1 発表の時から次第に評価が変わった
(1)発表直後は評価が低かった
1968年11月にビートルズの「White Album」が最初にリリースされたとき、収録されたジョージ・ハリスンの作品は、ジョンとポールの楽曲に比べ、その重要性は二次的なものと見なされる運命にありました。1966年までのジョージの作曲は、プロデューサーのジョージ・マーティンやスタジオの他のバンドメンバーからほとんど評価されておらず、その真価に見合う注目をあまり受けていませんでした。
1967年から1968年初頭にかけて、ジョージが作曲した楽曲は5曲でしたが、その時点でリリースされたのは3曲のみでした。これらの楽曲は、主にインドの楽器を強調したものだったのです。悲しいことに、ジョンが「彼の曲はあまり良くなかったが、誰もそれを口に出したくなかった、しかし我々は皆、その曲に取り組んだ」と語ったのは、おそらくこの時期のことを指していたのでしょう。あの名曲が発表当初は評価が低かったとは意外です。
(2)次第に高く評価されるようになった
しかし、ビートルズ最後の1年半で状況は一変しました。それは、誰も予想していなかった変化です。「White Album」発売直後の数か月間、新譜の傑作として注目を浴びたのはポールの「Ob-La-Di, Ob-La-Da」でした。実際、針が3曲後にジョージの作曲であるこの作品を再生し始めた時、おそらく多くの人はまたしてもレノン/マッカートニーの傑作だと思ったでしょう。
しかし数年が経つにつれ、このジョージによる予想外の傑作は広く評価されるようになりました。多くの国でシングル「Ob-La-Di, Ob-La-Da」のB面として収録されたことが、その認知度向上に間違いなく寄与しました。1973年までにこの曲は十分な知名度を獲得し、「White Album」収録曲の中で公式コンピレーション・アルバム「The Beatles/1967-1970」(通称「青盤」)に選ばれたわずか3曲の一つとなりました。
2 「ザ・ビートルズ 100の偉大な楽曲」で10位に選出
(1)ミック・ジャガーも認めた

時が経つにつれ、この曲への称賛はほぼ伝説的な地位にまで高まりました。ローリング・ストーン誌の特別号「ザ・ビートルズ 100の偉大な楽曲」ではこの曲が10位に選出されました。ミック・ジャガーはこう語っています。「美しい、哀愁を帯びた曲だ。ギタリストにしか書けない。この曲が大好きだ」
デイヴィッド・クアンティックは2002年の著書「レボリューション:ザ・ビートルズ・ホワイト・アルバムの誕生」でこう記しています。「ジョージはこれまでにレコードでこれほど自信に満ちた歌声を披露したことはなく、これほど力強く感情的な楽曲に挑戦したこともなかった。『While My Guitar Gently Weeps』を創作する過程で、ジョージは意図せずして70年代ロックを発明したのだ」この最後の主張の真実性を裏付けるように、この曲はあらゆるクラシックロックラジオ局で絶対的な定番曲となりました。
(2)ポールも認めた
ポールが2021年にHuluで公開したシリーズ「McCartney3,2,1」では、ジョージのソングライターとしての成長、特に「While My Guitar Gently Weeps」に関して驚きを語っています。「バスで出会ったあの小柄な少年、髪をクイッフ(1950年代のポンパドゥールとフラットトップ、そしてモヒカンを組み合わせたような髪型)にした小さなギタリストが、非常に賢い人物へと変わったんだ。僕が『魔法のような』と言う時、まさにそれを意味している。そうなる必要はなかったんだ。僕らは5年で解散して工場に戻ってもおかしくなかった…当時バンドが5年以上続くなんて考えられなかった…彼は偉大な一人になったんだ!」
ジョージ自身は謙虚にこう認めています。「この曲はなかなか良いと分かっていたよ」
3 作曲の経緯
(1)両親のために購入した家で制作した

「White Album」50周年記念「スーパーデラックス」版付属の書籍で引用されているように、ジョージはこの曲は「イングランド北部のウォリントンにある母の家で書いた」と語っています。「セブンオークス」と名付けられた平屋は、ウォリントン郊外のアプルトン・ソーン村に位置し、ビートルズとして名声を得た後、リヴァプールでの生活が耐え難くなったジョージが1965年に両親のために購入しました。彼はビートルズと共にインドから帰国後まもなく両親を訪ね、この1968年4月か5月の滞在中に「While My Guitar Gently Weeps」の大部分を書き上げたようです。
インド滞在中、同行者ドノヴァンがジョンに特定のフィンガーピッキング奏法を教えたことは知られており、この技法は後に「Dear Prudence」や「Julia」などの楽曲で使用されました。ジョージもこの新技法を習得したようで、1968年7月に試みた「While My Guitar Gently Weeps」のアコースティック版初期レコーディングに時折その痕跡が窺えます。
(2)本を開いたら「gently weeps」と書いてあった
この曲の歌詞について、ジョージはこう説明しています。「『易経―変化の書』という本を手にしていたんだ。西洋では偶然を単なる出来事として捉える-たまたまここに座っていて風が髪をなびかせる、といった具合にね。しかし東洋の概念では、起こることは全て必然であり、偶然など存在しない-起きる小さな出来事の一つ一つに意味があるんだ…」
「この考えはイングランド北部の実家に帰省した時に頭に浮かんだ。どんな本を開いても最初に目に入った言葉で曲を書くことに決めた-その瞬間、その時に相応しいものになるだろうから。私は無作為に本を手に取り、開いた-『gently weeps』という文字が目に入った-本を閉じ、曲を作り始めた。最終的にレコーディングする前に歌詞の一部は変更された」前述の「White Album」本でジョージはこう詳述しています。「『While My Guitar Gently Weeps』は、あらゆるものがその瞬間に存在する意味を持つという理論に基づいた単純な習作だった」
運命がジョージを導いたのか、それとも彼がそれを手繰り寄せたのかはわかりません。しかし、名曲とは得てして偶然誕生するものなのです。
4 歌詞は何度も書き直された
(1)出典はコーツ・キニーの1849年作「Rain On The Roof」か

その日ジョージが棚から無造作に手に取った本について、ローリング・ストーン誌の「ザ・ビートルズ100の偉大な楽曲」は次のように記載しています。「出典はコーツ・キニーの1849年作『Rain On The Roof』かもしれない。この詩には『憂いを帯びた闇が/雨の涙でそっと泣く』という一節がある」コーツ・キニーはアメリカの弁護士、ジャーナリストであり、オハイオ州の上院議員という様々な経歴を持つ詩人でもありました。
歌詞は1968年5月28日、ジョージがサリー州イーシャーの自宅で最初のデモをレコーディングした時点でほぼ完成していました。しかし、その後も歌詞は変更を重ねられていきました。この時点での1番3行目は「自らが蒔いた種は刈り取るべき苦難」でしたが、間もなく削除されました。最終節も異なり「荒れ狂う苦難と憎しみを眺めながら…ここに座っているだけなのに、ただ年老いていくだけだ」というものでした。
ジョージのオリジナル歌詞シートには他にも様々な差異が確認できます。この段階では曲のタイトルは「Whilst My Guitar Gently Weeps」であった可能性が高かったのです。
①最初のブリッジの終わり 「誰が君を操ったのか、どうやって目隠しをしたのか、私にはわからない」という表現で締めくくられていました。
②第二節 「空を見上げれば曇り始めている」で始まり、節の後半には「なぜ君の葉巻は燃え続けるのか不思議に思う」という行がありました。
③最終節 当初「周囲にはびこる権力を見つめ…世界で激化する戦争を思う」という構想でした。
こうしてみると、歌詞が当初の構想から相当大きく変更されたことがわかります。
(2)アコースティック版
1968年6月25日までに、EMIスタジオでレコーディングされたアコースティック版では、最初の詩の歌詞がリリース版で知られる形に変更されました。すなわち「床を見れば掃除が必要だとわかる」という表現で、同じ心情をより説教臭くない口調で伝えています。最終節の最初の行もここで変更され、「舞台袖から君が演じる芝居を眺める」となり、メッセージの非難めいたニュアンスも幾分和らぎました。
1969年10月のBBCインタヴューでジョージはこの比喩を再確認しています。「俺がやってることはビートルズのジョージ役を演じているだけさ。みんなそれぞれの役を演じているんだ。世界は舞台で、人々は役者だ。シェイクスピアがそう言った…そして彼は正しい」
次回は、エリック・クラプトンのレコーディングへの参加と最終的な完成までの過程を詳しく解説します。彼のギターがどのように曲に魂を吹き込み、ビートルズらしさを完成させたのかを探ります。
(参照文献)ビートルズ・ミュージック・ヒストリー
(続く)
この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。
下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。