1 ジョージの処女作~Don’t Bother Me
Don't Bother Me (Remastered 2009)
ビートルズ解散についてのお話を再開します。ジョージが音楽的才能に目覚めたことが解散の遠因になったというところまでお話ししました。
ビートルズがメジャーデビューしてすぐにブレイクし、それからようやくジョージが作曲を開始したのですが、彼の処女作である「Don’t Bother Me」そのものについては触れていませんでしたので、今回はそのことについてお話しします。解散の話からはだいぶ遠くなりますが、これが「ビートルズという大河からジョージという支流が分岐した」象徴ではないかと思うからです。
初めは細くて小さかった川がやがて大きな川となり、ジョン・レノン、ポールマッカートニーという支流と並行して走るようになった。やがてビートルズという本流自体が途絶えてしまい、4人がそれぞれの道を歩むことになりました。
2 作曲したきっかけ
(1)病気療養中に作曲した
この曲についてジョージは、「曲が書けるかどうかの練習として書いたんだ。」と語っています。「僕は、病気でベッドで寝ていた。たぶん、それが『Don't Bother Me』を作曲したきっかけだったと思う。」
彼は、ボーンマスのパレス・コート・ホテルのベッドで休養していました。それは、1963年8月にビートルズがゴーモン・シネマで6晩演奏していた時でした。当時の状況から推察すると、どうやら、8月19日から作曲を始めたようです。
ちなみにこの週に彼らが滞在していたのは、写真家のロバート・フリーマンがイギリスのアルバム「With The Beatles」とアメリカのアルバム「Meet The Beatles!」の表紙を飾った有名なカバー写真を撮影した時でした。これは当時としては珍しくモノクロで印刷されていますが、前回までお話したハンブルク時代に写真家のアストリッド・キルヒャーの影響を受けた、ハーフシャドウというテクニックが用いられています。
アイドルのジャケット写真なのにモノクロで、しかも顔半分が影で暗くなっています。その上、彼らの表情は、笑顔ではなくむしろキリッとしていて、当時のアイドルのイメージとは全く異なります。しかしこの斬新な撮影手法が、このアルバムの評価を一層高くしました。
(2)人生初の薬物使用
ジョージは、ハンター・デイヴィスの伝記「The Beatles」の中で、この曲の作曲について詳しく語っています。「僕は、少し疲れていて、ある種の強壮剤を飲まなければならず、数日間は気楽に過ごしていた。しゃれで曲を書いてみることにしたんだ。ギターを持ってきて、曲ができるまで弾きまくった。次のLPをレコーディングするまでは、そのことはすっかり忘れていた。それは、かなりくだらない曲だった。アルバムに収録されてからは完全に忘れてしまったよ。」
そのずっと後の1969年1月8日、トゥイッケナム・フィルム・スタジオで行われたジョージの曲「I Me Mine」のリハーサル中、ジョージはこの曲についてさらに詳しく語りました。「僕は、ブーレンマスのベッドで寝ていたことを覚えている。僕たちは、夏のシーズンを過ごしていたんだ。医者が強壮剤をくれたんだけど、それにはアンフェタミンか何かが入っていたはずだ。弱っていた精神を元気にするために、そういった色んな薬を飲んだ。この曲を書いたのはその時だった。」
アンフェタミンは、中枢神経を興奮させる作用のある薬ですが、いわゆる覚醒剤であるメタンフェタミンとは別の薬です。依存性が強いため現在では医療現場でも使用がかなり制限されていますが、この当時はまだそういう規制がなく、結構、簡単に使われていたようです。
驚きなのは、ジョージが薬物の作用で気分が高揚して作曲したということです。それなら、彼は、ジョンやポールよりも先に薬物を使って曲を作ったことになります。意図したものではなかったとはいえ、薬物が作曲のインスピレーションを沸かせるという体験をしていたんですね。ただし、これは当時を振り返ってみればということであって、後にボブ・ディランからマリファナを勧められるまで、薬物には手を出しませんでした。
3 友人のしつこい勧めに反発して作曲した
(1)しつこく作曲を勧められた
インスピレーションといえば、「Don't Bother Me」という曲が生まれたきっかけがまさにそれでした。ビートルズの長年の友人であり、リヴァプールの音楽紙「マージー・ビート」の創刊者でもあるビル・ハリーは、他のバンド仲間と同じようにソングライターになれとジョージを何度も促し、本人からうるさがられていました(^_^;)ハリーは、ジョージに出会うたびに「まだ曲を書いていないのか。」と聞いていたそうです。
ハリーは「ジョージがある夜出かけようとしていたとき、僕に出会うかもしれないと思って、『Don't Bother Me』という曲を書き始めたんだ。」と語っています。「邪魔しないでくれ。」って意味ですからね。
これは、ただの愉快なエピソードにすぎないかもしれませんが、確認されているのは、ジョージがこのうっとうしく憤りに満ちた曲を書いたのは、「気分が落ち込んで、一人になりたかった。」からだということです。ということは、ハリーが語ったこともあながち間違いではなかったのかもしれません(笑)
でも、ジョージの立場になってみれば、顔を合わせる度にまだ曲を書いてないのかと言われればうんざりしますよね。ジョンやポールは、若い頃からずっと作曲を続けていましたが、ジョージには全くその気はありませんでしたから。自分がやる気になってならともかく、人から言われてやるというのは気が進まないものです。
(2)ネガティヴな内容
そのせいで歌詞もこの時代のビートルズにしては、珍しくネガティヴな内容になっていてアルバムの中でも異彩を放っています。この頃は、明るくポジティヴな内容の曲ばかりでしたからね。友人のしつこい勧めから生まれた結果論とはいうものの、ジョンより先にネガティヴな内容の曲を書いたことは自慢してもいいのではないでしょうか?
そして、これも結果論なんですが、全く作曲する気がなかったジョージの尻をしつこく叩いて曲を作らせたのは、ハリーのお手柄だったとも言えます。「Something」「Here Comes the Sun」などの名曲は1969年に制作されましたが、ハリーのしつこい勧めがなければ、仮にジョージが作曲を自分の意思で作曲を始めたとしても、もっと遅かったかもしれません。
とすると、これらの名曲は、ビートルズ時代には間に合わなかった可能性もあります。そうすると、ハリーの余計なおせっかいは、ある意味「隠れたファインプレイ」だったといえなくもありません。いや、これマジですよ(笑)だって、ジョージは、本当にハリーをウザいと思ってたんですから💦
4 作曲がジョージにもたらしたもの
(1)仕事を与えてくれた
この「習作」のような曲作りは、長い目で見るとジョージに有利な結果をもたらしました。曲自体は、彼にジョンやポールが享受していた経済的成功をもたらしたことは間違いありませんが、それにとどまらず、はるかに先へと広がっていったのです。「少なくとも、それは、僕に必要なことは曲を書き続けること、そして、最終的には良い曲を書ける可能性があることを教えてくれた。」とジョージは述懐しています。
「それは、僕に仕事を与えてくれた。」この仕事は、彼の視野を広げただけでなく、ビートルズの中での彼の役割も広げてくれました。彼はリードギタリストとしてだけでなく、ソングライターとしても活躍するようになったのです。ソングライターとしてのこの役割は、ビートルズのキャリア、ソロ時代、そして彼の残りの人生を通して、質だけでなく量的にも成長し続けることになりました。
ジョージがソングライティングを始めたきっかけは、バンド仲間から多くを学んだことでした。「僕は、ジョンとポールが曲を書いている時、あるいは曲が生まれてくる時に同じ車に乗って移動していたという特権的な立場にいたから、他のメンバーから曲作りについて少しだけ学んでいたんだ。」
正に「門前の小僧習わぬ経を読む。」ということわざ通りです。ジョンとポールが作曲しているのを横目で見ながら、「そうか、こうやって作ればいいんだ。」と学習していたんですね。
(2)一人で作曲した
しかし、ジョージは、ジョンとポールのように共同して作曲するということに興味はありませんでした。「自分一人で書くことが唯一の方法になってしまったんだ。その結果、何年もの間、誰かと一緒に書くことはなく、ちょっと孤立してしまった。他の人と一緒に書くということがどういうことかを経験したことがなかったから、少し偏執的になっていたと思う。それは厄介なことだった。ある人には受け入れられるものが、別の人には受け入れられないかもしれないんだからね。」
これは極めて重要な話です。ジョンとポールは、若い頃からずっと一緒に作曲をしていました。この頃の彼らは、本当に阿吽(あうん)の呼吸で曲を作っていたのです。しかし、彼らに遅れて曲作りを始めたジョージは、一人で作曲するしかありませんでした。
初めはなかなかうまくいかず、ジョンやポールの助けを借りていました。やがて彼も成長して一人前になると、今度は自己主張が強くなって彼らとぶつかるようになりました。自分ではいいと思った作品でもそれが他のメンバーに受け入れられるとは限りません。そして、ジョージの前には、いつもレノン=マッカートニーという巨大な壁があったのです。
(続く)
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