★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

到着時から不穏な雰囲気だったフィリピンツアー(278)

The Troubled Journey Of The Beatles In The Philippines – Rock Pasta

1 ドント・バザー・ミー

Beatles - The Beatles Philippines Concert Poster 1966 in British Invasion Music Posters

ビートルズがマニラ空港に降り立った時には、2000人の警察官が厳戒態勢を敷いていました。それは、マッカーサーアイゼンハワーが来た時よりも大規模で、空港に詰めかけた人のほとんどはティーンエイジャーでした。1966年7月3日にマニラに降り立ったビートルズは、疲れ果てていました。ビートルズ初の主演映画「A Hard Day's Night」は、ビートルマニアをパロディ化したものでしたが、その頃は、まだ彼らが騒動を楽しむ余裕がありました。しかし、1966年に入るともうそんな余裕はなくなっていたのです。

それでも彼らは、ブライアンが自分たちにとって何がベストなのかを知っているという信念を抱いていました。彼らは、ブライアンが手渡した契約書に言われるままサインしました。彼らは、ブライアンが全ての状況をちゃんと把握していると思い込んでいたのです。しかし、実際には彼自身もよくわからないままサインさせていた契約書がたくさんあったのです。

ビートルズは、搭乗中にマニラツアーの日程を見直す必要はありませんでした。彼らは、ただマリファナを吸いたいだけで、放っておいて欲しかったのです。キャセイパシフィック航空のエコノミークラスに乗っていた乗客たちは、客室乗務員に対し、ビートルズと一緒に写真を撮らせてくれとか、サインをもらいに行かせてくれと懇願しましたが、もちろん断られました。機長は、彼らをコックピットに招待しましたが、彼らは断りました。 

メンバーは、ジョージの「ドント・バザー・ミー」の心境だったんでしょうね。日本公演が終わってくたくたに疲れていましたから、マリファナを吸うか眠るか。いや、ちょっと待ってください。彼らは、機内にマリファナを持ち込んでいたんですよ。信じられませんね💦機長がコックピットに関係者以外の人間を招き入れるのも、今では絶対にありえませんが。乗客の願いは断っておきながら、自分たちはちゃっかりサインをもらおうとしてたんですかね。

 

2 乱暴だった警備員の態度

The Beatles arrive in Manila, Philippines, 3 July 1966

(1)荒っぽい出迎え

ビートルズの誰もが、マニラ国際空港に着陸した時に何が起こるのかを知りませんでした。ジョージは、いつもと何も変わらないと思っていました。実際、今まではそうでしたからね。ビートルズは、自分の荷物とアシスタントを連れて飛行機を降り、送迎車に乗り込みました。 

空港には何千人もの若いファンが詰めかけていて、自動車で移動するアイドルを一目見ようと待ち構えていました。マニラ国際空港のゲートでは、一瞬、10代の熱狂的なファンがビートルズを乗せたリムジンに声をかけることができました。ファンは、車にキスをしましたが、車は急発進しました。この日、警備員がファンをねじ伏せたり叫んだりすることはありませんでした。 その点では、欧米のファンよりは大人しかったでしょう。

しかし、警備員の扱いは失礼極まりないものでした。ジョージは、こう語っています。「マニラに着いたとき、一人の男が僕たちに向かって『車に乗れ!』と叫んでいた。僕たちは、初めて粗末な扱いを受けた。アメリカでもスウェーデンでもドイツでも、マニアックなところはあっても、僕たちは有名な芸能人なので、常に尊敬の念を持たれていた。でも、マニラでは飛行機を降りた瞬間から暗い雰囲気だったから、ちょっと怖かったよ。」 日本ではもちろんのこと、他のどの国でも特別待遇を受けてきた彼らでした。それがマニラでは、警備員が上から目線で命令してきたのです。 

ビートルズに手荷物を預けろと叫んでいたのは、マニラ国際空港の税関長でした。彼は、自ら滑走路にまで出てきて手荷物を引き渡せと要求し、ビートルズに向かって「渡さないと飛行機に戻らせるぞ!」と悪態をついたのです。メンバーが手荷物を手離さなくてはならなかったのはかなりマズい状況でした。

というのも、手荷物の中にマリファナが入っていたからです💦それまでは、手荷物を調べられることもなく入国できたのですが、彼らは、見知らぬ国に来て、その国の麻薬取締りに関する法律や警備員がそれを執行する意志があるのかどうかも分かりませんでした。ビートルズを警護する何百もの警備部隊も不吉なオーラを放っていました。 

日本でも警察の警備は厳重でしたが、ビートルズに対しては非常に丁寧な対応でした。それとは真逆の対応ですね。

(2)手荷物が置き去りにされた

バンドのロードマネージャーであるニール・アスピナルが後に語ったように、ビートルズが逮捕されておかしくないような不穏な状況でした。「軍人もたくさんいたけど、半袖のシャツにズボンを履いたヤクザもたくさんいて、全員が銃を持っていた。彼らは、4人のビートルズをリムジンに乗せて走り去り、手荷物を積み込もうとはしなかった。滑走路に置き去りにされた小さなカバンにはマリファナが入っていた。私は、そんな混乱の最中にリムジンのトランクに手荷物を積んで『ビートルズを連れて行った場所に連れて行ってくれ。』と言ったんだ。」

軍人が警備にあたっていたのは分かるとして、なぜヤクザまでそこにいたのかは分かりません。おそらく警備の人数が足りなかったので、地元のヤクザを応援で駆り出したんでしょうね(^_^;)ニールが急いで手荷物を回収してくれたから助かりましたが、もし、警備員が見つけて中からマリファナが発見されていたら、ただではすまなかったところです。 

これは、ビートルマニア時代で初めて、異国の地でニール、ブライアンの両者から切り離されてメンバーだけになってしまった時でした。仲間や荷物がどこに行ったかも分からず、どんな運命が待ち受けているかも分からないまま、ビートルズは、フィリピン海軍本部での記者会見場へと案内されました。不安で仕方なかったでしょうね。

海軍本部で記者会見を行うのは、海軍の軍楽隊だけです。そんな状況にもかかわらず、ビートルズは、記者会見で自分たちの魅力を見せようとしていました。カメラマンたちが写真を撮ろうと立ち上がると、ジョンは「ウーフ!ウーフ!」と叫びました。リンゴは、立ち上がって「ダンスを踊ろうぜ!」とジョークを飛ばしました。ポール以外は、全員がサングラスをかけていました。そういう態度をとることによって、彼らは「僕たちがファンから隠れているんじゃない。ヤツらが僕たちをファンから隠しているんだ。」と主張していたのです。

 

3 記者会見のルール

When The Beatles were almost beaten up in Manila | Bandwagon | Music

(1)記者会見のお約束

ビートルズは、広報担当のトニー・バロウが、ファン大会になってしまわないよう、ちゃんとした記者会見ができるようなルールを設定していました。サインは禁止。18歳未満は立入禁止だが、ビートルズのファンクラブ支部の幹事は除く。立ち見は禁止。高品質の音響増幅システムを使用して、質問をすべて理解できるようにしました。 

ビートルズのスタッフとしては、いつも彼らの側にいたマルやニールがファンにはよく知られていると思いますが、トニーの方が貢献度は高かったのです。ただ、裏方に徹していたのであまり目立たなかっただけです。 

これらのルールが設定されたにもかかわらず、その後の記者会見は、予想通りに陳腐なものとなりました。リヴァプールの若者たちとナショナル・プレス・クラブの常連の記者たちの間には共通の接点がないことがそれを確実にしていました。 

質問の多くは、頭の固い老人たちが作成したワンパターンなものばかりでした。長い髪がなければ人気者になれないのですか?最後に散髪したのはいつですか?税金はいくら払っていますか?ヴェトナム戦争はどうやったら解決しますか?その最後の質問に、ジョージは「それに応えられる立場の人に聞いてくれよ。」と大笑いして応えました。

 

(2)毎度同じ質問ばかり

しかし、ビートルズは、明らかに怒りっぽくなっていました。最新の曲は何かと聞かれると、「フィリピン・ブルース」とジョークで応えましたが、笑った記者はほとんどいませんでした。ジョンは、「スペイン人の仕事」というタイトルの2冊目の本を出版したばかりでした。記者が「最新の本の中のスペイン人とはどういう意味ですか?」と聞くと、ジョンは「読んだことはあるの?」と聞き返し、記者が「読んでいない。」と応えると、「じゃあ、読んでみて。」と応えました。 

ビートルズがデビューして間もない頃ならまだしも、スーパースターになってからも相変わらず同じ質問を続けられればうんざりしますよね。彼らは、ミュージシャンなのに音楽のことについては何も聞かないんですから。 

マニラ・タイムズ紙のジーン・ポープは「ジョン・レノンは、傲慢な鼻越しに群衆を見ていた。」と語りました。まあ、実際、記者たちを小バカにしていたのは事実でしょう。フィリピンのエドサリヴァンことジョー・キリーノは、リンゴを最も気に入っていました。「彼は、敬意をこめて真面目に応えていた。しかし、彼の服のセンスは最悪だ。白のストライプの入った小豆色のジャケットにフラードのシャツとパンツ、そして説明がつかないような靴を履いていた。」

ブライアンは、終始、何も言わずに立っていました。あるフィリピン人によると「彼は、いつも怒っているように見えた」とのことです。彼は、30分後に「皆さん、これで終わりです」と淡々としたアナウンスで記者会見を打ち切りました。彼らはその後、船に乗るために港へ向かいました。

 

(参照文献)Esquire

(続く)

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