
1 ピーター・フォンダはアメリカの俳優
(1)主演映画で一世を風靡した

ピーター・フォンダと言っても、1970年代以降に生まれた方の中で知っている人は少ないでしょうね。彼はハリウッドの俳優であり、父は名優のヘンリー・フォンダ、姉は女優ジェーン・フォンダという、正に俳優一家でした。
彼の名を一躍有名にしたのは、1969年に公開された映画「イージー・ライダー」です。この作品は、当時ビートルズの影響でヒッピー文化が世界中に広まった中で、二人のヒッピーがアメリカ国内をバイクで放浪するというストーリーでした。彼は、この成功によって一躍アメリカン・ニューシネマの旗手となりました。
(2)「Born To Be Wild」
この作品は知らなくても、ステッペンウルフが制作した主題歌である「Born To Be Wild(ワイルドでいこう!)」は多くの人が聴いたことがあるのではないでしょうか。バラエティー番組でバイクが登場するシーンになると、必ずと言っていいほどBGMでこの曲が流れます。彼は、ある夜ビートルズとともにLSDを摂取し、彼らが1966年に発表した「She Said She Said」の歌詞にヒントを与えたとされています。今回はそのお話です。
2 ビートルズは休暇を取っていた
(1)1965年のアメリカツアーの途中

1965年のアメリカツアーの途中で、ビートルズは貴重な休暇を取りました。しかし、ビートルズというキャラクターである以上、どこにでも滞在できるわけではありません。「安全のための戦略は、隔離された厳重なセキュリティネットで囲むというものだった」とラリー・ケインは2003年の著書「チケット・トゥ・ライド」で述べています。
「彼らは、ベネディクト・キャニオンにある牧場風の家に滞在していた。そこは狭い車道と丘の上の住宅が並ぶ高級住宅街だった。崖をよじ登って『要塞ビートルズ』に侵入するには、陸軍レンジャーの力が必要だっただろう」この住宅街は鉄壁の要塞といえる立地で、さすがに誰も侵入できなかったんですね。「籠の中の鳥」とはいえ、ビートルズがくつろげたことは間違いないでしょう。
住所はカーソン・テラス7655番地で、女優ザ・ザ・ガボールが所有する豪華な賃貸住宅で、ジョンは「ディズニーランドのような場所」と表現しました。ジョージはこう回想しています。「マルホランドの外れの丘の上にある馬蹄形の家だった。小さな門番小屋があり、マル(エヴァンス)とニール(アスピノール)はそこに滞在していた。壁にはアラビア風のものが飾られていた」
(2)ピーター・フォンダもゲストとして招待されていた
バンドは1965年8月23日から28日までそこに滞在し、フォーク歌手のジョーン・バエズ、バーズのジム(後のロジャー)・マッギン、デヴィッド・クロスビー(後にバーズを脱退してクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを結成)といった招待客と共にプールサイドでくつろぎました。
バーズはまだキャリアの初期でしたが、サンセット・ストリップにあるシロズでの演奏で多くのファンを獲得していたため、ハリウッド俳優や映画制作者たちはバンドと親しい友人になりました。この友情がきっかけとなり、まだあまり知られていなかったピーター・フォンダが5日間のツアー休暇中にゲストとしてビートルズと交流する機会を得られたのです。
3 多くの仲間が集まった
(1)LSDパーティーが行われた

「やっとファンと警備員をくぐり抜けることができた」とフォンダは1965年8月24日の訪問についてローリングストーン誌に語っています。「ポールとジョージは裏庭のパティオにいて、ヘリコプターが上空を巡回していた。二人は傘の下のテーブルに座って、ちょっと滑稽なやり方でプライバシーを保とうとしていた。僕らはその後すぐにLSDを摂取し、その後一晩中、そして翌日のほとんどをトリップ状態で過ごした」
ロサンゼルス・タイムズ紙によると、1965年の夏、フォンダは、ロサンゼルスのマルホランド・ドライブで開かれたビートルズのハウス・パーティーに現れました。その時、ビートルズのメンバーを含むゲストの何人かはLSDを服用しており、到着した時にはハイになっていたとフォンダは後に語りました。
(2)「死ぬことがどんなことか知っている」
彼は、LSDの強烈な作用で死にそうだと恐怖を感じていたジョージを落ち着かせようとしたことを思い出しました。「何も怖がる必要はない、ただリラックスすればいいんだと彼に言ったんだ」とフォンダは語りました。「オレは10歳の時、誤って自分の腹部を銃で撃ってしまい、手術台で大量出血のため心臓が3回止まったことがあるから、死ぬというのはどういうことか知っていると伝えた」
4 ジョンは怒ると同時に曲のヒントも得た
(1)ジョンは怒った

ジョンは、フォンダが「死ぬことがどんなことか知っている」とジョージに語りかけているのを側で聞きました。フォンダは、タイムズ紙にこう語っています。「ジョンは私を見て『お前はオレが生きてきた意味すら失わせるぜ。一体誰がそんなクソみたいな考えをお前に吹き込んだんだ?』と言った」ジョンは後に、フォンダが何度も彼のところに来てその言葉を繰り返していたと語りました。
(2)曲のヒントになった
「そんな話は聞きたくなかったよ!」とジョンは語りました。「LSDでトリップして太陽が輝き、女の子たちが踊っていてすべてが美しく60年代そのものだった。すると、全く知らない男が、その時はまだ『イージー・ライダー』に出演してもいなかったし、サングラスをかけて何度もやって来て、『死ぬってどんな感じか知ってるよ』と言ってきたんだ」
「でも、あまりにもそいつが退屈な奴だったから、オレたちはずっと無視していた!それで、その言葉を曲に使ったんだ」とタイムズ紙は報じています。ジョンがこの エピソードを歌詞にしたということは、元々は「She Said」ではなく「He Said」だったということです。
5 嫌な思い出を曲にした
(1)フォンダの言葉をヒントに歌詞を書き始めた

この出来事はジョンの記憶に残っており、後に彼は、サリー州ケンウッドの自宅の音楽室でアコースティックギターを弾きながらこのアイデアを練り上げてレコーディングしました。歌詞はこうです。「彼は言った、俺は死んでいるってことがどんな感じか知っている、俺は言った…俺は言った、俺は気が狂っているに違いない、彼は言った…」この曲が完成するまでには長い道のりがあることをわかっていたジョンは、インスピレーションが湧くまでしばらくこの曲を寝かせておきました。
「あれを書いた時、『彼女が言った、彼女が言った』という部分はあったんだけど、結局何も意味がなかったんだ。漠然と誰かが何かを言ったって感じだったんだけど…でも、それはただの音だった…でも、『彼』じゃなくて『彼女』に変えたんだ」
「ケンウッドの自宅で作った次のホームデモでは『誰があんなくだらないことをお前の頭に植え付けたんだ』って言ったんだ…ズボンが破れそうな気分だ…『あなたが死んだらもっと愛するわ』って彼女は言った。『違う、違う、違う、それは間違っている』って言った」といった歌詞が追加されました。
(2)ミドルエイトが欲しかった
ジョンは続ける。「そして、ミドルエイトが欲しかったんだ。曲の始まりは何日も前からあったから、頭に浮かんだ最初のことをそのまま書いたんだ。それが『少年の頃』だった。ビートは違ったけど、偶然生まれたからリアルだったんだ…悲しい曲だった。ただの『辛辣な』曲だったと思う。『少年の頃』って感じかな。とにかく、幼少期の思い出がたくさん出てきたんだ…あれは純粋だったよ」
興味深いことに、ジョンの初期の手書きの歌詞には、前述の「頭の中はクソだ」や「ズボンが破れている」という歌詞が含まれていました。これは、彼がビートルズの曲にこれらの歌詞を入れたかったことを示唆しています。
(3)ジョージが作曲を手伝った
ジョージは、曲の骨組みがどのようにして出来上がったのかを思い出してこう語りました。「実は後になって、ジョンと一緒に曲作りをしたんだ。ある日、彼の家に行ったんだ。60年代半ばのことだけど、彼は曲作りに苦労していた。未完成の曲が山ほどあって、たぶん3曲くらいだったと思う」
「僕は提案してそれらをまとめるのを手伝って、完成した曲が『She Said She Said』なんだ。このレコードの真ん中の部分は別の曲なんだ。『彼女は言った、死ぬってことはどんな感じか知ってる、でも僕は言った、ああ、いや、違う、あなたは間違っている…』それから『僕が少年だった頃…』と続く。あれは本当にうまくいった。だから僕はそういうことをしたんだ」
ポールの名前が(いつものように)作曲家のクレジットに載っていたため、彼が本当に手伝ったのかという疑問が残ります。「あれはジョンだよ」とポールは著書「Many Years From Now」の中で書いています。そしてこう続けます。「いいタイトルだよ。『She Said She Said』っていうタイトルが気に入ってる。ジョンがほぼ完成させて持ってきてくれたと思う」確かに、ミドルエイトはちょっと曲調が変わった感じがしますが、ジョージのセンスがそうさせたのかもしれません。おそらくポールは、ジョージが作曲を手伝ったことを知らなかったのでしょう。
(参照文献)フォックス・ニュース、ビートルズ・ミュージック・ヒストリー
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