★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

インド訪問、ヨーコの介入、ジョージの脱退(266)

10 Best Beatles Books - Rolling Stone

1 ジョンとシンシアとの破局

Cynthia Lennon, first wife of John Lennon, dies of cancer | abc30.com

インドに滞在中、ジョンは、妻のシンシアと疎遠になり、別室で寝たり、1966年に出会ったオノ・ヨーコから毎日届く電報を受け取るために、こっそりと家を抜け出したりしていました。離れ離れになったことで、かえって絆が深まったのかもしれません。そして、マハリシがアシュラムの女性たちに性的な誘惑をしていたという噂を聞いて、ジョンとジョージは怒りを爆発させ、イギリスに帰国してしまいました。

信じられないことに、ジョンは、帰国する飛行機の中で、酔ってシンシアへヨーコとの不倫について詳細を語ったのです。ジョンとヨーコの関係は、もうとっくにシンシアにはバレていましたが、何も改めて言わなくてもいいじゃないですか💦彼女は、どんな想いで聞いていたのでしょうか?この時点でブチ切れて、ぶん殴ってもおかしくありませんでした。

このインド滞在をキッカケとして、ジョンとシンシアとの関係だけでなく、それまでスムーズに噛み合っていたビートルズの歯車が、あちらこちらでギシギシと音を立ててきしみ始めたのです。

 

2 ビートルズは変わってしまった

John Lennon and Ringo Starr recording the basic backing for I'm so ...

ビートルズは、40曲の新曲を携えてインドから帰国しましたが、グループは、すっかり変わってしまっていました。彼らが瞑想を実践したことによって、ソングライターとしての彼らをより偏狭なものにし、彼らの個人的な相性の悪さを浮き彫りにしてしまったのです。

ジョンは、この経験に怒りを覚え、信じていたものに裏切られたと感じ、それまで以上に彼が抱える問題に対する答えを見つけられなくなってしまいました。その苦しさを麻痺させるために、インド滞在中はやめていたヘロインに手を出し始めたのです。それと時を同じくして、ポールもレコーディングの際にコカインを常用するようになりました。おそらく、2人とも超越瞑想では、作曲に必要なインスピレーションを得られないと感じたのでしょう。

それでも、帰国直後に彼らがジョージの別荘でイーシャーデモを制作した時は、非常に和やかな雰囲気でした。しかし、それを基にしたホワイトアルバムの制作が始まると、途端に彼らの人間関係は一変し、非常にギスギスしたものになってしまったのです。

インドへの訪問が、ビートルズの解散の原因だったと主張する人はあまりいないと思いますし、私も直接的な原因であるとは考えていません。しかし、こうして客観的に分析してみると、それは、彼らの感覚を鋭敏に研ぎ澄まし、素晴らしいインスピレーションをもたらした反面、意識を自分自身に集中させることでより内向きにしてしまい、それまで彼らの内部に隠れていたエゴがムキ出しになったため、互いに激しく衝突するようになってしまったともいえるでしょう。

元々天才の4人が集まっていたのですが、それぞれが持つ強烈な個性と天才的才能は、丁寧に包装されていました。しかし、インドでの体験がきっかけとなって、それが剥がされてしまったのです。一度剥がれたものは元には戻りません。 

こういった経緯を日本の城郭に例えれば、ジョージの言動が城壁の一角を壊し、インドへの訪問が外堀を埋め、ジョンのトロント・ロックフェスティヴァルへの出演が内堀を埋めたといえるかもしれません。いささか乱暴な例えですが。

 

3 4人ではなく1人+3人

Nowhere Man ✌ on Twitter: "The Beatles recording the White Album at Abbey Road, 1968 mad fer it. ✌🔥🎵… "

そして、この時期はビートルズにとって最悪の時期でもありました。1968年5月にホワイト・アルバムのレコーディングのためにアビイ・ロードで再会したとき、彼らは人間関係においても作品の制作においても、意見が鋭く対立していたため、しばしば3つの別々のスタジオで曲をレコーディングしていました。3人が別々にスタジオにこもってレコーディングし、その間、リンゴは、ヒマを持て余していたのです。とても、同じバンドとは思えない異様な光景でした💦

ジョンは、ポールの作品のいくつかを「ババアみたいだ」と毛嫌いし、一方、ポールは、ジョンの甲高い原始的な叫び声や実験的な曲を同じように嫌っていました。ジョンとポールの作品は、全く方向性が違っていました。

ポールは子どもから高齢者まで楽しめるポップな路線を目指していたのに対し、ジョンは、より芸術的な創造性の高い作品を志向していました。もちろん、これは一般的にそういう傾向があったというだけで、ジョンもポップなナンバーを作り、ポールも創造的な作品を制作したんですが。

それぞれのソングライターは、他のメンバーを基本的にバッキング・ミュージシャンとして利用していました。こうなるともはやバンドというより、ソロアーティストとバックバンドです。特に、ポールは、メンバーのバッキングトラックを嫌悪していました。「オレたちは、あいつの曲を何時間もかけてサポートしてやったのに、ボツにしやがった。」とジョンは怒りをぶちまけました。

これは、やはりポールの態度に問題があったと思います。何十回もテイクを重ねさせられて、その挙句にボツにされたんですから、それは頭にくるのも当然ですよ(^_^;)ポールのワンマンバンドならまだしも、対等なメンバーなんですから。

4 オノ・ヨーコの介入

(1)レコーディングに参加

John & Yoko in the studio.

この頃のビートルズは、まるでパンクしたままゆっくり転がる自転車の車輪のような状態でした。そこへ、ヨーコが音も経てずにスポークとして入ってきて、さらに話がややこしくなりました。シンシアが休暇を終えて早目に帰宅すると、こともあろうにジョンがヨーコを連れ込んでいたのです。妻が外出している間に夫が女性を自宅へ連れ込む。これもよくある話ですね(^_^;)これが破局の決定的な原因になりました。

「Revolution 1」のレコーディングからヨーコは常に存在感を放っていました。ジョンは、彼女を事実上のビートルにしてセッションに参加させようとしていたのです。彼女は、どこでも彼に付き添い、バンドが演奏している間は彼の隣の床に座り、静かに呟いてレコーディングに口出ししていました。彼女は、ジョージのLSD仲間であったジョンとの絆や、ジョンとポールとの間の音楽的インスピレーションの障壁となり、彼らは、二度と密接にコラボレーションすることはありませんでした。

彼女がレコーディングに口出しするようになったことで、メンバーの確執がさらに深まりました。「ポールが『Revolution 9』を巡ってジョンと対立し、彼女がビートルズを妨害していると非難した時は恐ろしかった」とある目撃者は語っています。「ジョンは、全く反応しなかった。」

(2)彼女が解散の原因なのか?

ここまで書いておいて言うのもなんですが、この話をすると気が滅入ります( ノД`)「ヨーコがビートルズ解散の原因だ。」と主張する人は当時も今も数多く存在しますし、それが多数派かもしれません。

もちろん、彼女が解散に全く影響がなかったかといえばそんなことはないでしょう。彼女は、部外者立ち入り禁止のスタジオに入り、ジョンの隣に座ってレコーディングまで口出しするようになりポールだけでなくジョージも激しく反発しました。

ただ、彼女一人が解散の原因と決めつけるのは、あまりに短絡的すぎる気がします。パーセンテージで言えばどのくらいの比率になるかははっきりしませんが、ジョンの気持ちをビートルズから離れさせ、外の世界に関心を向けさせるしたキッカケは彼女でした。しかし、彼女がいなかったとしても遅かれ早かれそうなっていたでしょう。前にも書いたとおり、ジョージの一言がきっかけでジョンがビートルズから離れた人生を考え始めたのですから。

この記事で彼女のことについて触れるのは、このぐらいに留めておき、改めてまた別に取り上げます。彼女については、あまりにも数多くのエピソードがあるので。

 

5 ジョージの脱退

GeorgeHarrison Let It Be Sessions January 1969

1969年1月10日にレコーディングでポールと口論したジョージは、そのままスタジオを出て行ってしまいました。ホワイトアルバムのレコーディング中にリンゴが脱退したのに続く二度目の脱退者です。

彼のヴォーカルの代わりにヨーコが参加するなど、ビートルズは、レコーディングを続けていましたが、ジョンの頭の中は、将来への不安で爆発しそうになりました。彼は、こう語りました。「問題は、ジョージが脱退したことだ。オレたちは、ビートルズとして続けていきたいのか?もちろん、オレはそうしたい。」

つまり、この時点で彼にはビートルズを脱退する意思はサラサラなく、むしろ、存続させたいと思っていたというところが重要です。もうこの頃には、彼がビートルズを辞めたいと思っていたかのように考えてしまいがちですが、そうではなかったのです。やはり、トロントのコンサートがきっかけだったということがこの点でも裏付けられます。

 

(参照文献)INDEPENDENT, BIOGRAPHY

(続く)

下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。

よろしければ、下の「このブログに投票」ボタンをクリックして下さい。