1 ビートルたちと古くからの友人だった
かなりのファンでも2024年6月にこの世を去ったトニー・ブラムウェルの名前を知っている人は少ないでしょう。彼は、ビートルズを下積み時代から解散に至るまで支え続けた人物です。
1960年12月27日、リヴァプール出身のトニー・ブラムウェルは、当時まだあまり知られていなかったビートルズというグループのコンサートに行くため、81番バスに乗りました。なんと、最上階の最前列の席に座っていたのは、彼の旧友であるジョージ・ハリスンでした。
トットネスに住んでいるトニーは、地元の肉屋の配達員をしていたときに会って以来、しばらく会っていませんでした。ジョージもコンサートに行く予定だったので、トニーは彼のギターを運ぶことを申し出ました。それは、とても簡単なことでした。
ジョージ、そしてポール・マッカートニーやジョン・レノンと一緒に育ったトニーは、チームに受け入れられ、音楽史上最も結束の強いグループの一つで重要な役割を担うことになりました。彼は、あの寒い12月の日に始まった時から、そして彼らが解散するまでずっとそこにいました。
ジョンが殺されたときもまだ友人でした。そして、彼は、これから何が起こるのかまったくわかりませんでした。「それまでビートルズのようなものはなかった」と彼は語っています。彼らがいかにユニークで時代の最先端を行っていたかが窺えます。
2 ビートルズを下積み時代から良く知っていた
(1)レパートリーが豊富だった
当時を振り返ってトニーは、こう語っています。「ジュリー・アンド・ザ・ペースメーカーズは、リヴァプールで最高のグループだった。それは、彼らが他のグループとは違った路線をとっていたからだ」
「ジョージは、私の友人でタダでギターを運搬すると喜んでくれた」
「ビートルズがステージに上がると、彼らは、あらゆる種類の曲を演奏した。ほとんどはリズム・アンド・ブルース、リトル・リチャードの曲も少し、B面もいくつか演奏した。ドイツの曲もいくつか歌ったし、ライヴのためにちょっと編曲した曲も演奏した(ここでトニーは「falling in love again(ドイツ出身の往年の大女優マレーネ・ディートリッヒの大ヒット曲)を歌った)」
(2)観客は瞬く間に増えて行った
「エキサイティングで素晴らしかった。彼らは飛び跳ねたり、おかしなポーズをとったりしていた。彼らは、ステージでタバコを吸ったり、物を食べたりもしていた。それは他のミュージシャンとは違っていた」
「でも、最初のライヴは満員ではなかった。彼らが初めて演奏したとき、観客はたった60人しかいなかった。翌週には話題が広まり、観客は約200人になった」
「彼らは、すぐにリヴァプール周辺のもっと大きなボールルームで演奏するようになった。どこも満員だったよ」
ブライアンがマネージャーに就任する前のビートルズは、ステージ上でタバコを吸ったり物を食べたりして、完全にマナーを無視していました。その頃から彼らは、演奏中もずっとステージで飛んだり跳ねたりしていたのです。そんなことは、それまで誰もしたことがありませんでした。
彼らが最初にコンサートを開いた時は、たった60人の観客しか集まらなかったのです。しかし、彼らの評判は口コミで広まり、翌週には200人が集まり、やがて会場が満員になるぐらいにまでなりました。ハンブルク巡業で鍛えられて腕を上げていたんですね。
3 安定した仕事から臨時雇いに
そのライヴからトニーが1962年の夏に学校を卒業するまでの期間は、グループにとって良いことも悪いこともありました。ブライアン・エプスタインとの重要な契約、レコード会社との契約での多くの失望と挫折、そしてようやく契約が成立するまでの期間…。
トニーは、「生まれたときから有名になる運命にあると確信していた」ジョンを除けば、彼らの本当の可能性と将来を見抜いていたのはブライアンだけだったと語りました。
彼は、グループを支援するために非常に小さな「忠実なチーム」を結成しましたが、驚くべきことに、そのチームのためにトニーはフォード(アメリカに本社のある大手自動車メーカー)での仕事を辞め、世界がかつて見たことのないような新しい音楽の時代へと導かれることとなりました。
トニーは、こう語っています。「フォードは、私に週5ギニーを支払ってくれたが、それは若者にとっては大金だった。ブライアンは、私に臨時雇用で彼のために働いて手伝ってくれないかと誘ってきた。彼は、私に週10ギニー支払うと言った。」
「私は母親に相談した。ブライアンは、もしうまくいかなかったら、レコード店の一つを管理する仕事を与えるとも言った。私はレコード店の店長になりたかったんだ」
当時の正確な貨幣価値はわかりませんが、トニーは、結構な高給取りだったようです。確かに、ブライアンは給料を倍にしてくれましたが、臨時雇いでは将来が不安ですよね。ただ、彼にとっては、レコード店の店長になれるということが魅力だったのです。
4 イギリス中をツアーで同行した
(1)移動の車中で作曲した
「私は、1、2年以上グループに関わることはないだろうと思っていた。ビートルズのバブルははじけると思っていた。しかし、バブルははじけず、超音速になる前にかなり穏やかに煮えたぎっていた」
ビートルズの人気は高まりましたが、トニーは、長くは続かないだろうと考えていました。ポピュラー・ミュージシャンは、一時期人気が急上昇してもやがては下火になるのが普通でした。しかし、ビートルズは世界的なスーパースターになり、しかもそれがずっと続いたのです。
「私たちは、バンを持っていた。私とニール(アスピナル)がいた。ニールが運転し、私は、助手席でナヴィゲートしていた。ニールは、1964年のクリスマスショーでリンゴ・スターのセッティングを手伝った」
「ビートルズは、後部座席にいてすべての機材の後ろにいた。私たちが運転している間、彼らは曲を書いていた。そういうやり方で1年くらいツアーをした。すごく楽しかった。でも、よく(車が)故障したけどね」
「彼らは国中を回り、一晩に四つのギグをこなし、さまざまな舞踏会場を回った。そして、トーキー(イギリス南西部のデボン州にある保養地)でのギグは、彼らの名声を高めるのに一役買った」
ニールが運転手で、トニーは助手席でナヴィゲーションをしていたのです。カーナビなどない時代に、地図一つでイギリス中を回るのでしたから大変だったでしょう。ジョンとポールは、車に揺られながらギッシリ積まれた機材の後の狭いスペースで作曲していました。
(2)イギリス中をツアーした
「1963年の夏は最高だった。ブライアンがリゾート地でやってくれないかと頼んできたんだ。サウスポートで1週間、ブラックプールで1週間、ウェストン・スーパー・メアでも同じだった。最上級のホテルに泊まって最高だった。まるで長期休暇のようだった」
「ある日、ランドゥドノでの演奏を終えて、朝にバーミンガムまで車で行き、テレビ番組『Thank Your Lucky Stars』の二つのショーを収録し、その後トーキーに来てプリンセスシアターで二つのコンサートの演奏をした。その後、インペリアルホテルに泊まったが、ジョンは、そこで完全に酔い潰れていた。最上階のアドミラルズ・クラブだった」
ビートルズが売れてイギリス中のコンサート会場から引っ張りだこになり、高級ホテルにも宿泊できるようになったんですね。
「その後、グレート・ヤーマスに行き、途中でロンドンに立ち寄ってラジオ番組をやらなければならなかった。その後、アバディーンに向かった。機材をバンに積んで5人だけだった」
「北部の若者らしく、彼らは、素晴らしい労働倫理を持っていた。年間50週間働いて、2週間の休暇があった。彼らは、エキゾチックな休暇を取れるほど売れてはいなかった。ただの笑い話だった」
ビートルズは、毎日車で移動してコンサートを開いても一切苦にせず、ライヴをこなしていました。ただ、いくつかのリゾート地でライヴができたおかげで、ヴァカンスを楽しんだ気分でした。何しろそんなにたくさんの曲を演奏する必要はなく、後は観光を楽しめばいいのですから。まだビートルマニアが誕生する前でしたしね。
5 次第に仕事が変わっていった
彼らの知名度が高まったにもかかわらず、トニーは、1960年12月に初めてバンドを見たときと自分の主な役割は変わっていないと冗談を言いました。「結局、機材を全部運んだだけだった。ギターが3本、アンプが3台、ドラムが1セットしかなかった」
「バンに2回行って、それで終わりだった。サウンドシステムや照明はなかった。会場にマイクがあれば、それを使っていた。最初の日からビートルズが解散するまで、私たちは独自の技術機材を一切持っていなかった」
この頃のバンドは、必要最小限の機材を持ってツアーを回り、コンサート会場にも現代のPAシステムのようなものは一切ありませんでした。会場の収容人数が少なかったため、それでも十分だったのです。
この辺りの話はその通りなのですが、機材を運搬するだけだったと彼が言ったのはあくまで冗談であり、実際には彼の仕事はローディーに留まらず、隠れた才能を生かした仕事をするようになったのです。
(参照文献)フィフスビートル・プロボーズ
(続く)
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