★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズ解散後、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは最後まで不仲だったのか? ― 和解までの知られざる経緯(561)

1 はじめに

ビートルズ解散後ジョン・レノンポール・マッカートニーは最後まで不仲のままだった」…今でも、こう思っている人はどのくらいいるでしょうか?このようなアンケート調査が行われたという一次的資料は、私が探した範囲では見当たりませんでした。したがって推測するほかありませんが、このことに関する色々な投稿を見ると、どうやら今でもそう思っている人が多いように感じられます。

しかし、そう思う根拠はどこにあるのでしょうか?確かに、彼らが和解を公表したという事実はありません。しかし、それがないからと言って和解していなかったと断定することもできません。和解は事実上のできごとであって、それを改めて公表するような性質のものではないからです。ビートルズを再結成するという話でもあったのならまた別ですが。

ただ、もしジョンの生前にポールと和解しなかったままだったとすれば、それはお互いにとっても世界中のファンにとっても大変不幸なことです。では、ビートルズ解散後、彼らの関係はどのように推移していったのでしょうか。今回はこの問題をはっきりさせるために、今までこのブログではあまり触れてこなかった解散後のビートルズ、特にジョンとポールとの関係について検討してみたいと思います。 

2 ジョンの脱退宣言とポールの思い込み

レコーディング中に談笑するジョンとポール

1970年4月10日、ポールは初のソロ・アルバム『McCartney』の自問自答形式のインタヴューを通じて、ビートルズからの脱退を実質的に表明しました。実は、ジョンは1969年9月にすでにバンドを脱退する意思をメンバーに伝えていましたが、解散によるビジネスへの悪影響(アルバム『Abbey Road』等の販売)を避けるため、公表は控えていたのです。

1969年9月、ジョンは会議で事実上こう言いました「俺はもう抜けたい」これは軽口ではなく、かなり決定的な言い方でした。これを受けたポールは「もうビートルズは終わった」と思ったのです。

しかし、注意しなければならないことがあります。これは確かに「脱退宣言」ではありますが、実際は、法的・実務的にすぐ辞められる状況ではありませんでした。当時のジョンをはじめメンバーはEMIとの契約を継続しており、アルバム『Let It Be』は未処理のままで、Appleは混乱していたし、ここで脱退するとEMIから契約違反で訴訟を起こされるリスクもありました。彼としては、2年くらいかけてこれらの問題を整理し、少なくともその見通しが立ってから正式に脱退するつもりだったと考えるのが自然でしょう。

ただ、彼が想定していなかったことがありました。当時のポールはメンバーの中で孤立を深めており、抑うつ傾向にあって将来に不安を抱え酒量が増加していたのです。そんな彼に向かって脱退を宣言すれば、今すぐ辞めると思い込んだとしても無理はなかったでしょう。

今さら言っても仕方がないことですが、ジョンが「すぐ辞めるわけじゃない。契約が終わるまでは続ける」とでも言葉を足しておけば、ポールも誤解しなかったでしょう。また、ポールもジョンの真意をもっとしっかりと確認すべきだったのに、それもしないで勝手に思い込んでしまった。つまりは、お互いのコミュニケーション不足が思わぬ方向に発展してしまった、というところが一番真実に近いのではないかと思います。

3 ポールの脱退宣言とジョンの怒り

ポールがビートルズを脱退したと報じたデイリー・ミラー紙

1970年4月のQ&A(セルフ・インタヴュー)は、ポールが「ビートルズから離れるか?」→ Yes、「再結成の可能性は?」→ No、「ジョンと作曲する?」→ Noと答えています。これを読めば、誰もが「ビートルズは終わった」と考えるのが自然です。

しかし、ポールは後年、繰り返しこう言っています。「自分はビートルズを解散するつもりはなかった」論理的には、この主張をそのまま受け取るのは難しいでしょう。解散と受け取られても仕方がない内容を、そんなタイミングと形式で出してしまったとしか言いようがないのです。

ただ、ポールは後年「誰も何も言わないまま、宙ぶらりんだった」とも語っています。これもある意味真実で、ビートルズはとっくに「仮面夫婦」状態であったにもかかわらず、 表向きはバンドとしての体裁を保っていました。メンバーの中で孤立してもっとも精神的に追い詰められていたポールが、その中途半端な状況に耐えきれなくなったというところだと思います。 

ポールがビートルズ脱退を公表すると、ジョンは強い怒りと失望を覚えました。自分が先に脱退を宣言していたにもかかわらず、世間に向けて最初に公表したのはポールだった。その抜け駆け的行為が、ジョンの自尊心を大きく傷つけたのです。

さらに事態を悪化させたのが、バンドの経営権や資産をめぐる争いでした。二人は法廷で向き合い、弁護士を通じて言葉を交わす関係になります。かつて同じノートに曲を書き、同じスタジオで夜を明かした相手と、書類越しに争う。この現実は、二人にとって決して軽いものではありませんでした。

この時期、ジョンはインタヴューでポールの音楽を「退屈だ」と評し、才能を過去形で語ることもありました。ポールもまた、楽曲や発言の中でジョンへの反発をにじませます。二人の仲は、もはや修復不可能だと誰しもが思ったでしょう。

4 ジョンは和解を望んでいた

John Lennon in 1974 he looked great here and healthy and not skinny and  gaunt looking he should've stayed with May she fed him well 😂 : r/beatles

そんな険悪期を象徴するエピソードとして、ファンの間でよく語られる話があります。

解散後しばらくして、ジョンが仲間たちと雑談していた場で、誰かがジョンの機嫌を取ろうとしてポールの悪口を言った。金のことばかり考えている、音楽がつまらない、といった類の発言だったと言われています。

すると、それまで黙って聞いていたジョンが「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ」「俺の悪口を言っていいのもポールだけだ」と言ったと伝えられることの多い話です。

この言葉がそのまま記録されている一次資料は確認されていません。したがって史実としては慎重に扱う必要があります。しかし、複数の証言を総合すると、ジョンが第三者によるポール批判を快く思っていなかったことは、ほぼ確実だと考えられます。

ジョンとポールの関係が第三者の介入を許さない特殊な領域であったそしてそのことを誰でもない二人がお互いに認め合っていたということが窺えます。

この事実を証明する証言が複数の関係者から残されています。メイ・パンという1973〜75年の「失われた週末」時代にジョンの最も近くにいた愛人ですが、彼女は回想録やインタヴューで何度もこう語っています。

周囲がポールを悪く言うと、ジョンは不機嫌になった、時には話題を変えさせた、ポールの悪口は好きじゃなかった、という趣旨の発言をしています。特に有名なのが「ジョンはポールを批判するのは自分の役目だと思っていた。他人がやると嫌がった」という証言です。*1

また、アップル社の幹部だったピーター・ブラウンは「ジョンは表ではポールを攻撃していた、しかし内心では非常に気にしていた、他人が批判すると露骨に不快そうだった」と書いています。*2

さらにオノ・ヨーコ自身は「悪口」について直接は多く語りませんが、ジョンは晩年、ポールとの関係を大切にしていた、批判より和解を望んでいたと繰り返し語っています。

5 思わぬ再会と和解

www.youtube.com

1970年代前半、ジョンは私生活でも不安定な時期にありました。ヨーコとの別居、「失われた週末」と呼ばれる放浪生活。ロサンゼルスを拠点に、酒とパーティーに明け暮れながら、精神的にも揺れていた時代です。

一方のポールは、リンダと家庭を築き、ウイングスとして音楽活動を軌道に乗せていました。この対照的な状況も、二人の距離を広げていきます。しかし、二人の関係はこのままでは終わりませんでした。

1974年3月、ついにジョンとポールは、ロサンゼルス郊外のレコーディング・スタジオで再会を果たしました。この出来事については、後年「クラブで再会した」という話が語られることがありますが、これは事実とは異なります。実際に二人が顔を合わせた場所はナイトクラブではなく、あくまでスタジオでした。ジョンが当時ロサンゼルスで奔放な生活を送っていたことから、別のエピソードと混同されて広まった誤解だと考えられます。

この再会は、事前に計画されたものではありませんでした。仕事の流れの中で偶然同じスタジオに居合わせ、そのまま自然な形で言葉を交わし、楽器を手に取ったのです。そこで始まったのが、即興的なセッションでした。その様子はレコーディングされ、後に 『A Toot and a Snore in '74』として知られるようになります。

この音源は公式に発表された作品ではなく、演奏内容も完成度の高いものとは言えません。演奏は緩く歌詞も即興的で、途中で崩れる場面もあります。しかし、その「未完成さ」こそが重要です。もし二人の関係が依然として険悪なままであったなら、同じ空間で長時間過ごし、即興で音を合わせること自体が難しかったはずです。即興演奏には、相手の音を受け止め、反応し合う最低限の信頼関係が不可欠だからです。

このセッションからは、解散直後に見られた対立や緊張感は感じられません。むしろ、冗談を交えながらリラックスして演奏する様子が伝わってきます。それは、二人の関係がすでに「対立の段階」を越え、穏やかな距離感を取り戻しつつあったことを示しているように思われます。

1974年の再会には、派手な和解宣言も再結成を示唆する公式な動きもありませんでした。しかし、この静かなスタジオでの出来事は、二人の関係が確実に修復の方向へ進んでいたことを示す、きわめて重要な証拠の一つです。表に出ることの少なかったこの再会こそが、その後の穏やかな交流へとつながる確かな転機だったと言えるでしょう。

(続く)

(参照文献)

ジョン・レノン『オール・ウィー・アー・セイイング』(1980)

ポール・マッカートニー/『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』(1997)

ジェフ・エメリック/『ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア』(2006)

この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。

にほんブログ村 音楽ブログ ビートルズへ
にほんブログ村

下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。

*1:『Loving John』(回想録)

*2:スティーヴン・ゲインズとの共著回想録『The Love You Make』(1983)