★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

コンサートを止めた~4人が束縛から解き放たれて自由になった(296)

The Beatles, Paris, May 1965 - Galerie XII

1 鉄の結束を誇っていた

(1)アイドル時代は強く結束していた

How the Beatles Created Self-Conscious Stardom | The New Yorker

ビートルズの解散寸前、メンバーはバラバラになっていました( ノД`)特に、ジョン・レノンポール・マッカートニーの二人の間柄は、険悪なものになっていたのです。しかし、彼らは、下積み時代からジョンをリーダーに固く結束し、メジャーデビューしてからも、様々な困難を4人で乗り越えてきました。

バンドのメンバー同士が鋭く対立するなどということは今も昔も日常茶飯時です。ビートルズと同世代のバンドでも、音楽の方向性の違いなどからメンバーが脱退したり、入れ替わったりなどは当たり前のように行われていました。

そんな中で、ビートルズが4人のメンバーのまま変わらずに活動し続けたことの方が、むしろ珍しかったのです。アーティストは、才能があればあるほど妥協することを嫌います。それもソロ・アーティストならともかく、バンドとなると一つにまとまるのは大変です。しかし、ビートルズの場合、ジョンがリーダーとなり、他の3人をまとめてとても強固なチームを形成していました。

ところが、鉄の結束を誇っていた彼らの関係にも少しずつ変化が現れてきました。どんなことをするにも同一歩調を取っていた彼らが、次第に単独で行動するようになったのです。

(2)すれ違いはいつどのようにして起こったのか?

ビートルズが不思議なのは、メンバーの人間関係が一気に悪化したわけではなく、いつのまにかバラバラになっていたということです。何がきっかけだというこれといった原因が見当たらないから不思議なのです。

だから、解散から50年(!)が経った2020年になっても、未だに世界中で解散を巡って様々な議論がされ続けているのです。ビートルズが短い活動期間でしたにもかかわらず数多くの謎を我々に残して行きました。そして、おそらくその中でも「解散の原因」が最大の謎だと思います。そして、解散へのきっかけの一つとして加えるべきものがあります。それが「コンサートを止めたこと」です。

 

2 突然コンサートを止めた

ビートルズは、1966年のアメリカ、キャンドルスティックパーク・スタジアムでのコンサートを最後に一切のコンサートを止め、音楽活動としては、スタジオでのレコーディングのみに絞りました。しかも、このことについて何の公式なコメントも公表せず、いわば「自然消滅」のような形で終わらせたのです。

この頃の彼らの人気は全く衰えることなく、リリースしたシングル、アルバムはいずれもチャート1位をキープする好調ぶりで、全米ツアーでは、会場となったどの野球場も大勢の観客が詰めかけ、ファンの絶叫で演奏が聴こえなくなるほどでした。もっとも、「プラチナペーパー」と化していた彼らのチケットも売れ残りが出るようになり、マスコミからは「ビートルズ人気に陰りが出始めた」と指摘されていました。

しかし、売れ残りが出たとはいえ、それは、アメリカの野球場という当時としては考えられないほど大規模な会場でしたから、多少出たところで彼らの人気に影が差したとは言えなかったでしょう。それに、彼らが従来のアイドル路線からアーティスト路線へと軸足を移していたことも影響していたかもしれません。

いずれにせよ、ビートルズは、人気絶頂の時に突然コンサートを止めたのです。「レコードはリリースするが、コンサートはやらない」という、当時としては考えられない姿勢に転じました。人気が低迷していたのならともかく、絶頂の時に、なぜ、彼らは、なぜこのような行動をとったのでしょうか?

3 歓声で聴こえない!

www.youtube.com

ビートルズのコンサートはどんどん巨大化し、それまでのコンサート会場では観客を収容できず、野球場に6万人の観客を収容したのです。観客は、ビートルズがステージに登場すると一斉に絶叫し、それがコンサートが終わって彼らがステージを降りるまで続きました。

当時の貧弱なサウンドシステムでは、彼らの演奏を十分に増幅できず、観客の絶叫にかき消されてしまい、殆ど聴き取れませんでした。そのうえ、ステージ上にはミュージシャンへの返しのスピーカーがなかったため、彼らには、スピーカーから出る生のサウンドしかありませんでした。そのため、彼らは、観客の絶叫で自分たちがどんなサウンドを出しているかすら分からなかったのです。

多くのミュージシャンにとって、ライヴで演奏することは彼らの仕事の中で最高の部分ですが、一方でツアーはある意味で大きな負担でもあります。最近のバンドは、ツアー中の負担を軽減するために、あらゆる種類の対策を講じていますが、ビートルズは、人気絶頂の時でさえも、その経験が苦痛で長く続く仕事であることに気付き始めていました。1966年8月21日、彼らはそれを何とかしようと決心しました。

ポールが後に「ビートルズ・アンソロジー」の中で振り返っているように、バンドメンバーの間では、特にジョージやジョンから、しばらくの間、ツアーを止めたいという意向を聞いていましたが、彼は、常にライヴパフォーマンスを続ける必要があると主張していました。彼の言葉を借りれば、「僕はずっと言いたかったんだ。僕たちは、ツアーをする必要があるし、ミュージシャンは演奏する必要があるんだって。」

 

4 潮目が変わった!

(1)感電死したかもしれない💦

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翌日に行われたコンサート

潮目が変わったのは、1966年8月20日シンシナティクロスリーフィールドでの公演が雨のため中止になったときでした。ビートルズによると、彼らがステージに上がれなかったのは、この時が最初で最後だったとのことです。中止になったギグについてジョージ自身の回想では、すでに危険だったコンディションをさらに悪化させた、会場における計画性の低さに問題があったと考えていました。

シンシナティは、野外会場で、球場の中央にテントの屋根が付いた野外ステージがあったんだ。本当に悪天候で土砂降りの雨が降っていて、(ビートルズのアシスタントのマル・エヴァンス)が機材をセットアップするためにそこに着いた時に、彼は、球場のスタッフに『電源はどこだ?』と聞いたんだ。すると、その男は『電気ってどういう意味だ?(アコースティック)ギターを弾いていると思っていたよ。』と言った。彼は、僕らがエレキギターを弾いていることすら知らなかったんだ。」とジョージは、後に回想しています。「彼らは、電源を持ち込んできたが、ステージはびしょ濡れで感電死していただろうから、キャンセルしたんだ。これまでに中止した唯一のギグさ。」

現代では信じられないほどお粗末な話ですが、ステージ上の楽器のセッティング以外のステージの設営は球場のスタッフが行っていました。彼らは、音楽については全くの素人でしたから、ステージの形さえできればそれでいいだろうと安易に考えていたのです。ステージはびしょ濡れで、誰かが感電死してもおかしくない状態でした💦

(2)ついにポールも諦めた

結局、ショーは翌日の正午に延期されたのですが、そのためにまた新たな問題が生じました。延期した時間に合わせてスケジュールを調整した結果、彼らは、21日の早朝に起きてショーを昼に行い、その後セントルイスまで564㎞近く(東京から神戸よりもう少し西)を移動し、午後8時30分にコンサートを開かなければなりませんでした。今回も悪天候でしたが、大雨は、ポールが「ステージ上の波型の鉄板」と呼んだものによって、何とか凌げていました。ベーシストにとっては、リヴァプールのキャヴァーン・クラブでのビートルズの初期のギグを思い起こさせるような、とても良い状況とは言えないものでした。

「初期の頃よりも酷いものだった。それに会場が満員だったとは思えない。ギグの後、大きくて空っぽの鉄張りのワゴンに乗ったのを覚えている。そこには家具も何もなかった。何かにしがみつきながら車の中をあちらこちらへ転がっていたんだけど、その時にみんなが言ったんだ。『こんなツアーのどこが楽しいんだ。もう我慢できない。』って。僕もようやく同意したよ。」と彼は振り返りました。ツアーの中止に最後まで反対していたポールでしたが、ついに彼も同意せざるを得なくなったのです。

 

5 静かに幕を引いた

(1)公式発表はしなかった

Minnesota Moment: Someone touches a Beatle | Star Tribune

ポールによると、メンバーは公式な発表で騒動を起こすよりも、何も言わないことにしたとのことです。この判断が功を奏して、短期的にはグループがスタジオに落ち着き、当時のレコーディング技術の限界をさらに探求することができたのです。時が経つにつれ、コンサート生活を諦めることで何を失ったのかという疑問が彼らを悩ませるようになり、最終的な最後のライヴパフォーマンスでは、彼らの心を深く揺さぶるものがありました。しかし、最終的には、スケジュール上で何百キロも移動を続けることは、もう楽しくなかったのです。

「僕たち自身が楽しむこと、それが重要なポイントだったんだ。何をするにしても楽しくやらなきゃ、僕らはそういうことが得意だったんだ。」とポールは語りました。「でも、今ではアメリカでさえも、ツアーのコンディションも酷かったし、何度もやっていたこともあってつまらなくなっていた。」ライヴが大好きだった彼ですら、もはや何の魅力も感じなくなっていたのです。

(2)時代の先を行き過ぎた

考えてみると、ここにも大きな不幸があったのかもしれません。ビートルズプロ野球場のような巨大な施設でコンサートを始めたことは画期的なことでしたが、残念なことに彼らのサウンドをサポートする設備もスタッフも不十分でした。彼らは、時代の先を行き過ぎていたんですね。ようやく時代が彼らに追いついた頃には、もう彼らは、ライヴパフォーマンスを止めていたのです。

コンサートを止めたことが直ちに解散につながったわけではないのは、その後もビートルズが次々とアルバムやシングルをリリースして大成功を収め続けていたことが証明しています。ただ、コンサートをするためには、全員が一つにまとまらなければなりません。しかし、それがスタジオでのレコーディング、しかも、コンポーザーが3人もいるとなると、必ずしもそうである必要はなくなったのです。4人ではなく1人+3人でもレコーディングが可能になりました。そうなると、彼らがそれぞれに自分のやりたいことをやろうとし出したのは、当然の流れであったということができるでしょう。

 

(参照文献)「The Day the Beatles Decided to Stop Touring」:アルティメット・クラシック・ロック

(続く)

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