★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

「The Beatles」というバンド名が初めて記事になった!(243)

He Almost Beat a Man to Death is listed (or ranked) 24 on the list 28 Facts You Didn't Know About John Lennon

1 リヴァプールで活動を再開

f:id:abbeyroad0310:20191017015004p:plain

さて、かなり脱線しましたが、初代マネージャーアラン・ウィリアムズの話に戻ります。もうどこまで書いたか、忘れちゃってますよね(^_^;)スコットランドツアーへビートルズを送り出したところまででした。

スコットランドツアーは、ビートルズのプロとしてのデビューではありましたが、それはあくまでもバックバンドとしてでした。プロになろうと決意してビリー・フューリーのオーディションを受けたものの不合格となり、その代わりにジョニー・ジェントルのバックバンドとしてツアーに参加したんです。

ですから、彼らが単独でデヴューしたという意味においては、リヴァプールに帰った1960年5月30日、ジャガランダ・コーヒークラブで行われたショーが最初ということになります。

その後、シルヴァー・ビートルズは、マージーサイドのウィラル半島にあるネストンの町のヒンダートン・ロードを本拠地とするネストン女性友好協会のホールで、1960年6月2日から木曜日のナイト・ショーを6回連続で行いました。上の写真は、協会に所属する少女たちが、伝統行事の際に綺麗に着飾ってパレードしているところです。ダンス・ショーは、この後に開催されました。

協会に所属している女性メンバーはもちろん、そうでない女性でも受付で1シリングを支払って午後9時までダンスすることを許可されました。本当はキャス・アンド・カサノヴァズが出演する予定でしたが、ビリー・フューリーのオーディションに合格した彼らは、こちらをキャンセルしてフューリーのツアーに同行してしまいました。その代わりにやってきたのがシルヴァー・ビートルズでした。

女の子たちは、自分たちが知っているカサノヴァズが来ず、聞いたこともないシルヴァー・ビートルズなんてバンドが来ると知って初めはガッカリしたようですが、結果的には、その方がずっと良かったんですね。

 

2 「The Beatles」というバンド名が初めて記事になった!

f:id:abbeyroad0310:20191017015433p:plain

公演前の広告

(1)ビートルズが新聞の記事になった

当時の地元紙の記事は、「’ROCK’ NIGHT IS THURSDAY」と題する記事でこの日のショーを紹介しました。これは開催前のバーケンヘッドニュースと広告です。「ネストン地域のティーンエイジャーと年配の人々は、「the Silver Beetles」の音楽でダンスできるだろう。この新人5人のグループは、マージーサイドにとてつもない衝撃を与え、彼らが出演するホールは多くの人を呼び込んだ。イギリス北東部のプロモーターであるレス・ドット氏は、この地域で長らく待ち望まれていた、ティーンエイジャーのためのロックとジャズというエンターテイメントを開催できたことに満足していた。」

f:id:abbeyroad0310:20191017015551p:plain

公演後のレヴュー

もう一つの記事は、同じ新聞の公演後のレヴューです。「’Rock’ group at Neston Institute」と題した記事で次のように紹介しています。「リヴァプールのリズム・グループ「The Beatles」が、火曜の夜にネストン協会でデヴューを飾った。イギリス北東部のプロモーターであるレス・ドット氏が3時間半のロックンロールショーを開催したのだ。

5人の力強いグループは、マージーサイドのホールを満杯にし、3人のギターとベースとドラムで構成されていた。リーダーであるジョン・レノンは、リズムギターを担当した。他のギターは、ポール・ラモーン、カール・ハリスンが担当し、スチュアート・ド・スタールはベースを、トーマス・ムーアは、ドラムを担当した。彼らは、全員が歌い、一緒に歌ったりソロで歌ったりした。

彼らは、ジョニー・ジェントルのスコットランド・ツアーから帰って来たばかりで、1か月後にはまた訪問したいと考えている。彼らは、マンチェスターのヒッポドローム・シアター、リヴァプール・エンパイアシアター、エイントリー・パヴィリオンでも公演を開催した。」

 

f:id:abbeyroad0310:20191017012058p:plain

リヴァプール・エンパイア・シアター

(2)重要な事実が掲載されていた


The Silver Beatles - Searching

15年後にこのレヴューのコピーをもらったジョンは、「おそらく、これがビートルズに関する最初のレヴューだろう。」と後々まで嬉しそうに周囲の人々に語りました。実際、これがビートルズの演奏に関する最初のレヴューだったのです。写真もないベタ記事扱いでしたが、彼らが初めて公の出版物に掲載されたということで重要な意義があります。それ以外にも、いくつもの重要な事実がここには含まれています。

一つは、この時点ですでに小さなホールとはいえ、そこを満杯にするだけの観客を集めたということです。彼ら自身が認めているように、この頃の彼らの実力はまだまだでした。しかし、スコットランドの時と同様に、もうすでにティーンエイジャーの女の子たちのハートをガッチリ掴んでいたのです。

それから、ジョン、ポール、ジョージの3人だけではなく、スチュやムーアまでヴォーカルを担当したということですね。音源が残っていれば、とんでもないお宝になりますが、何とスチュがヴォーカルを担当していたとは。それに、他のホールでも公演をしていたことが分かりますが、それらは、全てウィリアムズが手配してくれたものです。

そして、最も重要な事実は、「The Beatles」という後に正式なバンド名となる名前が、ここで初めて公の出版物に印刷されたことです。面白いことにこの新聞の前の記事では「the Silver Beetles」と表記されていたのです。この頃、バンド名がいかに混乱していたかがよく分かりますね(笑) 

記事に掲載された協会は、現在、ネストン・シヴィック・ホールとして知られています。1960年代初頭では治安の良い会場ではなく、シルヴァー・ビートルズは、あるショーの最中に16歳の少年が他の観客にボコられているのを目撃しました。この時代は、こういうことが普通だったんですね(^_^;)この場所での彼らの最後の公演は、1960年7月7日でした。

 

3 ドラマーがいなくなった!

(1)トミー・ムーアが脱退

「silver beatles tommy moore」の画像検索結果

リヴァプールに帰ったばかりのビートルズにとってショックな出来事が起きてしまいます。6月11日頃のことですが、ビートルズがウィリアムズの経営するジャガランダ・コーヒークラブに集合してそこから車に乗り、のウォラシーにあるグロブナーボールルームまで演奏しに行くところでした。ところが、ステージの時間が近づいても、ドラマーのトミー・ムーアが現れないのです。

時間になってもムーアが現れないとスチュアートがウィリアムズに電話すると、彼は、猛スピードで車を飛ばしてジャカランダまでやってきて、ビートルズを乗せ、トクステスのファーングローブにあるムーアの自宅まで連れて行きました。

しかし、そこに彼はおらず、妻が、うちの亭主は、もうあんたらのお遊びには付き合わないと決別を宣言したのです。驚いた彼らは、慌ててムーアの仕事場である工場へ行きました。しかし、彼も妻と同様、プロミュージシャンになるのはやめて、今の仕事を続けると彼らにはっきり宣告したのです。

ムーアは、ジョンより7歳も歳上で結婚もしていましたからね。趣味ならともかくプロミュージシャンとして全く先の読めない道を歩むよりは、平和で安定した生活を求めたとしても無理はなかったでしょう。それに、スコットランドツアーでは散々な目にあいましたし。

(2)テディ・ボーイがねじ込んできた

1950's British Teddy Boys, post war working class teenage boy gangs (Teddy Girls were the counter part).

ドラマーがいなくなったからといって、ステージに穴を開けるわけにはいきません。それで、ステージに上がったジョンは、観客に向かって誰か演奏を手伝ってくれる人はいないかと呼びかけました。すると、喧嘩の傷跡のある大柄なテディ・ボーイ、今でいうところのヤンキーのリーダーでロンと呼ばれる男が「オレがやってやる」とステージに上がってきたのです。

しかも、それだけではなく、「これから毎週オレを使え」とねじ込んできました。さすがのジョンも腕力ではかなわないので、ウィリアムズに助けを求めました。彼は、深夜にジャカランダから車を飛ばして来て、何とか話を収めました。

ビートルズだけではなく他のバンドもみんなそうですが、この頃のステージは、演奏の途中で観客同士で喧嘩が始まるなどごく普通でした。ヘタをすると、ステージにいるバンドまで巻き込まれて殴られてしまうのです。

ウィリアムズが、どうやってそのテディ・ボーイを言い含めたのかは分かりませんが、この頃の彼は、本当に大活躍でしたね。ステージに穴を開けてしまうようなバンドなど縁を切っても良さそうなもんですが、彼は、辛抱強くビートルズの面倒を見ました。

こういうところも大いに評価すべきだと思います。もし、ウィリアムズが、この時、彼らを見放していたら、最悪の場合、彼らは、プロになることすら諦めていたかもしれませんから。

「ドラマー不在」という状況は、アマチュアのクオリーメンの時代からずっと彼らを悩ませ続けていました。プロになってからもピート・ベストの加入まで続くことになります。

まあ、ベーシストのスチュだって、ジョンが強引にベースを買わせて加入させたんですけどね(^_^;) 彼は、全くベースを弾いたことがなかったので、初めのうちは、リヴァプールのベーシストであるデヴィッド・メイとジョージが基本的なベースのパターンを教え込みました。

 

(参照文献)TUNE IN, THE BEATLES BIBLE, Neston Past.Com, thefootballvoice, de Gruyter

(続く) 

下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。

よろしければ、下の「このブログに投票」ボタンをクリックして下さい。