★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

コンサートは大盛況で終わったが…(281)

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 ポールはたまたま外出していた

(1)たまたま難を逃れた

ポールは後に、もう招待を断ったと思っていたと語りました。「今日はオフの日だ。」彼らは、テレビのスイッチを切りました。その日の遅くに、プロモーターのラモスJrは、マニラ・タイムズ紙の取材に対し、ホテルのスイートルームでビートルズと話したこと、ビートルズはパレスに行きたいと言ったが、ブライアン・エプスタインが断ったと応えました。

このラモスJrなる人物もかなりのアホですね💦「ビートルズは長旅で疲れて体調が悪く、大統領夫妻の前で失礼があってはいけないので、日時を改めて訪問するつもりだった。」とか適当なことを言っておけばよかったんですよ。

ポールと運転手のニール・アスピナルは、しばらくの間、ホテルから外出していて、彼らを取り巻いていた大騒ぎにまだ気づいていませんでした。

 

 (2)ニールの回想

ニールは、こう語っています。「ポールと僕は、こっそりホテルを出たんだ。僕たちは車に乗り込み、何キロもの距離を走った。5分も走ればマンハッタンのようになり、その先の長い道のりは恐ろしい田舎町になっていた。写真を何枚か買って、砂丘に座って一服してから、車でホテルに戻った。誰もが、特に警備員が驚いていた。『どこへ行ってたんだ?どうやってホテルの外に出られたんだ?』とね。」
そりゃ、お前らがボンクラだっただけだろうが(笑)日本でもポールは脱出を試みましたが、こちらはあえなくすぐに発見されてホテルに戻されましたから。
アスピナルは、こう語っています。「フィリピン・ツアーは失敗だったと言われ続けているけど、ビートルズは、マルコスの件があった後、2回のライヴを約10万人の観客を前に行い、ファンは本当に楽しんでいたよ。軍とは関係ないけど、彼らは、僕らよりもファンを組織しているように見えた。車は道を間違えていたし、ドレッシングルームは散らかっていた。」

ビートルズは、その前の6月に来日していました。その時の日本は、過剰ともいえる警備体制でしたが、彼らにとってはその方がよほどありがたかったでしょう。

 

2 大勢の人々が集まっていた

(1)ブライアンの予想通りだった

その日の朝10時からマラカニアン宮殿に集まったゲストは、子どもたちだけでなく、マルコス一家の友人である親たちも含まれていました。その中には、7か月前に宮殿に引っ越してきて以来、初めてマルコス夫妻と再会した人物もいました。イメルダの侍女たちは、全員出席していました。シンガー・カンパニーのリチャード・ジョンソン夫妻もそこにいて、ビートルズにヘアードライヤーやお土産のエレキギターをプレゼントする準備をしていました。
イメルダは、自分が開発したフィリピンの総合的な社会福祉プログラムを説明したパンフレットを持っていました。群衆が集まってくると、大統領が会場の様子を覗きに行きましたが、ビートルズが到着していないことを知らされ、書斎に戻りました。ブライアンが予想した通り、大統領夫妻と知り合いというだけで招待してもらえた人々が一般のファンそっちのけで大勢集まっていたわけですね。

(2)本気で髪を切るつもりだった!

The truth about the Marcos family. - Home | Facebook

子どもたちは、ビートルズが港でボートに軟禁されていたことをそこで初めて知りました。それからの2~4時間は、待つことに慣れていない人を除いては、ほとんどのフィリピン人にとっては普通の長さでした。

正午になると、流石に宮殿の使用人たちがビートルズのために用意したテーブルを片付け始めました。一人の利発な少女は、「女王陛下から勲章を授けられた人が約束を守らないわけがない」と言ったそうです。いや、だから約束してなかったんだって。

当時、8歳だったマルコス大統領夫妻の息子のボンボン・マルコスは、「ビートルズに飛びついて髪を切りたい!」と言っていました。「誰にも何もさせないでよ、僕がやるんだから。ビートルズがどんなゲームを見せてくれるか試したいんだ。」危うく1964年のアメリカツアーの際に、リンゴが英国大使館のレセプションで髪を切られた事件の再現となってしまうところでした。
これを考えてもビートルズが宮殿に行かなかったのは、ある意味で正解だったでしょう。宮殿に行かなかったことが結果的には酷い目に遭うことになったのですが、行ったら行ったでファンが殺到して、同じような目に遭わされていた可能性を否定できないからです。

最も不吉だった暗示は、デイリーミラー紙が5歳のアイリーン・マルコスから取材した時の「私がビートルズで好きな曲は一つだけ。『Run for Your Life』よ。」という応えです。邦訳のタイトルでは「浮気娘」となっているこの曲は、「お前が浮気したら生かしちゃおかねえぞ。死にたくなければサッサと逃げな。」って彼女を脅すおっかない歌詞です。「ビートルズが約束を破ったら殺すぞ。」という意味にもとれますね。それはともかく、ビートルズはレセプションに出席せず、その場はそれで無事に終わりました。

 

3 ショーは無事に開催された

(1)会場に到着

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彼らは、2つのショーを開催しました。午後4時の昼の部と午後8時の夜の部です。午後2時30分には、リザール・スタジアムに通じるM.アドリアティコ通りが通行止めになっていました。750人以上の警察官がスタジアム周辺に配置されていました。サッカー場のすぐそばにあるエアコンが完備された特注の楽屋が用意されていました。外では、約35,000人のファンが午後の太陽の下で熱気に包まれていました。

ビートルズは、2台のリムジンで到着しました。予想以上に多くの人が集まっていたのですが、彼らが特にそれで喜んだわけでありません。ジョージは、「僕らが会場に着いたときは、モントレー・ポップ・フェスティヴァルのようだった。」と回想しています。モントレーは、この約1年後に開催された、世界初のポピュラー音楽のフェスティヴァルとされています。その後、全世界で開催されるようになったロックフェスティヴァルの原点とも言われています。会場には約20万人の人がいて、「プロモーターは、これで少しは儲けているのではないかと思った。」と彼は語っています。いくらなんでも20万人は、ちょっと大袈裟でしょう(^_^;)

彼らは、この24時間の間に空港での騒動、記者会見の無意味さ、ボートでの暑さと湿度、ホテルへの脱出、宮殿に連れて行こうとする警官からのドアのノックなど様々な不快な経験をしました。楽屋では、リンゴとジョンがベッドに横たわっていました。彼らは、テレビを消し、ステージのスピーカーを切って、オープニングアクトの歌を聞かないようにしました。

(2)コンサートは何の問題もなかった


The Beatles Live in Manila July 4 1966

ビートルズは、ブライアンが選んだ黒のズボンにラベンダー色のプリントシャツ、襟の広いシャツ、赤いストライプの入ったラベンダー色のコートという衣装でした。楽屋でギターをチューニングし終えると、ステージに上がり、幕が開くのを待ちました。その後ろでポールがふざけてツイストを踊り始め、舞台袖のスタッフはそれを見て笑っていました。

ビートルズは、昼の部で30分、夜の部で30分だけ出演しました。彼らは、「Rock and Roll Music」をオープニング曲に選びました。初期のヒット曲の一つである「I Wanna Be Your Man」も演奏しました。「If I Needed Someone」「Baby's In Black」「Day Tripper」「I Feel Fine」など、セットリストは、いつもの通り11曲、「I'm down」がラストでアンコールはありませんでした。

「フィリピンのエドサリヴァン」と呼ばれたジョー・キリーノは、出演者の中で最も気合が入っているとリンゴを絶賛しました。また、ポールは、最も拍手喝采を浴びていて、彼が肩をすくめるたびに観客から悲鳴が上がっていました。しかし、ジョンやジョージはやる気がなさそうに見えたというのです。

面白いもので、その頃の彼らのライヴに対する考え方の違いが第三者からも見て取れたんですね。リンゴは、どこでも全力で演奏し、ポールもライヴを楽しんでいました。しかし、ジョンとジョージは、同じことの繰り返しに嫌気がさしていて、もう止めたいと思っていたのです。観客でそれに気がついた人はほとんどいなかったでしょうが、冷静な目で見ていた人にはちゃんと分かったんですね。

結局、マニラで行われたビートルズのライヴには、少なくとも8万人の有料の観客が集まったようです。トニー・バロウは、最初のショーで彼が見た光景に悩まされていました。制服を着た警備員が重い木製のこん棒で、フェンスの後ろから観ていた子どもたちを容赦なく殴っていたのです。ファンに徹底して優しかった日本の警察官とは大違いですね。

いくらフェンスの外からタダ観していたとはいえ、コンサートの邪魔をしたわけでもないのに、何も殴ることはないじゃないですか💦せいぜいあっちへ行きなさいと追い払うぐらいでしょう。

ともかく、コンサートは、大きなトラブルもなく終わりましたが、ビートルズは、ここからいよいよ「地獄の釜の蓋が開く」瞬間を迎えたのです。

 

(参照文献)Esquire, THE BEATLES BIBLE

(続く)

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