1 ジョンとジョージはLSDを使用するようになった
(1)もう一度体験したくなった
ジョンとジョージは、最初はLSDに対して複雑な反応を示していましたが、そのうちもう一度この薬を飲みたい、仲間が欲しいと思うようになりました。このように薬物は、一度経験すると容易に抜け出せない強い依存性があるところに大きな問題があります。彼らは、1965年夏の北米ツアーの5日間の休みを利用して、ビバリーヒルズにある女優のザザ・ガーボルの家を借りた時にその機会に恵まれました。
ジョージは、こう語っています。「ジョンと私は、ポールとリンゴにはLSDが必要だと考えていた。LSDが我々を大きく変えてしまったんだ。それは、説明できないほど巨大な体験だったし、体験しなければならないものだった。なぜなら、その体験を説明しようとしたら一生かかってしまうかもしれなかったからだ。それは、ジョンと私にとってとても重要なことだった。」ジョージは、LSDによって通常では体験できない凄まじいインスピレーションを得られたことをポールとリンゴとも共有しようと考えたのです。
(2)リンゴも体験した
ジョージはさらに続けます。「リンゴも仲間に加わった。後に彼は、『僕は、何でもやる。』と語っていた。『素晴らしい一日だったけど、夜はあまり良くなかったよ。いつまでも薬の効果が消えないような気がしたからね。12時間後には、『主よ、今は休ませてください。』とお願いしていた。」結局、リンゴも体験しました。夜も眠れなくなるほど異常な興奮状態が続いたんですね。
この辺りが非常に複雑なところで、違法な薬物なんですが、ビートルズのいくつかの作品が明らかにそれによって受けたインスピレーションで誕生したのもまた事実です。薬物の影響がなければ、おそらくこれらの曲は存在しなかったでしょう。
2 ポールは当初拒否した
(1)メンバーとは別に体験した
1965年12月13日は、ポールがLSDを初めて体験した日とされています。他のメンバーはこの時までに使用していましたが、ポールはずっと断り続けていました。ジョンとジョージは、1965年春に知らずに始めてLSDの入ったコーヒーを飲まされました。2回目は、8月24日にロサンゼルスで行われたパーティーでリンゴも参加しました。
ポールが初めてLSDを使用したのはメンバーとではなく、1966年12月に死去した若き社交界の名士であったタラ・ブラウンと共にでした。なお、彼の死は、「A Day In The Life」の歌詞にインスピレーションを与えたことで知られています。
100万ポンドのギネス財閥の後継者であるブラウンは、妻のノリーン(通称ニッキー)と一緒にロンドンのベルグラビア地区にあるちょっと隠れ家っぽいイートン・ロウに住んでいました。この旅行は、ビートルズの最後のイギリスツアー日程の翌日の夜、ビートルズのアルバム「Rubber Soul」とシングル「Day Tripper」/「We Can Work It Out」のリリースから10日後に行われました。
リンゴの使用から約4か月後の1965年12月12日、カーディフでの公演で最後のイギリスツアーを終えたビートルズは、車でロンドンに移動し、ナイトクラブ「スコッチ・オヴ・セント・ジェイムズ」で打ち上げを行いました。翌12月13日の夜、ジョンとポールは、再びこのクラブに戻り、ザ・フーのジョン・エントウィッスルやザ・プリティ・シングスの元ドラマー、ヴィヴ・プリンスと知り合いました。
そこにはニッキーも来ていて、彼女は、彼ら全員をイートン・ロウに招待しました。ジョンは、それを断ってウェイブリッジの自宅に戻りましたが、ポールとプリンスはその申し出を受け、数人の女の子や、テレビ番組「レディ・ステディ・ゴー!」のダンサー、パトリック・カーも招待されました。
(2)メンバーからの強い同調圧力
タラ・ブラウンが、みんなでLSDを飲もうと提案しました。ポールとプリンスは、それまで一度もLSDを使用したことがなかったので躊躇しました。
ポールはこう語っています。「私は、酒やマリファナなどの方がいいと思った。私は、使用したくなかったし、多くの人がそうしていたように私も我慢していたが、同調圧力が強かったんだ。バンドの中では、他の仲間のプレッシャー以上に恐怖のプレッシャーがある。それが他の仲間の3倍になるんだよ。」
「『おい、このバンドのメンバー全員がLSDをやっているのに、お前はなんでやらないんだ?何か理由があるのか、どうなんだ?」ってね。だから、仲間からのプレッシャーから解放されるためにもやらなければならないと思ったんだ。その夜、私は今がチャンスだと思い、『じゃあ、やってみるよ』と言った。それで、みんなでやったんだ。」*1
ポールは、LSDが自分の人格を破壊してしまうと恐れて、メンバーからの誘いを頑なに拒否してきました。しかし、メンバーからの同調圧力は、拒否すればメンバーとは認めないというほどの強いものだったので、ポールも従わざるを得なくなったのです。
3 ついにポールもLSDを体験した
(1)友人の自宅で
ニッキーは、客にお茶を出し、LSDの液体を染み込ませた砂糖の塊も出しました。ポールは、こう語っています。
「それは、心を広げるようなものだった。ペイズリーみたいな形や奇妙なものが見えたが、それほど奇妙なことに興味がなかった私にとっては、不穏な要素があった。普通の状態なら気付かないような自分のシャツの袖の汚れに気付いて、あまり良い気持ちがしなかったことを覚えている。しかし、私はそれに気付いたし、何かが聞こえた。何もかもが過敏になっていたんだ。」
「我々は、夜通し座っていた。ヴィヴ・プリンスはとても楽しかった。誰かが『何か飲むかい?』」と聞くと、誰もが『いいよ、いらないよ、これで十分だよ。』と応えるんだ。マリファナだったら吸ったかもしれない。でも、ヴィヴは飲み物のトレイを解体して、『そうだ、ドリンクだ!』と言っていた。『誰か飲みたい人いるかい?俺が一杯やろうかな。』彼は、ウイスキーを飲み、すべてを手に入れた。彼は、LSDでトリップしていたが、それは、なぜか他の誰よりも刺激的なものだった。朝、我々は、彼にマリファナを吸わせに送り出した。」
(2)約束をすっぽかした
「その後、事務所の真面目な秘書が、私が約束をすっぽかしたために電話をかけてきた。彼女は、あちらこちらに尋ねて私の居場所に辿りついたんだ。『ああ~、今はちょっと話せないんだ。重要な仕事なんだよ。』とか何とか言ってごまかした。私は、その場を離れた。『でも、あなたは、オフィスにいなきゃいけませんよね?』『いやあ、インフルエンザにかかっちゃたんだ。』なんて色々な言い訳を考えた。結局、会社にはとても行ける状態じゃなかったので、どうにかこうにかごまかしてその場を切り抜けた。*2
ポールは、後に、初めてLSDを試したのは1966年だと語っています。しかし、ヴィヴ・プリンスは、ビートルズの伝記作家であるスティーヴ・ターナーに対し、ビートルズの最後のイギリスツアーの翌日の夜であったと応えています。おそらく、ポールの記憶違いでしょう。ポールは、その後も何度かLSDを使用しましたが、ジョンやジョージのような強烈な刺激を受けることはなかったと語っています。
(3)ポールには合わなかった
「その後も何度か飲んだけど、いつもスゴいと思ったよ。時には、泣きたくなるような非常に深い感動を覚えたり、時には神を見たり、すべてのものの荘厳さや感情の深さを感じたりした。そして、時々、猛烈に疲れた。駅の待合室で一晩中座っているようなもので、朝になると体が硬くなっていて、もうパーティーどころじゃなかった。徹夜でダンスパーティーをしたようなものだけど、踊ってはいないんだ。ただ座っていただけさ。座りっぱなしだから、尻が痛くなるんだよ。私は、よく疲れ果てていたけど、『みんなやっているんだから』と思っていた。」*3
「LSDのイヤなところは、効果が長続きしないことだった。いつも疲れてしまうんだ。でも、周辺でそれを使用しているのは、ちょっと変わっているけど一緒にいると素晴らしい人たちだった。私の一番の問題は、スタミナがないことだった。私は、LSDで仕事をしようとは思わなかった。こんなんじゃやる意味はないだろ?」*4
ポールがLSDを止めたのは、体が疲れ切ってしまうからでした。彼にはLSDは体質的に合わなかったのか体力の消耗が激しく、ジョンやジョージのようにそれを使ってインスピレーションを得るということはしませんでした。しかし、このことが後にビートルズにとって重要な問題となったのです。
(参照文献)ローリングストーン、ファーアウト、ザ・ビートルズ・バイブル
(続く)
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*1:ポール・マッカートニー「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」バリー・マイルズ
*2:ポール・マッカートニー「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」バリー・マイルズ
*3:ポール・マッカートニー「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」バリー・マイルズ
*4:ポール・マッカートニー「グルーヴィー・ボブ」ハリエット・ヴァイナー