
- 1 成功することはある危険性をはらんでいた
- 2 ビートルズのために孤軍奮闘した
- 3 他のミュージシャンも成功に導いた
- 4 仕事中毒だった
- 5 「All You Need is Love」が世界同時配信された
1 成功することはある危険性をはらんでいた
(1)有名になることの危険性

ビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインの伝記映画「ミダス・マン」のお話の続きです。
ブライアン役を演じたロイドは、「彼がどこまで行ったか、ビートルズがどこまで行ったかは、彼自身の大きな犠牲を伴っていた」と語り、さらにこう続けましました。「ブライアンはとても複雑な人物だった。並外れた野心家でありながら、内向的なところもあった。世間の注目を集めたいと思っていたが、同時にそれが自分にとって非常に危険な場所であることも自覚していた。もし彼がもっと長生きしていたら、どんなに多くのことを成し遂げられただろう、彼自身の、そして私たちの世界をどれだけ広げられただろうと今になって思う」
彼が生きていたとしてもビートルズの解散は避けられなかったでしょうが、それでも2~3年は先に延びたのではないかと思います。
(2)同性愛者ゆえの辛い経験を成功に結び付けた
彼が言及する危険性とは、ブライアンが同性愛者であったという事実であり、当時、同性愛はまだ違法だったのです。「ミダス・マン」では、彼が見知らぬ人々と行った陰惨な性行為が描かれ、彼が売春で逮捕されたこと、そして彼の秘密を知った者たちから暴行、強盗、恐喝を受けたことが明かされます。そこまで描く必要があったのかは議論のあるところでしょう。
「でも、これをゲイの悲劇だと勘違いしてはいけない」とプロデューサーのトレバー・ビーティーは語ります。「ブライアン・エプスタインのリスクへの意欲、そして人生のあらゆる面でリスクをコントロールする能力こそが、彼のプロとしての成功の多くを物語っている。彼には多くの課題があった。ビートルズのマネジメントは容易なことだったのだ」
ブライアンは同性愛者であることで、とても辛い人生を歩んできました。しかし、その経験はむしろ、ビートルズのマネジメントという途方もない困難な仕事をする上での糧となったのです。それを踏まえるとこの作品のクオリティを高めるためには、あえて彼が同性愛者であったことを描く必要があったのでしょう。
2 ビートルズのために孤軍奮闘した
(1)全身全霊で尽くすと誓った

映画では、彼が家族の小売業の経験、デザインセンス、そしてスザンナ・ヨーク、アルバート・フィニー、ピーター・オトゥールらとともにRADA(ロンドンにある王立演劇学校)に入会するきっかけとなった演劇的本能を生かして、音楽帝国を築き始める様子が描かれています。
ビートルズのマネージャーに就任したブライアンは、ジョンに自分が提供できるすべてのものに対する見返りとして、バンドの収益の25%を要求しました。「それが普通か?」とジョンは尋ねました。「公平だ」とブライアンは答え、約束しました。「君の面倒を見る。家族のように、いや、それ以上に。お互いに隠し事はしない。」
おそらくマネージャーの報酬としては標準的な水準だったと思います。ブライアンは、ビートルズのために全身全霊で尽くすことを誓いました。
(2)アビイ・ロード・スタジオで撮影
しかし、彼は一つだけ秘密を持っていました。それは、バンドの音楽がレコード会社から次々と拒否されていたことです。ほとんど門前払い同様で全く相手にされませんでした。
パーロフォン・レコードのオーディションも落とされ、EMIレコードのプロデューサーのジョージ・マーティンから「アビイ・ロードのすぐそばにある北ロンドンの私たちの家」に人生を変えるような招待を受けるまで、ブライアンはひたすらありとあらゆる手段を使ってビートルズをメジャーデビューさせようと孤軍奮闘していました。
「ミダス・マン」は、ビートルズが1962年から1970年にかけて約200曲をレコーディングしたアビイ・ロード・スタジオの第2スタジオで撮影するという稀にみる例外的な許可を得ました。「これは単なる新しい音楽ではなく、新しいイギリスの姿だ」と、ブライアンは映画の中で、自身のバンドから次々と生み出されたシングルやアルバムについて回想しています。彼にはビートルズが世界を変える様子がはっきりと見えていたのでしょう。
3 他のミュージシャンも成功に導いた

ブライアンがビートルズのマネージャーであったことは広く知られています。しかし、彼らが共有した成功は非常に大きいものであり、人々は、ブライアンがシラ・ブラックやジェリー・アンド・ザ・ペースメーカーズなど他のマージービート・ミュージシャンの輝かしいポートフォリオも管理し、ザ・フー、ピンク・フロイド、クリーム、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを含む世界的才能のリストを宣伝していたことを忘れがちです。
「ミダスマン」のサウンドトラックにもそれが反映されており、俳優たちが劇中で歌った「Please Mr. Postman」「Besame Mucho」といったビートルズの初期のカヴァー曲が収録されているほか、シラ役のダーシー・ショウは「You’re My World」「Anyone Who had a Heart」を歌っています。
リードシンガーのジェリー・マースデンが出演予定だったものの、撮影開始直前に亡くなったため、ジェリー・アンド・ザ・ペースメーカーズの「How Do You Do It」「You’ll Never Walk Alone」のオリジナル音源も収録されています。チャック・ベリーとビル・ヘイリーのオリジナル曲も収録されています。
4 仕事中毒だった
(1)ファンの中に飛び込んだ

ブライアンの音楽業界への関心の広さと、細部にまで異常なほどこだわる仕事中毒者だったという事実を物語るエピソードがあります。ビートルズ熱が最高潮に達した頃、彼はニューヨークのシェイ・スタジアムの観客席に飛び込み、十代の少女たちと一緒に叫んだことがありました。彼女たちがどんな気分なのかを確かめるためです。普通のマネージャーならこんなことはやりません。
(2)アルコールと睡眠薬に依存した
ブライアンの仕事に対する執拗なまでの執念は、私生活の複雑さ、そしてビートルズがツアーからスタジオへと移行し、音楽制作に専念するようになったことによる将来への不安と相まって、最終的に彼を破滅に導くことになりました。
ブライアンは自分の役割は終わったという不安にかられ、アルコール、バルビツール酸塩、アンフェタミンへの依存症に陥り治療を始めていましたが、1967年8月27日に亡くなりました。ロンドンのベルグレイヴィアの自宅で、家政婦によりベッドで発見されました。検死官は、睡眠薬の偶発的な過剰摂取によるものと判定しました。
5 「All You Need is Love」が世界同時配信された
(1)ブライアンがバンドのために築いた世界

彼の死のわずか2か月前の6月25日、彼は、ビートルズが画期的な世界規模のライヴ中継に参加するのを観ていました。「Our World」は衛星通信の可能性を示すために設計された国際的な実験で、24カ国、推定4億人の視聴者に向けて放送されました。視聴者が聴いたのは、ビートルズの新曲「All You Need is Love」でした。
これは、ブライアンがバンドのために築き上げた世界であり、バンドは彼と非常に密接に結びついていたため、1965年にメンバー全員がMBE勲章を受賞した際には、このイニシャルはブライアン・エプスタインを表していると冗談を言ったほどでした。映画の中で最後に彼が登場するのは、セント・ジョンズ・ウッドの木々が生い茂る伝説のアビイ・ロードの横断歩道で、彼がこれまで築き上げてきたすべてを振り返るシーンです。
(2)リヴァプールとブライアンへのラブレター
「これはリヴァプールへのラブレター、そしてブライアンへのラブレターだ」と、ブライアンがエル・コルドベスで購入した闘牛士の帽子など、ブライアンの思い出の品々を所蔵するトレバー・ビーティーは語っています。ビーティーは「ミダス・マン」の支持者の中に登場しています。
「これは重要だと感じた。ビートルズのスター性は決して色褪せることがなく、これからも決して色褪せることはないだろう。しかし、ブライアンの遺産がどうなるか心配だった」ビートルズは未来永劫、世界中の人から愛され続けるでしょう。しかし、彼らをスーパースターに育て上げたブライアンは、人々の記憶から次第に消えてしまうかもしれません。
(3)ブライアンの死は解散の序章だった
ビートルズは1970年に解散しましたが、多くの音楽史家はブライアンの死が終焉の始まりだったと考えています。映画には、ジョンがブライアンを失った直後の反応を映した白黒のニュース映像は映っていません。記者がそこでこう尋ねています。「ジョン、ブライアン氏がいなかったら、あなたは今頃どうなっていたでしょう?」ショックと悲しみに打ちひしがれながらも、彼は心の底からこう答えています。「わからない」と。
ビートルズの育ての親であったブライアンの死は、メンバーに計り知れない衝撃を与えただけでなく、ビートルズという樽を締めていたタガが外れてしまったことを意味しました。彼らはブライアンの束縛からは逃れられましたが、それは同時に一人一人が自立することを意味していました。やがて、ビートルズはゆっくりと解散への道を歩み始めたのです。
(参照文献)デイリー・メール
(続く)
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