
1 脱退か解散しか選択肢がなかった

ジョンは、まだビートルズに在籍していた1969年6月にプラスティック・オノ・バンドを結成しました。現代ではバンドのメンバーがソロとして活動するのは珍しいことではありませんが、当時としては珍しかったのではないでしょうか?ソロ活動を始めるならメンバーから脱退するか、バンドを解散するほかなかったと思います。
というのも、その当時はアーティストよりも音楽出版社やレコード会社の力が圧倒的に強く、アーティストの地位は非常に弱いものでした。ですから、バンドのメンバーがバンドから離れてソロ活動をすることは、バンドにとってマイナスイメージとなってしまうので、関係者から待ったがかかるのです。
現代ではバンドのあり方そのものが緩くなっており、「活動休止」も一般的に認められています。しかし、1960年代当時は、「活動休止=解散」という位、バンドの存在感は重いものでした。
ビートルズが現代に存在していたら、メンバー間の確執が強まった時点でしばらく活動を休止するか、メンバーのソロ活動をもっと認める選択肢もあったと思います。「ビートルズは、バンドとして活動を続ける一方、メンバーのソロ活動も認める。」としていれば、あと数年は存続できたのではないかと思います。実際、脱退を表明していたのはジョンだけで、他のメンバーにそのつもりはありませんでしたから。
2 プラスティック・オノ・バンドはヨーコのアイデア
(1)プラスティックのバンド

ヨーコは、こう語っています。「ベルリンでやりたいショーのアイデアをジョンに話したの。ジョンのアイデアと被ってしまったのであきらめたけど、ジョンは、私のアイデアを気に入り、『こんな感じかな。』と言って空のテープケースでプラスティックのバンドを作り、『このバンドをプラスティック・オノ・バンドと呼ぼう』と言ってくれた。ジョンがその辺に転がっていた色々なプラスティック製のもので作ったものは、ずいぶん前に無くしちゃったわ。」もちろん、写真も残されていません。ちょっと残念ですね。
このできごとがいつ頃かはっきりしないのですが、ジョンが1968年に彫刻を制作するより前ということなので、早くても1968年ですね。しかし、そうするとジョンは、その頃にはもうソロ活動を視野に入れていたということになります。ソロ活動をやろうかと考えていたところに、ヨーコからショーのアイデアを提供され、これだと閃いたんでしょうね。
(2)音楽でメッセージを全世界に届ける

このようにプラスティック・オノ・バンドのモデルは、まずヨーコによって作られ、ジョンによって小さなプラスティックのオブジェで表現されました。プラスティック・オノ・バンドの結成宣言に掲げられているように、「メッセージは音楽であり、それを伝えることはパフォーマンスである。」というのが、彼女の音楽グループに対する考え方でした。このバンドは、「世界中のあらゆる心が含まれている。」「世界で最も想像力に富み、最も音楽的なグループである。」と宣言しています。
音楽に社会へのメッセージ性を込めたソロアーティストとしては、ボブ・ディランが挙げられます。バンドとしては、ビートルズがアイドルではあるものの、そもそも大人に反抗する若者の象徴として登場しました。彼らは、やがて政治や社会に対する批判をメッセージとした楽曲も制作するようになりました。
3 結成当初から反戦平和を訴えた
(1)全世界へメッセージを届けるのが目的
![]()
プラスティック・オノ・バンドは、結成当初から愛や反戦平和といったメッセージをより前面に押し出したバンドでした。基本的にミュージシャンは、音楽が好きで自分たちの演奏を聴いてもらいたくてバンドを結成するというのが一般的でした。
ジョンとヨーコは、バンドの結成にあたり、「音楽を通じて全世界に愛と平和というメッセージを届ける。」という明確な目的をもっていたところが際立った特徴です。メッセージ性の強い楽曲を制作しているバンドとしては、1980年にデヴューしたU2が挙げられますが、プラスティック・オノ・バンドは、そういったバンドの先駆者だったのかもしれません。
その後、ジョンは、1968年に彫刻を制作しています。マイクやオープンリールのテープレコーダー、テレビなど4つのオブジェが透明な風防ガラスで包まれています。4つという数からすると、これらのオブジェは、ビートルズを象徴していたのかもしれません。
そうだとすれば、まだこの時期は、彼の気持ちがビートルズから全く離れてしまっていたというわけでもなさそうです。まあ、ただの偶然だったのかもしれませんが。テレビは、ヨーコの同僚であり、数々のテレビ彫刻で有名な前衛彫刻家ナム・ジュン・パイクへのオマージュです。
(2)ヨーコの楽曲をレコードにした
最初のメンバー構成は、ギターがジョン、ベースがフォアマン、ドラムはリンゴというシンプルな3人のラインナップでした。リンゴは、当初からジョンのソロ活動を支援していたといえます。やがてジョージも加わりました。
1968年、フリージャズ界の先駆者とされるオーネット・コールマンが、ヨーコをロイヤル・アルバート・ホールに招いて演奏しました。コールマン(トランペット)と彼のバンド(ドラマー1人、ベーシスト2人)とで構成されたバンドが、このショーのためのライヴ・リハーサルである楽曲を演奏しました。ヨーコは、それを自分の作品に取り込み「AOS」というタイトルをつけました。これは、日本語の「青」を意味する「AO」と英語の混沌を意味する「CHAOS」から作った造語です。
(3)初のレコードをリリース

1969年5月、ジョンとヨーコは、「Rockpeace」という曲をレコーディングし、プラスティック・オノ・バンドのシングルとしてリリースする予定でしたが、リリースされずに終わりました。次に、「Laugh/Whisper」という曲をリリースしようとしましたが、これも実現しませんでした。
結局、プラスティック・オノ・バンドが最初にリリースしたレコードは、6月にモントリオールで行われた「ベッドイン・フォー・ピース」というパフォーマンスの時にレコーディングされた「Give Peace a Chance/Remember Love」ということになりました(イギリスでは1969年7月4日、アメリカでは7月7日発売)。
シングル「Give Peace a Chance」のジャケット(および広告)には、実物大のプラスティック・オノ・バンドが登場しています。風防ガラスの筐体とスタンド、そしてオーディオ・ビジュアル機器が並んでいます。広告では、透明なバンドのメンバーを電話帳のページの上に置き、「ジョーンズ」という名字のリストを表示しています。
4 コンサート活動を開始
(1)メンバーは固定していなかった
プラスティック・オノ・バンドを結成したとは言っても、メンバーは固定しておらず、イヴェントの都度入れ替わっていました。ジョンとしては、まだビートルズのメンバーであったこともあり、本格的にソロバンドを立ち上げるというよりは、ソロ活動への準備と考えていたのでしょう。
ジョンがビートルズとしてはリリースできなかったシングル「Cold Turkey」では、リンゴがクラプトン、フォアマンとともにメンバーに加わり、ヨーコの曲「Don't Worry Kyoko(Mummy's Only Looking for a Hand in the Snow)」のB面にも同じメンバーが参加しています。
(2)観客もメンバーにした
ライヴの時のプラスティック・オノ・バンドには、「Give Peace a Chance」をレコーディングしたモントリオールのホテルの部屋にいた全員が含まれていました。ジョンとヨーコは、観客もバンドのメンバーとみなし、「YOU are the Plastic Ono Band」というスローガンを使っていました。これは、非常にユニークな発想ですが、ジョンとヨーコがヴェトナム戦争が泥沼化していた当時、市民を巻き込んで反戦平和活動を行う必要性にいち早く気づいていたともいえます。
アーティストが観客の一体になって楽しい時間と空間を共有するということは、現代のライヴにも通じるところがありますね。アーティストの側から積極的に観客に呼びかけたり、煽ったりして、観客を巻き込んで会場全体が一つになるわけです。
(3)プラスティック・オノ・スーパーグループ

1969年12月15日、プラスティック・オノ・バンドは、ロンドンのリセウム・ボールルームでユニセフのための慈善コンサートを行いました。クラプトン、フォアマン、ホワイトというトロントのメンバーに、キーボードのビリー・プレストンを加えて、ジョンは、すぐにバンドを集合させました。
クラプトンは、ディレイニーとボニー・ブラムレットを連れてきました。さらに、ギターのジョージ、サックスのボビー・キーズ、ドラマーのジム・ゴードン、トランペットのジム・プライスが加わりました。
その夜、ザ・フーのキース・ムーンも参加しました。このメンバーは、後に「プラスティック・オノ・スーパーグループ」と呼ばれるようになりました。確かに、その名の通りスーパーグループですわ(^_^;)これだけ揃えば怖いものなしですね。
(参照文献)マデリン・ボカロ
(続く)
この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。
下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。