか複雑な気もします。 

(参照文献)BEATLES MUSIC HISTORY!

(続く)

 

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