
1 ビートルズにも影響を与えた
(1)フォークの女王
音楽史に名を残すジョン・レノンとジョーン・バエズは、数十年にわたる複雑で興味深い関係を築いてきました。仕事でもプライベートでも、二人は何度も出会い、お互いと音楽界に永続的な影響を与えました。
「フォークの女王」として知られるバエズは、ジョンとビートルズに初めて出会ったとき、すでに名声を博したアーティストでした。1960年代初頭、バエズのフォークミュージック界への影響は大きく、彼女の作品はジョンとバンド仲間の注目を集めました。下積みの頃から幅広いジャンルの曲をカヴァーしてきた彼らですから、フォークソングにももちろん興味はありました。
(2)ビートルズの作品にも影響を与えた
「The Beatles Encyclopedia: Everything Fab Four」によると、ジョンとポールは「She Loves You」のB面として「I'll Get You」を書きましたが、これはバエズのフォークソングである「All My Trials」にインスピレーションを受けたものです。ポールは「It's not like me to pretend」のDからAmへのコード進行を珍しいものだとし、バエスの作品からインスピレーションを受けたと語っています。*1ジョンとポールがバエズのメランコリックな曲の要素と、彼ら自身の初期ビートルズのポップセンスを融合させたのは興味深いものがあります。
これは、バエズの芸術性がビートルズの初期の作品にどのような影響を与え、フォークの要素と彼らの特徴的なポップサウンドを融合させたかを示しています。ビートルズへ影響を与えたフォークソングのアーティストとしては、ボブ・ディランが真っ先に思い浮かびますが、実はバエズの方が先に彼らに強い影響を与えていたのです。
2 ジョンとバエズの出会い
(1)ツアーで一緒になった

ジョンとバエズの関係において重要な瞬間が1964年に起きました。アメリカコロラド州デンバーのレッドロックス野外劇場で、二人が連夜同じ会場で演奏することになったのです。ビートルズは彼女に会いたいと思い、楽屋に招きました。バエズがツアーを終えた後、ジョンは彼女にビートルズとそのスタッフと一緒にツアーに同行するよう誘いました。この誘いによって、バエズはビートルズのツアーの内部事情について詳しく知ることになりました。
彼女は後に「私は、ビートルズのツアーの内部事情をすべて見てきた。彼らがフォルクスワーゲンのバスに乗り込み、リムジンの外に出て愛情深いファンに殴られる様子などだ」と回想しています。いやはや、時代が違うとはいえ、ファンが暴徒化していた上に警備が手薄で、ビートルズがファンから酷い目に遭っていた様子が窺えます。
(2)押し寄せた大勢のグルーピー
その後、ジョンは、ビートルズが滞在していたロサンゼルスの邸宅にバエズを招待しました。バエズは、ビートルズのグルーピーたちに囲まれたことを覚えています。ツアーの後の行動はビートルズのような生活様式ではなく、絵にかいたような放蕩ぶりでした。彼らは全員、限られた寝床で豪邸にこもっていました。
バエズは、こう語っています。「彼らは仲間を派遣してグルーピーを連れてきて、一緒に過ごす相手を選ぶようにしていた。そして、このかわいそうな女の子たちは、誰かが選んでくれるかどうか下に座って待っているだけで、話もせず、編み物もしなかった」女の子たちが大勢階下で待機していて、メンバーから選ばれるのをずっと待っていた様子が窺えます。
3 あと一歩で男女の関係になっていた
(1)ジョンの誘いをバエズは断った

その家には部屋数が限られており、ビートルズには大勢の側近がいたため、ジョンは、バエズとベッドを共にしなければなりませんでした。バエズは、彼に「演技をするようにプレッシャーを感じるべきではない」とはっきり伝えようとしました。つまり、彼がお義理で彼女を誘わなければと思わせないようにしたのです。
もしかしたら、二人は男女の関係になっていたかもしれません。バエズは、「私が眠ろうとすると真夜中にジョンが部屋に入ってきた」とローリング・ストーン誌に語っています。そして、「彼は、お義理で私を誘わないといけないと感じていたようだ。彼は、『彼女を誘ってみたけど、彼女はスターだし、どうしようかなあ~』って感じだったんだと思う。私は、『ジョン、私もあなたと同じくらい疲れているんだから、私の代わりに演奏しなければならないなんて思わないでほしい』と言ったわ」
要するに バエズが疲れて次の日に歌えなくなってしまったら、ジョンが彼女の代わりに歌わなければならなくなる。それを避けるために、そういうことはしない方がいいと遠回しに断ったというわけですね。
(2)ジョンはホッとした
ジョンは、バエズの言葉にホッとしました。バエズは、音楽誌「アンカット」の取材に、彼女がジョンの誘いを断ったとき、彼は、まさに「ホッとした」様子だったと語っています。ジョンとバエズの波長が合ったのは、確かに好都合でした。ジョンは、皮肉たっぷりにこう答えました。「いやあ、ホッとしたよ!だってほら、僕はもう階下で他の女の子とできてるって君が言うかもしれないからね」それで、私たちは大笑いして眠りについた。
ジョンの真意はわかりませんが、半分冗談で半分本気だったんでしょうね。バエズが受け入れていれば、そういう関係になっていたということです。つまり、イギリスのロッカーとアメリカのフォーク歌手という異質の二人が出会い、あと一歩で結ばれていたかもしれなかったのです。
「Norwegian Wood」に登場する女性のモデルは、ビートルズと親しかったジャーナリストのモーリーン・クリーヴあるいはサニー・ドレインではないかと噂されていますが、このエピソードもジョンの頭の中にあったのかもしれません。というよりこのエピソードの方がよりあの歌詞が描いている状況に近い気がします。ひょっとすると、あの作品のモデルはバエズだったのかもしれません。いずれにしろ、このやり取りは、有名人の関係の複雑な力関係と、音楽業界内においても期待される行動へのある種のプレッシャーが存在することを浮き彫りにしました。
4 相互に尊重し擁護し合った
(1)考えが共通していた
普通、こんな事件があるとお互いに気まずくなってしまって疎遠になりがちですが、この二人はそんな関係にはなりませんでした。恋愛関係ではなかったにもかかわらず、ジョンとバエズは、互いの仕事に対して尊重する姿勢を維持し、さまざまな社会的、政治的問題に関して同様の見解を共有していました。
どちらも政治活動家として知られ、音楽を社会変革のプラットフォームとして利用していました。特にバエズは公民権と平和の強力な支持者でした。公民権運動は、1960年代にアメリカを中心に起こった、白人による黒人の人種差別を止めて人権を尊重しようという運動です。
(2)ジョンの国外追放の脅威に対する支援
ビートルズが解散してジョンはソロ活動を始めましたが、ニクソン大統領が反戦運動を続けるジョンに対してアメリカから退去するよう命令を下しました。バエズは、この命令に反発しジョンを擁護しました。彼女は移民帰化局に手紙を送り、人々を世界の特定の地域に閉じ込めることに反対し、思想によって人を国外退去させることは「6000年の平和ではなく6000年の戦争の原因の一つである」と述べました。その後、ニクソンはウォーターゲート事件で失脚し、この命令は取り下げられました。
5 音楽のコラボレーションとトリビュート
(1)相互に影響を与えた
ジョンとバエズは、直接的な音楽コラボレーションはあまりしませんでしたが、お互いの作品に敬意を表することが多くまりました。ジョンの死後、バエズは、コンサートで彼の曲を頻繁に演奏しました。その中には象徴的な平和の歌「Imagine」も含まれていました。これらのパフォーマンスは、ジョンの遺産と彼らが共有していた価値観へのオマージュとなったのです。
ジョンとバエズは恋愛関係ではなかったものの、1960年代と1970年代の音楽と活動家の間では重要な意味を持っていました。彼らの交流と相互尊重は、それぞれのキャリアに影響を与え、当時のより広範な文化的運動に貢献しました。バエズのフォーク音楽への感受性はビートルズの初期の作品に影響を与え、ジョンのビートルズでの成功は、フォーク音楽シーンに注目を集めることに貢献したのです。
(2)フルーティーなフォークは嫌いだった?
ジョンは、1971年のローリング・ストーン誌とのインタヴューで、嫌いなフォーク・ミュージックについてこう語っています。
「フルーティーなジュディ・コリンズとか(ジョーン・)バエズとか、そういうのは好きじゃなかった。だから、僕が知っているフォーク・ミュージックといえば、ニューカッスルの炭鉱夫の話か、ディランの話だけなんだ。そういう意味では影響を受けているけれど、僕にはディランのようには聴こえないね。君にはディランに聴こえるかい?」
おやおや、また「へそ曲がりのジョン」登場ですね。ビートルズ時代にはバエズの曲に影響を受けた作品も制作したのに。まあ、彼は素直に自分の気持ちを出さないことが多い人でしたから。
(参照文献)チートシート、ファーアウト
この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。
下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。
*1:バリー・マイルズ、ポール・マッカートニー「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」