★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

スコットランド・ツアーこそビートルズの原点だった(241)

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フレイザーバラのダリルリンプル・ホール

1 救いの女神

 

(1)パンを与えてくれた

フレイザーバラのお話の続きです。

シルヴァー・ビートルズは、マーガレット・ゴールドとその友だちの女の子に前夜のショーの終わりに女の子たちにもみくちゃにされ、彼ら4人が着ていた黒のシャツが破けてしまったと話しました。ジョンは、彼女たちにお金がないためにロクに食事もしていないと話しました。

彼女たちは、その話を聞くとすぐさまマーガレットの家に行き、裁縫で破れたシャツを縫い合わせてくれただけでなく、パンにバターとジャムを塗って半分に切り、白いバッグに入れて彼らの下に引き返してきました。おかげで彼らは、空腹をしのぐことができました。

4人のシャツが破けたって?でも、メンバーは5人いたはずだけど?どうやら、ドラマーのトミー・ムーアは、他のメンバーとは別に非常口から抜け出したようです。

彼は、交通事故で前歯が2本欠けた顔なんて見せたくなかったし、これ以上歯を折られでもしたらたまりません。おまけに彼は、メンバーの中で最年長でしたから、目をキラキラ輝かせ、興奮して出待ちしている女の子たちの集団に飛び込む勇気は起きなかったんでしょうね(笑)

(2)ジョンの誘いを断った

彼女たちは、飢え死にしそうになっていたビートルズにとって、正に救いの女神だったのです。ジョンは、マーガレットに次のショーの開催地のピーターヘッドへ一緒に行かないかと誘いました。地図で見れば分かりますが、この二つの地域はそれほど離れてはいません。

しかし、彼女は、ジョンの誘いを丁重に断りました。フレイザーバラの女の子たちは上品に育てられていたため、こういった誘いを上手に断ることができたのです。彼女は、ジョンの誘いを断ったものの、彼らが出発するまで名残りを惜しみました。2年後の女の子たちの熱狂ぶりに比べて、何とつつましかったことでしょう。

シルヴァー・ビートルズは、ステーションホテルの宿泊代を踏み倒しただけでなく、フォレス・ロイヤルホテルの宿泊代も踏み倒しました。この時点で、彼らは一文無しになっていたのです。下の写真は、ステーションホテルです。

このわずか2年後に、彼らは、デヴュー・シングルの「Love Me Do」でチャート17位を獲得しました。誰がそんなことを予想できたでしょうか?

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2 ジョンはハンチング帽を被っていた

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ハッチことハンツ・ホール

マーガレットは、ジョンが「バウリー・ボーイズ」の「サッチ」に似ていると話しました。バウリー・ボーイズというのは、1940〜50年代にヒットしたアメリカのコメディー映画に登場する集団で、その中に「サッチ」と呼ばれる人物がいたんです。

これは、ハンツ・ホールという俳優が演じていたんですが、映画ではハンチング帽を被っていたんです。ジョンがハンチング帽を被っていたので、ちょっと似て見えただけのようです。メンバーは、「イヤ、全然似てねえし。」と思ったようです(笑)

っていうか、ジョンは、もうこの頃から、トレードマークとなるハンチング帽を愛用していたんですね。残念ながら、当時の写真が見当たらないんですが💦

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3 ポールにとって初めてのスコットランド

スチュは、元々スコットランドの出身でしたし、ジョンは、子どもの頃に休日にいとことエジンバラやもっと北部のダーネスで遊んだことがありました。しかし、ポールにとっては、全く初めての訪問だったので、見るもの聞くもの全てが強く印象に残りました。過酷なツアーではあったものの、彼にとっては良い経験となりました。

彼は、こう語っています。「我々は、あそこをとても気に入っていた。とても有意義な時間だった。バンドの結束を固め、お互いの人間関係を深めた重要な時期だった。

「我々にとって、とても価値のある体験だった。無風状態で、色んなことを教えてくれたからね。お客さんは、素晴らしかった。フレイザーバラのような所で演奏できたから、ツアーはとても価値のあるものになった。我々は、みんなプロになったんだって実感したよ。

これは、とても重要な発言ですね。スコットランド・ツアーでメンバーの結束が固まり、さらにフレイザーバラでの観客の暖かい反応が、ツアーのネガティヴな要素を吹き飛ばし、ビートルズのメンバー全員にプロとしてやっていける自信を付けさせたのですから。

もし、この心温まる体験がなければ、メンバーの心が折れていたか、あるいは、そこまでいかなくても、立ち直るまでに時間がかかったかもしれませんね。だって、プロなのにギャラが稼げなかったんですから。

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フレイザーバラの浜辺

フレイザーバラは、すっかり僕の実家みたいなものになったよ。リヴァプールの若者たちが彼らに暖かく受け入れられたことは不思議でもなんでもない。ショーで熱狂したり、別れる時に涙を流したりしただけでなく、スコットランドの最も美しい浜辺で数時間を楽しく過ごすことができた。」

「僕は、フレイザーバラで訪れた場所は、どんな小さなところでも覚えているよ。素晴らしい場所だった。砂丘があってあれ以上はないすばらしい光景だった。」

ポールにとって、フレイザーバラはツアーの中で最も忘れられない場所でした。誰よりも家族を大事にする彼には、フレイザーバラの人々が家族ぐるみで温かく迎えてくれたことがとても嬉しかったのです。

 

4 忘れられない想い出

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シルヴァー・ビートルズが訪れてから20年後、彼らの破れた衣装を繕ってくれ、空腹の彼らにパンを持ってきてくれたマーガレット・ゴールドは、アバディーンのキャピトルシアターで開催されたウィングスのコンサートに参加しました。コンサートの途中でポールは、60年代に行なった三つのツアーについて語りました。

最初は、1960年のシルヴァー・ビートルズ、そしてビートルズとしての1963年と1964年です。彼は、1960年のツアーについては、はっきりと覚えていなかったとファンに打ち明けました。人々のおかげで、彼らは、初めてのツアーを魅力的なものに感じられたのです。

しかし、同時にロック・ミュージシャンでいることが、どれほど過酷で辛いものであるかも思い知らされました。そんな時に心温まる優しい人々が彼らを支えてくれたこと、彼らが与えてくれた愛情を決して忘れることはないとも語ったのです。

ポールは、2018年12月24日の「ザ・サンデーポスト紙」のインタヴューにこう応えています。「僕たちは、旅行することはあまりなかったね。殆どリヴァプールにいたけど、30分ほど離れたサウスポートへ電車でちょっと旅行したくらいだね。スコットランドへ行くことは、外国に旅行するようなものだったよ。

「僕たちは、駆け出しで演奏の腕もまだまだだった。当時、僕たちは、小さな村のホールで演奏していたんだけど、腕の方も大したことなかったからそれで良かったんだ。ギターと数台のアンプ以外に機材はなかった。」

「お客さんは、僕たちのことを誰も知らなかった。僕たちは、ジョニー・ジェントルのバッキング・バンドだった。彼らは、ジェントルが誰なのかさえ知らなかったんだ。でも、ファンに会うのはとても楽しかった。誰もが僕たちをスターのように扱ってくれることに興奮したよ。そんなことは、今までに経験したことがなかったからね。」

インヴァネスフレイザーバラ、ネアンでの7日間のツアーでは、カッコよく見られたいから芸名までつけたよ。スコットランドの何人かの女の子たちが「名前は何ていうの?」って僕に聞いたんだ。それで、僕は「ポール…ポール・ラモーンさ。」と応えたんだ。すると、彼女はこう応えた。「まあ、何て素敵な名前!」「芸名を名乗るのって、結構興奮するんだよ。まるでロンドンのかっこいいスターみたいだった。」

未だにポールは、その当時のことを楽しく語っています。彼にとっては、生涯忘れられない想い出ということですね。

5 ビートルズにとってのターニング・ポイント

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ジョンも後のインタヴューで次のように語っています。「このツアーは、我々が実際にツアーをするということが、どういうことなのかを知った初めての体験だった。スコットランドが、我々が探していたものが何だったのかを教えてくれたことは間違いない。あれがターニング・ポイントだった。

ジョンもスコットランド・ツアーがプロとしてのビートルズにとって、ターニングポイントとなったとても重要な出来事であったことを認めているのです。

ファンのほとんどの人々は、ビートルズがプロとしてのデビューを飾ったのは、キャヴァーン・クラブだと思っているかもしれません。しかし、実際にはスコットランド・ツアーがプロとしてのステージを踏んだ初めての経験だったのです。あくまでもバックバンドとしての演奏しかできず、それもお世辞にもプロのレヴェルとはいえないものでしたが。

衣装はみすぼらしく機材も貧弱でしたし、何より金がありませんでした。ホテルに泊まれず、車で寝泊まりしたこともありました。しかし、フレイザーバラの人々がとても暖かく彼らを迎え入れてくれたことが大きな支えとなりました。

しかし、そんな中にあっても前座としてロックンロールを演奏したおかげで、早くも女の子たちのハートを鷲掴みにできました。プロとしてサインしたり、興奮した女の子たちに追いかけられるという経験も初めてしました。「オレたちはプロとしてやっていける。」そんな自信が彼らに芽生えたのです。

リヴァプールに帰った彼らに、プロモーターのラリー・パーンズからのオファーはもうありませんでした。ジェントルが熱心にビートルズの才能について説明したにもかかわらず、彼は、彼らの才能に関心を示さなかったのです。その意味では、彼もオーディションでビートルズを不合格にしたデッカ・レコードのディック・ロウに似ていたのかもしれません。

さて、ここでまた初代マネージャーのアラン・ウィリアムズが登場することになります。やれやれ、やっとこの話に戻ってこられました(^_^;)

(参照文献)scotbeat, The Sunday Post
(続く)

 

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