★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズを育てた初代マネージャー、アラン・ウィリアムズを再評価する(233)

Allan Williams (pictured) was a big name on Merseyside but missed out on millions when he parted company with The Beatles 

1  アラン・ウィリアムズって誰だ?

ビートルズファンの中でもアラン・ウィリアムズの名前を知っている人は、それほど多くないかもしれません。「彼らの音楽に興味はあるが、歴史にはあまり興味はない。」というファンも大勢いますから。

ビートルズのマネージャーとしてはブライアン・エプスタインが有名ですが、実は、彼は2代目で初代のマネージャーはウィリアムズだったんです。

2  「The Man Who Gave The Beatles Away(ビートルズを手放した男)」

(1)ビートルズを手放してしまった!

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ウィリアムズを一躍有名にしたのはビートルズを手放した男」という不名誉な称号を与えられたことです。

ビートルズがメジャーデビューする前に、ウィリアムズは、マネージャーの地位をブライアンに譲ってしまいました。ビートルズは、マネジメントの手数料が高すぎるとクレームを付け、支払いを拒否したのです。

怒ったウィリアムズは、マネジメント契約を解除してしまいました。そして、マネージャーになりたくて仕方なかったブライアンに、その地位を譲ってしまったのです。

ビートルズが支払いを拒否したのは、9ポンド(現在の5万円相当)でした。それでも、当時の彼らにとっては、大金だったんですよね。

その後、ビートルズは、ブライアンの巧みな戦略が功を奏して、メジャーデビューを果たし、世界的トップアーティストの地位に登りつめました。 それに引き換え、悲惨だったのはウィリアムズです。彼は、ビートルズという「金の卵」を手に入れながら、自ら手放してしまったのですから。そこで、彼に付けられたレッテルは、「The Man Who Gave The Beatles Away(ビートルズを手放した男)」という有難くないものでした。

私もこのブログの過去の記事では、「彼には実力がなかった」などとかなり辛辣(しんらつ)に批判しました(「ビートルズの足跡を訪ねて〜リヴァプールとロンドン一人旅日記〜(その6) ブライアン・エプスタインの戦略」参照)。ビートルズの才能を見抜けず、メジャーデビューさせる気もなかったのだから、それは仕方ないだろうと。

(2)ウィリアムズを再評価すべき

しかし、最近になって少し考えが変わりました。確かに、ウィリアムズが、トップアイドルのビートルズのマネージャーとしての地位を取り逃がしてしまったのは事実です。

でも、彼がビートルズをプロミュージシャンとして一人前になるまで育てた人物であったことには違いありません。彼は、ビートルズという金の卵を温め、ヒヨコになり金の卵を生み出すニワトリになる一歩手前まで育てたのです。

そこで、彼の名誉を回復すべきだと思い直し、この記事を書くことにしました。

 

3 リヴァプール初のロックバンドのマネージャー

(1)マージー・ビートが誕生

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1950年代の終わり頃、イギリスの北西部にあるリヴァプールを中心とするマージー川の流域では、いわゆる「マージー・ビート(リヴァプールサウンド)」が産声をあげました。

アメリカのロックンロールがイギリスに持ち込まれ、雨後の竹の子のようにロックンロールバンドが何百と誕生したのです。一説には300ほどあったとも言われていますが、ビートルズもその一つでした。

当初、それらのバンドにはマネージャーはいませんでした。そもそも、マネージャーと契約するという考えがなかったのです。しかし、彼らが演奏するクラブが次々と誕生し、仕事のオファーがどんどん舞い込むようになると、必然的にマネージャーが必要になってきました。

(2)ロックンロールは商売になる

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「トウェンティー・フライト・ロック」を歌うエディ・コクランです。この曲は、1957年7月6日、ジョンとポールが運命の出会いを果たした日に、ポールがジョンに演奏してみせた曲です。ポールは、4月にリリースされたばかりのこの曲のヴォーカルもギターも完璧にこなし、その腕前に感心したジョンは、自分のバンド、クオリーメンに参加するよう誘いました。

ウィリアムズ自身は、エンターテイメントに興味があったものの、30歳になるまでロック・コンサートに行った経験はありませんでした。1960年3月14日から19日までリヴァプールリヴァプール・エンパイアで当時大人気だったアメリカのロックンローラージーン・ヴィンセントエディ・コクランのコンサートがあり、友人に勧められて彼も観に行きました。

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「ビーバッパルーラ」を歌うジーン・ヴィンセントです。この曲は、ビートルズも好んでカヴァーしました。

生まれて初めて生のロックンロールを聴いて、彼はその迫力に衝撃を受けました。同時にロックバンドに熱狂する若者たちの熱狂ぶりを目の当たりにしたのです。「ロックンロールは商売になる。」と彼は考えました。そこで、彼がマネジメントできるバンドを探し始めたのです。

彼以外の観客は、単に素晴らしいコンサートに酔いしれただけでしたが、これが絶好のビジネスチャンスだと考えたのはおそらく彼だけでしょう。

(3)マネジメントに目を付けた

ロックバンドはたくさんありましたが、彼らのマネジメントを引き受けようと乗り出した人物は、おそらくウィリアムズが最初だと思います。そういう意味で、彼には先見の明があったといえます。

ビートルズを手放したことで何かと批判されがちな彼ですが、リヴァプールでロックバンドのマネージャーを初めて本格的に開始した人物」と評価すれば、彼に対する見方も変わってくるのではないでしょうか?

彼がジャガランダというクラブを経営し始めたのも、元々彼自身、エンターテイメントが大好きだったからです。彼は、あちこちのクラブに足繁く通い、その経営スタイルなどを参考にしました。

おそらく、クラブでバンドに演奏させるというアイデアも、当時はまだ珍しかったと思います。それまでクラブといえば、大勢の人が集まってお茶やアルコールを飲んで議論し合う溜まり場のようなところで、バンドがそこで音楽を演奏するという発想自体が目新しかったのです。

 

4 一世一代の大勝負

(1)超大物をブッキング

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ジーン・ヴィンセントエディ・コクランのコンサート感銘を受けたウィリアムズは、早速、彼らのプロモーターだったラリー・パーンズに対して、リヴァプールでのロック・コンサートの開催をオファーしました。いやはや、生まれて初めてロックコンサートを聴いたばかりなのに、アメリカ出身の超大物の二人に出演のオファーをするとは。その行動の早さと大胆さには驚きますね。

ウィリアムズは、リヴァプールという地方で小さなクラブを経営していた30歳そこそこの男でしたが、パーンズは、そんなことを意に介さず快くオファーを受け入れてくれました。1960年という古き良き時代だったからこそ、こんな契約が成立したのかもしれません。

というより、パーンズが、ウィリアムズのマネジメントの才能を見出したと言った方が正確でしょう。彼は、ウィリアムズと話し合っているうちに「この男ならやれるだろう。」と確信したのだと思います。そうでなければ、プロミュージシャンのプロモートの経験もない見ず知らずの男から、いきなりそんな話を持ち込まれても断っていたでしょう。

(2)コクランが事故死

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プロモーターとしての初仕事に、アメリカの超大物ロックンローラーを選んだというだけでも大した度胸でした。ところが、そんな大勝負に出たにもかかわらず、イギリスにやってきた二人を乗せた車が自動車事故を起こし、コクランが亡くなってしまうというとんでもない悲劇が彼を襲いました。

訃報を聞いたウィリアムズは落胆し、コンサートを中止しようとしましたが、奇跡的に生き残ったヴィンセントが予定通り開催することを承諾してくれました。ウィリアムズは大いに喜び、早速、コクランの名前をポスターから大急ぎで削除し、1960年5月3日、ウィリアムズの人生初のプロモーションで、超大物プロのロック・コンサートが開催されることになりました。

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これは、リヴァプール音楽史上でも画期的なできごとでした。リヴァプール出身の人物が初めて大規模なロック・コンサート、それもアメリカで大人気のヴィンセントを主役に据えたコンサートを地元で開催したのですから。さらに、リヴァプールのロックバンドにも出演する機会が与えられたことは、彼らが単なる趣味ではない本格的なプロミュージシャンを志向するきっかけになったのです。

そのバンドの中には、当時、リヴァプールで一番人気だったロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ、そのメンバーには後にビートルズのドラマーとなるリンゴ・スターがいました。ビートルズは、このステージには立てませんでした。この頃のビートルズは、肝心のドラマーがおらず、バンドとしての活動を休止していたのです。

(3)ジョージもブライアンも来ていた

ジョージは、観客として観に来ていました。また、ブライアンも来ていてパーンズと話をしました。しかし、この時はあくまで観客として来ており、ロックバンドのマネジメントなど考えてもいなかったのです。それを思えば、いかにウィリアムズが先を行っていたかがよく分かります。

事故から回復したヴィンセントは、失われた時間を取り戻すかのような凄まじいパフォーマンスを見せ、リヴァプールの若者たちを熱狂させました。興奮した観客がステージに殺到したため、パーンズとウィリアムズは、必死で彼らをヴィンセントに近づけないよう力づくで阻止しました。

赤字ではあったもののこの一大イヴェントは大成功に終わり、ウィリアムズは、ショービジネスの世界で生きていくことに自信を深めたのです。

 

(参照文献)TUNE IN

(続く)

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