
- 1 色々な意味で「最悪だった」コンサート
- 2 観客が入らなかったコンサート
- 3 ポールに中止する決断をさせたコンサート
- 4 感電死を覚悟してコンサートに臨んだ
- 5 ポールにとって最後の一撃
- 6 キャンドルスティックパークでの最後のコンサート
1 色々な意味で「最悪だった」コンサート
ビートルズは下積みの時代はもちろん、1962年にメジャーデビューしてから1966年にコンサートを止めるまでほとんど毎日のようにコンサートをしていました。そんな数多くのコンサートをこなしてきた彼らですが、思い出に残る素晴らしいものもあれば最悪だったものもあります。何を思って最悪とするかは、定義の問題なのでいろんな見方があると思います。フィリピン・コンサートも命の危険に晒されたという意味では「最悪だった」といえるでしょう。今回は、彼らのキャリアの中でどれが最悪のコンサートだったかを辿ってみます。
2 観客が入らなかったコンサート
(1)どこへでも行った

彼らのオープンな姿勢は、1962年3月31日にグロスターシャーの静かな街であるストラウドのサブ・グラブのような、地図上では指し示せないような場所でもコンサートを行ったことにも表れています。ビートルズはこのコンサートが大混乱になるとは予想していませんでしたが、それでも集まった観客は彼らの控えめな期待にすら及びませんでした。
このイヴェントでビートルズは32ポンドの出演料を受け取りましたが、インフレを考慮しても旅費をまかなうにはほど遠かったのです。しかし、ビートルズが国中を駆け回ったのは金儲けのためではありませんでした。これは経験を積み、コンサートバンドとして成長するための機会だったのです。それでも彼らは、ステージ上のミュージシャンの数をはるかに上回る観客を集められると信じていました。
(2)観客はたった3人
ポールによると、観客はたった3人だったとのことです。彼は後にBBCの取材に対し、これが彼ら史上最悪のコンサートだったと語り、「ストラウドはかなりひどかった……。聞いたこともなかったけど、行ってみたら3人くらいしか来なかった。その中にはテディボーイ(日本でいうヤンキー)みたいな奴もいて、僕らに金を投げつけてきた。ペニー硬貨をね。でも僕らはそれを拾い上げて、『これでいい』と思ったんだ」と語りました。ビートルズはこんな屈辱に耐えてきたんですね。
地元当局の要請により、問題を起こしていたテディボーイたちのコンサートへの入場を禁止されるはずでした。コンサート前には「議会の要請により、テッズボーイとテッズレディはかかとが尖った靴の着用をお控えください」と書かれたチラシが配布されていました。しかし、主催者は、できる限り多くの人を入場させる必要があり、彼らを排除すると会場が空っぽになってしまうと考え見て見ない振りをしたのでしょう。
(3)ストラウドでのビートルズの演奏
ストラウドでのビートルズの演奏は、グロスターシャーの歴史において重要な一部となっています。2016年、作家のリチャード・ホートンが、あの悪名高い夜に会場にいた人々に名乗り出るよう呼びかけたところ、ロジャー・ブラウンという男性が喜んで名乗りを挙げました。彼は、あの有名な夜をこう回想しました。
「彼らは、リヴァプールのナンバーワン・グループと宣伝されていたが、グロスターシャーの私たちにとってはそれほど大きな意味はなかった。ジョン・レノンが新しいアルバムを演奏すると言っていた。いつもの土曜の夜のグループのクオリティを知っていたので、彼らが曲を台無しにするのを待っていた。ああ、本当に驚いたよ。ジョン・レノンのハーモニカは本当に素晴らしく、彼らの演奏はオリジナルよりも素晴らしかった。私は、あの日から彼らのファンになった」
3 ポールに中止する決断をさせたコンサート
(1)ポールは最後までコンサートにこだわっていた

下積み時代は観客がガラガラで悩まされたビートルズでしたが、スーパースターになって観客が膨れ上がると、それはそれで新たな問題を引き起こしました。ファンの叫び声から殺害予告まで、彼らのコンサートはしばしば極度の緊張を伴うものでした。しかし、ポールによると、彼らのコンサートの中でも特にひどいものの一つがあったとのことです。しかも、驚くべきことに、それは彼らのキャリア終盤に差し掛かっていた時期のことでした。
1966年までに、バンドはツアー生活に飽き始めていました。ポールは依然としてコンサートの価値を信じていたものの、他のメンバーは精神的に冷え込んでいました。かつて彼らのエネルギッシュなコンサートを牽引していた情熱は薄れ、セントルイスのある雨の夜、ポールはついに他のメンバーの考えに同意することになりました。
(2)セントルイスの嵐の夜
これは演奏のまずさや観客の熱意のなさに悩まされたショーではなく、それ以上に深い意味がありました。この経験は、ビートルズがツアーで嫌悪するようになったあらゆるもの、すなわち天候、危険、疲労等を現実のものとし、彼らにステージを永久に降りる時が来たと確信させました。
ポールの回想によると、最悪の公演は、1966年の全米ツアー中のセントルイスの野外会場で行われたものでした。前回のシンシナティ公演でも悪天候が続き、今度はミズーリ州まで雨が降り続きました。激しい雨が降り注ぎ、楽器だけでなく彼らの身の安全も脅かされたのです。
4 感電死を覚悟してコンサートに臨んだ
(1)雨中のコンサートは命懸けだった

ビートルズのロード・マネージャーであるマル・エヴァンズは、後に野外コンサートは神経をすり減らすものだったと回想しています。機材は防水仕様ではなく、雨に濡れ露出したケーブルは感電の危険をはらんでいました。当時はミュージシャンが雨中の野外コンサートで感電する事故が絶えなかったのです。かといって、ビートルズの公演を中止すれば暴動を引き起こす可能性がありました。そこで、急遽ステージ上に仮設の屋根が設置されましたが、それでもアンプとステージには水滴が落ちてきました。
現在でもスマホを入浴中に使用して感電死したケースが報告されています。日常的に使用されている電流が人体を流れると感電死する危険があります。水は電気をよく通す性質あるので、機材やケーブルが水に濡れるとより一層感電の危険が高まります。
(2)コンサートの間も終わってからも
ビートルズにとって、会場の設営はリヴァプールのキャヴァーン・クラブでの初期の頃よりも劣悪でした。雨、劣悪な音響、そして半分しか席が埋まっていない会場は、メジャーなツアーというよりも質の悪いものに感じさせました。壮大なショーになるはずだったものが、まるで裏庭で演奏が失敗したかのようでした。
公演が終わっても、状況は改善しませんでした。いつもの会場から安全に帰れる車ではなく、バンドは空の金属製の移動バンに乗せられました。これって荷物を運ぶ車ですよね。座席も安定感もない中、彼らは金属の床の上を滑りながら、なんとか体を支えようとしていました。びしょ濡れになりながらもううんざりしていました。
5 ポールにとって最後の一撃
(1)ついにポールも同意した
ヴァンの中でのある瞬間が、ポールにコンサートを止める決断をさせました。それまで彼は、コンサートパフォーマンスの重要性を訴え続ける唯一のメンバーでした。観客の前で演奏することで、観客は鋭敏で地に足が着いた状態になり、本物の音楽との繋がりを保てると信じていたのです。しかし、セントルイス公演はあまりにも惨憺たるもので、擁護できるものではありませんでした。
窮屈でガタガタと音を立てるバンの中で、ポールはバンド仲間たちの自分と同じように疲れ果て幻滅した様子を見渡し、ついにコンサートを止めることに同意しました。この瞬間、魔法は消え去ったのです。ツアーはもはや喜びも目的ももたらしませんでした。ビートルズは、コンサートの観客の高揚感を追い求めるのをやめ、スタジオで何を作り出せるかに集中する時が来たのです。
(2)コンサートの最中に爆竹が鳴り響いた
セントルイスは転機となりましたが、苦い経験はそれだけではありませんでした。ビートルズは最後のツアー中に、リンゴが殺害予告を受けながらも演奏するなど、幾度となく恐ろしい瞬間を経験しました。観客の中に誰かが危害を加えてくるかもしれないという不安は、計り知れないほどのストレスでした。アメリカではケネディ大統領を始め、多くの人々が射殺されています。ビートルズもいつそうなってもおかしくありませんでした。
メンフィスでは、ステージ上で爆竹が鳴り響き、一瞬、メンバー全員が誰かに銃撃されたかに思われました。爆竹の炸裂音と銃の発砲音はそっくりです。あのパニックの瞬間は、彼らのコンサートがいかに危険で予測不可能なものになっていたかを雄弁に物語っていました。
6 キャンドルスティックパークでの最後のコンサート

彼らの最後のコンサートは、1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われました。これが最後となることを覚悟していたバンドは、その瞬間を捉えようと努力しました。広報担当のトニー・バーロウがショーを録画し、ビートルズはカメラのタイマーを使ってステージからお別れの記念写真を撮影しました。
ジョージは観客に背を向け、最後に一緒にポーズを取りました。演奏の途中でもリンゴはドラムから降り、最後の記念写真を撮らせてくれました。最後の儀式は静かで形式張らず、そして深く象徴的な瞬間でした。
劇的な発表はありませんでした。ただ4人のミュージシャンが、ツアー生活に終止符を打つことに静かに同意しただけでした。汗だくのクラブから始まったビートルズのコンサートは、スタジアムの照明の下で、かつての一体感ともう二度と同じことをしなくて済むという安堵感とともに静かに幕を閉じたのです。
(参照文献)ファー・アウト、リワインド・ラジオ
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