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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズはアメリカのポピュラー音楽をどうやって知ったのか?(513)

60 anos do adeus dos Beatles a sua "sede" The Cavern Club

1 船員がアメリカからレコードを持ち帰った

(1)「キュナード・ヤンクス」が持ち帰った

キュナード・ヤンクスと呼ばれた船員たち

1950年代、少年だったビートルたちは、どのようにしてアメリカのポピュラー音楽に触れたのでしょうか?当時のイギリスでは、アメリカのレコードは輸入盤か、ライセンスを取得して国内でリリースされたレコードを購入する方法がありました。しかし、いずれもイギリス国内のレコードと違って流通ルートが限られていました。

そんなとき、「キュナード・ヤンクス」がアメリカや他国のレコードをリヴァプールに持ち帰ったというキュナード・ヤンクスの物語は、リヴァプールやその周辺で神話的な規模にまで成長しました。キュナード・ヤンクスとは、1940年代後半から60年代にかけてリヴァプールからニューヨークやモントリオールに至る大西洋横断航路で働いていた若い労働者階級のイギリス人船員のことです*1

(2)話が誇張されてきた

伝えられるところでは、リヴァプールのミュージシャンの家族の船員が、グループが学ぶためにアメリカのレコードを持ち帰ったとされています。この話は部分的には真実で、リヴァプールの家族の多くは、兄弟、父親、叔父が海上で、イギリスで発売される前にアメリカのレコードを持ち帰ったことがありました。実際、ジョンがロックンロールに目覚めたきっかけとなったレコードは、オランダから輸入された「Long Tall Sally」でした。リヴァプールの音楽愛好者の間では、イギリス盤のレコードがリリースされる前のアメリカのレコードを持っていることは相当な自慢だったのです。

他の誰も持っていない曲を手に入れるためにグループ間で常に争いがあったので、家族の誰かがアメリカからレコードを持ち帰れば、音楽のライヴァルたちに先んじることができました。みんなアメリカのレコードが喉から手が出るほど欲しかったのは確かです。 しかし、この話はあまりにも広まり、リヴァプールのグループが演奏したアメリカの曲の大半は、このようにして入手されたと多くの人が信じるようになりました。  

 

2 アメリカのポピュラー音楽をどうやって知ったのか?

(1)リヴァプールのバンドメンバーへのインタヴュー

デリー・アンド・ザ・シニアーズ(右端がハウイー・ケイシー)

作家のディヴィッド・ベッドフォードは、デリー・アンド・ザ・シニアーズのメンバーであったハウィー・ケイシーにインタヴューし、彼らがアメリカのレコードをどうやって入手したのかを尋ねました。デリー・アンド・ザ・シニアーズは、1960年代初頭のイギリスのロックンロールグループです。ドイツのクラブシーンで演奏したリヴァプール出身の最初のバンドであり、ビートルズなどの先駆者となりました。

彼らは、ハウィー・ケイシー・アンド・ザ・シニアーズとしてLPをレコーディングした最初のリヴァプールのグループでもあり、後にフレディ・スターとして知られる歌手のフレディ・フォーウェルをフィーチャーしていました*2。なお、その後ケイシーはセッション・ミュージシャンとなり、ポール・マッカートニーが率いるウィングスの「Jet」などの制作にサックス奏者として参加しました。

(2)最新流行のアメリカ音楽に触れていた

「デリーは、主にアメリカの素晴らしいレコードやあまり知られていないレコードの素晴らしい情報源になった。リヴァプールにはアフリカ系やカリブ系の黒人コミュニティが数多くあって、デリーを通じてジョー・バイグレイヴス・クラブやザ・ビーコンなど、アッパー・パーラメント・ストリートにあるクラブで素晴らしい音楽に触れられた」

「また、リヴァプール郊外のバートンウッド空軍基地に駐留していた多くのアメリカ兵にも会った。彼らは街にやって来てこれらのクラブに通い、そこにはいつもピアノが置いてあった。そこで彼らの何人かが歌を歌い、私たちは『いいな』と思った。このように、私たちは他のグループとは一線を画す多大な影響を受けていた」

このように既にリヴァプールにはアフリカ系やカリブ系の黒人コミュニティが数多く存在していましたし、バートンウッド空軍基地に駐留していた多くのアメリカ兵がアメリカの音楽をクラブに持ち込んでいました。リヴァプールの人々は彼らを通じてアフリカ系やカリブ系、アメリカなどの音楽に触れる機会に恵まれていたのです。このように音楽的に恵まれた環境のおかげでリヴァプール市民は、アメリカの最新のヒット曲を聴くことができたのです。こういった事実はビートルズの誕生に直結はしないものの、彼らを育てるリヴァプールの音楽的土壌を培った可能性はあります。

(3)自分たちでレコードを手に入れていた

私(ベッドフォード)は、友人のジミー・ドランと話した。彼は、アメリカ人アーティストのレコードをどうやって入手したかを教えてくれた。「キュナード・ヤンクスが音楽をもたらしたと多くの人が言っているが、私の姉とその仲間は、彼らが登場したときにチャック・ベリーバディ・ホリー、ラリー・ウィリアムズ、リトル・リチャードを聴いていたと思う。私が住んでいたところの音楽はみんなそんな感じで、船員の知り合いは誰もいなかった。姉は地元のレコード店でレコードを買っていた」

こうしてみると「船員たちがアメリカのレコードをリヴァプールに持ち込んだ」というのは必ずしも間違いではないものの、いささか誇張されていたようです。実際には、それ以外にもたくさんの機会があって、リヴァプールの人たちはすでにアメリカなどのポピュラー音楽に親しんでいました。

 

 

3 曲をどうやって覚えたのか

(1)レコード店耳コピして覚えた

50年代のレコード店の試聴ブース

当時はまだ誰もがレコードを買えるほど経済的余裕があったわけではないので、ビートルズの前身であるアマチュアバンドであるザ・クオリーメンのロッド・デイビスは、自分たちがどうやって歌詞などを覚えたかを説明しました。「曲を覚える唯一の方法は、レコードを聴くことだった」とロッドは回想しています。

「レコードは、ペニー・レーン近くのNEMSレコード店かラジオ・ルクセンブルクでよく聴いていたんだ。そして、聴こえたと思う言葉を書き留めた」その頃にはもうレコード店でレコードを試聴できるサービスがあり、来店した客は試聴した上でレコードを購入できたのです。そこでお金のない若者たちは、一生懸命聴いて覚えていたんですね。なんとも涙ぐましい努力です。

(2)ラジオ・ルクセンブルクの果たした重要な役割

デイビスの言う「ラジオ・ルクセンブルク」の名前を聞いたことがある人はいても、それが第二次世界大戦後のイギリスの若者にどれほど大きな影響を与えたかまではなかなか知る機会がないと思います。この西ヨーロッパのルクセンブルクにある商業ラジオ局は、1933年初頭に放送を開始し、特にイギリス海峡を越えてイギリスのリスナーをターゲットにしていました。

これは、当時イギリスのラジオが厳格なBBCによって管理されていたためです。多くの人にとって、ラジオでポピュラー音楽を聴けるのは、ヨーロッパの小さなルクセンブルクからのものだけでした。お堅いBBCはなかなか最新のポピュラー音楽を放送してくれなかったので、イギリスの若者たちは不満を抱いていたのです。

 

 

4 ラジオ・ルクセンブルクの歴史

(1)放送開始

1965年のラジオ・ルクセンブルクの放送ブース

1929年、ルクセンブルク政府に商業免許を与えるよう陳情するため、ルクセンブルク無線研究協会が結成されました。この協会は正式に政府に承認され、その年の終わりにはルクセンブルク放送会社が設立され、ラジオ・ルクセンブルクという名前で知られました。

それから間もなく、イギリス海峡をまたいで放送が始まりました。多くのイギリス国民がラジオでポピュラー音楽を聴く唯一の手段は、ヨーロッパの小さなルクセンブルクからのものでした。当時のイギリス国民にとって、海外のラジオ放送を聞けるのは嬉しいことでした。

ラジオ放送がイギリスの海岸に届くように番組は長波で放送されましたが、イギリス政府はこれに不快感を示し、全力で阻止しようとしました。なぜ、イギリス政府が阻止しようとしたのかはわかりません。国内の放送は、自国の放送局だけで独占したかったのでしょうか?あるいは、政府にとって不都合な事実を国民が聞くことを恐れたのでしょうか?まるで、東西冷戦時代に西欧諸国のラジオ放送に妨害電波を発信して国民に聞かせなかったソ連みたいですね。

(2)イギリス国民がこぞって聴いていた

しかし、1934年に欧州波長計画が発効し、ラジオ放送用にヨーロッパ諸国に周波数の割り当てが行われました。こうして、ラジオ・ルクセンブルクも堂々とラジオ放送ができることになったのです。1930年代を通じて、ラジオ・ルクセンブルクはイギリスで膨大な視聴者数を誇り、番組は主に人気のダンスミュージックとスポンサー付きの番組で構成されていました。

第二次世界大戦中、ルクセンブルク政府はこの放送局を閉鎖しました。ルクセンブルクを占領したドイツ軍はプロパガンダの手段としてこの放送局を接収し、イギリス国民から「ロード ・ホーホー」と滑稽な名前で呼ばれた悪名高いイギリス人のナチ協力者であるアナウンサー、ウィリアム・ジョイスをDJにした番組をイギリスに放送しました。ラジオ放送は、ナチスプロパガンダとして重要な手段だったのです。連合軍によりドイツ軍から解放後、アメリカ軍がこの放送局を接収し、同様の目的で使用しました。

(参照文献)カルチャーソナー

(続く)

 

 

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