- 1 不慮の事故死だった
- 2 茫然自失となったビートルズ
- 3 ジョンにとっては解散への序章だった
- 4 ビートルズは葬儀に参列できなかった
- 5 ポールが「マジカル・ミステリー・ツアー・プロジェクト」を提案
1 不慮の事故死だった
検死の結果、ブライアン・エプスタインの死因は「カーブリタールの過剰摂取による偶発的な事故」と断定されました。カーブリタールという薬は、バルビツール酸系の睡眠薬で当時は一般的に用いられていました。過剰摂取すると死に至る危険があり、当時は自殺のために服用されることもありました。それで、製薬業界も事故を防ぐために、万が一過剰摂取しても死亡する危険の少ない非バルビツール酸系の睡眠薬を開発し、現在ではそれが用いられています。
ポールは、こう語っています。「事故死ではなく、何か他の原因ではないかとの噂があったが、個人的には飲酒と睡眠薬の過剰摂取だと思う。あくまでも人づてに聞いた話だけど、ブライアンは、郊外の家に行っていた。金曜の夜だったんだけど、そこに友だちが来る予定だったんだ。彼はゲイで、家には若い男性がいたようだ。彼は、友人の一人と一緒に行ったが、他には誰も現れなかった。『急げばロンドンに戻る時間がある。そうすればクラブに戻れる』と思ったそうだ。ブライアンを知っている私には、それは十分あり得ることだったと思う。それで彼は、車でロンドンに戻ってクラブに行ったんだけど、どこも閉まっていて何もできなかったんだ。」
「ブライアンは、数杯の酒を飲んで、気持ちよく眠りにつこうと寝る前に睡眠薬を1、2錠飲んだ。彼は、いつもそうしていた。夜中に目が覚めて思ったんだと思う。『何てことだ、眠れない。薬を飲んでいない。』と勘違いして、さらに数錠飲んだことが彼の命を奪ってしまったのだろう。」
「数日後にブライアンの執事に会いに行ったけど、彼は、何も不審なことはなかったと言っているし、ブライアンが不機嫌になっている様子もなかった。私の感覚では事故だと思っている。」*1
ブライアンは、ビートルズがコンサートを止めてからマネージャーとしての仕事が激減してしまい、そのことについて悩んでいたのは事実だったようです。しかし、だからといって、すぐに自殺するような状況ではありませんでした。あくまで偶発的な事故でしょう。
2 茫然自失となったビートルズ
1970年のローリングストーン紙のインタヴューで、ジョンは、その日のニュースに衝撃を受けたと語りました。ヨーギーは、ビートルズに亡くなったマネージャーであり友人でもある彼の死をポジティヴに考えるように促しましたが、ジョンは、そのアドバイスに従う気にはなれませんでした。
彼は、ヤン・ウェナーにこう語りました。「私は呆然としていた。『あなたは経験しているかどうかは知らないけど、僕の周りではたくさんの人が死んでいったし、それと、もう一つ、「一体、僕に何ができるんだ?」と思っているんだよ。』」*2
そりゃ、そうでしょう。ヨーギーは、何十年も修行した結果、親しい人が亡くなってもそれを受け入れられるだけの人物になっていたのかもしれませんが、まだ若いジョンは、とてもそんな心境にはなれませんでした。彼は、母親のジュリアを亡くし、親友スチュアートを亡くし、そして、また彼らを支えてきてくれたマネージャーのブライアンをも失ったのです。
ビートルズは、リヴァプールのローカルバンドに過ぎなかった彼らを芸能界の頂点へと連れて行ってくれた男を失いました。「あの時、我々が困っているのは分かっていたよ。」とジョンは語りました。「我々は、音楽を演奏する以外に何かができるなんて思っちゃいなかった。」*3
3 ジョンにとっては解散への序章だった
ブライアンは、ビートルズにとって育ての親ともいうべき存在でした。確かに彼らは、スーパースターとなり、超一流のアーティストとして活動していましたが、だからといって彼を必要としなくなったわけではありません。ビジネスのことは、すべて彼に任せることで、彼らは音楽に集中できたのです。ところが、彼らは、何の前触れもなく重要なパートナーを失ってしまいました。その喪失感は、肉親を失ったのと同じ程度に衝撃だったのではないでしょうか。
ビートルズは、少なくともアイドルとして活動していた間は、音楽に関すること以外はほとんどブライアンの指示通りに動いていたのです。その彼が突然目の前からいなくなってしまったのですから、これからどうしたらいいのか、彼らにも分かりませんでした。
実際、ブライアンの死は、ジョンにとって死を告げる鐘の音のようなものでした。「私は怖かった。我々は、もうダメだと思った。」ホワイトアルバムをリリースした後、彼の恐れは確信へと変わりました。「それから、我々は解散した。」ジョンにとって「ブライアンの死=ビートルズの解散」を意味したのです。
もちろん、すぐにそうはならなかったのですが、それは、彼を始めとしてメンバーが冷静さを取り戻して、音楽活動を再開したからです。しかし、ジョンが後から振り返ってみると、やはりそれが大きなきっかけとなったということなのでしょう。
4 ビートルズは葬儀に参列できなかった
(1)遺族の意向
2007年のワシントン・ポスト紙によると、ブライアンの遺族は、メディアが取材で殺到することを避けるために、葬儀に参列しないようにビートルズに依頼したそうです。仕方がないこととはいえ、さぞかし彼らも辛かったでしょう。
しかし、伝えられるところによると、ジョージがブライアンの友人の一人に新聞紙に包まれた花を贈ったとされていることから、彼らは、目立たないところでひっそりと葬儀を見届けていたのかもしれません。彼らは、1967年10月17日にセントジョンズウッドで行われた追悼式に参加しました。
ブライアンの墓標には、史上最大級のバンドを率いていた彼のキャリアについては何も書かれていませんでした。なぜなのでしょう?彼にとって最も誇るべきキャリアのはずなのに。彼は事故死したのですから、本人の意思でないことは確かです。とすれば、遺族の意向としか考えられません。あえて書くことを避けたのか、書く気になれなかったのか詳しいことは分かりません。
(2)公式声明を発表
ブライアン・エプスタインの死の4日後、ビートルズは、彼の管理会社であるNEMSエンタープライズの将来についての声明をプレス発表しました。グループは、彼らが新たな発表をするまでは、NEMSによって管理され続けることを明らかにしましたが、ブライアンの兄弟であるクライヴ・エプスタインは、彼らの個人的なマネージャーではありませんでした。「誰もブライアンに取って代わることができなかった。」とポールは語ったと伝えられています。
公式声明には、さらに次の宣言が付け加えられました。「ビートルズは、部外者がNEMSを買収しようとするという動きがあった場合、金銭をいくらでも投入してそれを阻止するであろう。ビートルズがNEMSから株式を引き上げることはない。何もかも今まで通りだ。」これは、彼らがブライアンに対してできた、せめてもの恩返しのつもりだったのでしょう。
5 ポールが「マジカル・ミステリー・ツアー・プロジェクト」を提案
ビートルズは、ロンドンのセント・ジョンズ・ウッドにあるポールの自宅に集まり、ブライアン亡き後、彼らの将来についてどうすべきか話し合いました。
ポールは、ビートルズの広報担当であるトニー・バーロウに、他のメンバーが集まる1時間前に到着するように頼みました。彼は、ブライアンの死によってビートルズが勢いを失ってしまうことを防ごうと、マハリシ・マヘシュ・ヨーギーの下で修行するためにインドへ向かう予定を変更し、他のメンバーに「マジカル・ミステリー・ツアー・プロジェクト」を提案しようと考えていました。
ポールもジョンと同様に、ブライアンの死に対してショックを受けていましたが、彼は、このままではビートルズが解散してしまうかもしれないという危機感を抱き、それを防ごうと早速行動を開始しました。それが「マジカル・ミステリー・ツアー・プロジェクト」です。
ボールのこの行動には「ブライアンが亡くなったばかりなのに、すぐ新しいプロジェクトを始めるなんて」という批判があるのも事実です。ただ、彼は彼なりに危機感を抱いて、ビートルズのために良かれと思って行動したのです。しかし、彼の性急な行動が結果的に他のメンバーの反発を招き、分裂を深めることになってしまったのは何とも皮肉な話です。
(参照文献)ザ・ビートルズ・バイブル、チートシート、エクスプレス
(続く)
下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。
よろしければ、下の「このブログに投票」ボタンをクリックして下さい。