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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

アラン・クライン〜ハゲタカか救世主か?(309)

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1 「ビートルズを解散に追い込んだ男」という悪名

(1)新たなビジネスモデルを創造した

アラン・クライン…ポピュラー音楽界において「ビートルズを解散に追い込んだ男」として最も悪名高いマネージャーかもしれません。あの時代は、自分が担当している芸能人を食い物にするマネージャーなんてゴロゴロいましたが、中でも彼は群を抜いているでしょう。ビートルズの解散を語る上で、この人物を外すことはできません。

クラインは、アメリカ人ですが、60年代から70年代初頭にかけてビートルズローリング・ストーンズというイギリスの超大物アーティストのマネージャーを担当していました。傲慢でタフなネゴシエーターとして名を馳せていたクラインは、「ビジネス・マネージャー」という新たなビジネスモデルを創造したのです。

つまり、それまでのマネージャーのようにアーティストの仕事を取ってきたり、スケジュールを管理したりするだけでなく、音楽出版社やレコード会社などを相手にして、印税の配分やギャラの値上げ交渉などをアーティストに代わって行うというネゴシエーターとしての仕事ですね。

多くのアーティストは、音楽の才能には優れていてもビジネスは苦手ですから、会社と交渉してもほとんどの場合、スーツを着たビジネスマンに言いくるめられて、不利な条件で契約を結ばされていました。そんな時代に、アーティストの味方になる代理人として、レコード会社と交渉するという彼のビジネススタイルは、アーティストにとってはむしろありがたいものでした。ただし、彼がほとんど恐喝に近いようなやり方で交渉したので、業界での評判はあまり良くなかったのです。

 

(2)ブライアン亡き後にマネージャーに就任

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ビートルズとマネジメント契約したアラン・クライン

1967年にマネージャーのブライアン・エプスタインが不慮の死を遂げた後、彼は、ビートルズのマネージャーに就任し、不運に見舞われたアップル社というベンチャー企業の乱脈経営を整理し、会社を安定させるという功績をあげましたが、その反面、彼の行動が生み出した緊張感は、グループが解散する動きを加速させました。

クラインは、信じられないほどの数の訴訟を起こし、それを正当化して「負ける訴訟を起こすヤツなんかいない。勝つから訴訟を起こすんだ。」と主張しました。いかつい体つきでかなり無遠慮な彼は、「業界随一のろくでなし」という悪評をむしろ楽しんでおり、下品で粗野な言葉を使い、「アーティストは、グルーピーとファックする。オレに言わせりゃ、オレは、アーティストとファックするってことさ。」とうそぶいていました。

2 アーティストの味方だった

(1)マフィアに立ち向かった

クラインがこんな無頼な性格になったのは、幼少期の体験が根底にあるからかもしれません。彼の父親は、彼と二人の姉を孤児院に6年間も預け、彼と再会したのは彼が9歳になり、継母に紹介した時だけでした。

クラインは、高校に通う間、ニューアークの祖父母と一緒に暮らし、数年間米軍に入隊しました。その後、生まれ持った数字に強いという才能を生かし、義父からの借金で自分の会計事務所を設立しました。彼は、青年期に自分の才能を信じて、誰にも頼らず独力で生き抜いていこうと決心したのでしょう。

クラインは、音楽出版の契約書の細部に隠された複雑さを見抜く目を養い、社長がマフィアとつながりのあるルーレット・レーベルから印税を回収する仕事を手伝いました。誰もが恐れるマフィアとつながりのあるレコード会社の社長に立ち向かったことで、クラインの名は音楽業界で知られるようになりました。マフィアに逆らったら、ヘタをすると殺されちゃいますからね💦相当度胸のある男だったと思います。

 

(2)黒人アーティストの味方になった

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サム・クックとアラン・クライン

1963年、クラインは、黒人のソウルシンガーであるサム・クックRCAレコードとの契約について、クック側の代理人として再交渉しました。彼は、RCAに印税として11万ドルをクックに支払わせ、その25パーセントを報酬として受け取りました。

さらに、クラインは、クックの作品をRCAにライセンスするために別のレーベルとしてトレーシー社を設立し、クックが自分の作品を管理できるようにしたのです。クックの「A Change Is Gonna Come」という曲は、アメリカの公民権時代を象徴する作品となり、彼が若くして亡くなった後にヒットしました。

アメリカでR&Bが流行した当時、黒人のアーティストは、曲を作っても満足な対価を得られず、白人が経営する会社に何もかも取り上げられてしまうのが普通でした。そんな時代に、黒人アーティストが自らの著作権を管理できるようになったことは画期的なことでした。

 

(3)少し見方が変わった

このエピソードを知って、私のクラインに対する見方が少し変わりました。それまでは「ハゲタカのようにビートルズから金を巻き上げ、挙句の果てに解散に追い込んだ大悪党」という見方をしていたのですが、それは少し片面的な見方かもしれません。

彼は、白人であるにもかかわらず、搾取されていた黒人アーティストの側に立って、彼らの著作権や印税を取り戻すことに成功し、彼らに別会社を設立させて、自分の作品の著作権を自ら管理するという手段も伝授したのです。当時の事情を考えれば、白人からは裏切り者と呼ばれてもおかしくなかった勇気のある行動です。

これだって命がけの行動ですよ。当時のアメリカでは人種差別が酷くて、白人でも黒人を擁護するような活動をしていた人は容赦なく暗殺されていましたから。 相手がマフィアであろうと怖気づくことなく行動できた彼だからこそできたのでしょう。

(4)ブライアンとの違い

クラインは、こう語っています。「時々、私は、どうやって問題を解決できたのか分からなくなることがある。私は、確かに執拗だ。」おそらく、彼も交渉する前に様々なプランを練っていたのだと思いますが、必ずしもその通りに進行したわけではなく、必死でやっているうちに解決できたということも多かったのでしょう。

「私が決断を下す時は、私が知っていることも含めて、すべての事実を把握しようとしている。そして、目先のことでは動かない。一日や一枚のレコードのことで取引するつもりはない。取引は、信念に基づくものでなければならない。誰もが使う言葉だが、それはビジョンなんだ。」

長期的な視野に立って戦略を練るという点では、ブライアンよりクラインの方が優れていたかもしれません。ブライアンは薄利多売方式で、ビートルズを有名にするために、安くても数を多くこなすというスタンスでした。無名のビートルズをスターダムに押し上げるにはこの方式が功を奏したのですが、ビッグアーティストになると逆にそれが足を引っ張ることにもなりました。

ブライアンは、ビートルズがデビュー間もない頃にディック・ジェイムズに著作権を譲渡しましたが、目先のことでは動かないクラインなら絶対にやらなかったでしょう。かといって、最初からクラインがマネージャーだったらビートルズが成功したのかというと、それはないと思います。

ブライアンにとってビートルズは、ビジネスパートナーである以前に愛情の対象でした。彼の利益を度外視した献身的な貢献がなければ、ビートルズの成功はありませんでした。彼が紳士的な人物だったからこそ、レコード会社や音楽出版社が相手にしてくれたのです。

クラインがマネージャーになったのは、彼らがビッグアーティストになってからであり、無名の頃に彼がマネージャーだったら、業界からは全く相手にされなかったでしょう。やはり、ブライアンでなければ、ビートルズをメジャーにすることはできなかったと思います。

 

3 ブリティッシュ・インヴェイジョンの口火を切った

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デイヴ・クラーク・ファイヴ

1964年3月、クラインは、イギリスを訪れてブライアンに初めて会い、アメリカのRCAとの契約を200万ドルでオファーしましたが断られました。しかし、クラインは、手ぶらでは帰らずイギリス訪問を最大限に活用し、後に「ブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略、1960年代半ばにビートルズなどのイギリスのポピュラー・ミュージックを始めとするイギリス文化がアメリカを飲み込んだ現象)」と呼ばれた現象の火付け役となった、何組かのアーティストをアメリカのマーケットへと送り込みました。

まず、デイヴ・クラーク・ファイヴと契約を結び、その後プロデューサーのミッキー・モストと契約を結び、アニマルズ、ドノヴァン、ハーマンズ・ハーミッツ、ナッシュビルティーンズをアメリカのマーケットへ送り込みました。この功績も高く評価すべきだと思います。何しろその頃は、ポピュラー音楽といえばアメリカが中心で、イギリスのポピュラー音楽など鼻にもかけられていませんでしたから。

4 ローリングストーンズをサポート

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1965年8月、クラインは、ローリングストーンズのマネージャー、アンドリュー・オールダムの要請で彼の会社の取締役に就任し、3年間ストーンズのビジネスを管理していましたが、それは、ちょうど彼らの「(I Can't Get No) Satisfaction」がアメリカで4週間チャートのトップに立っていた頃でした。60年代初頭にロンドン・スクール・オヴ・エコノミクスで経営学を学んだミック・ジャガーは、ストーンズが実績に見合った収入を得るためには、クラインの力が必要だと感じていました。

余談ですが、ミックって、ワイルドなロックンローラーというイメージでしょ?でも、実は、結構なインテリなんですよね。 彼が卒業した大学は、2020年のQS世界大学ランキングでは44位にランクされています。ちなみに1位は、マサチューセッツ工科大学で、東京大学は22位でした。彼が入学した当時のランキングはわかりませんが、相当な難関大学といっていいでしょう。

(参照文献)インデペンデント

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