1 BBCラジオに出演
ブライアンは、ビートルズに2月12日にBBCのラジオ放送のオーディションを受けさせます。これをきっかけにテレビやラジオに出演できれば、彼らが売れると考えたからです。そして、オーディションに合格した結果、3月7日のラジオ収録に漕ぎ着け、翌日に放送されました。しかし、それが反響を呼ぶことはなく、今まで通り地道な演奏活動を続けることになります。
ビートルズは1962年4月に3度目となるハンブルク巡業をしています。ここで初めて「スター・クラブ」に出演します。ビートルズは、このスター・クラブに1962年4月から5月まで出演しました。休んだのはたった1日です。これがその時の写真です。「AUS VERKAUFT」と書かれた看板が立てられています。これはドイツ語で「売切れ」という意味ですが、何が売切れたのかは分かりませんf^_^;スター・クラブではレコード・デビューした後の11月にも 公演しています。この時は相変わらず革ジャンですね。
2 録音したテープがあった!
この最後の出演の際に、このクラブの支配人のアドリアン・バーバーがマイクをステージの前に置いてこの演奏を録音しました。バーバーの話では、ジョンにビールを奢って口頭で録音の許可を得たとか。マイクを通して家庭用のテープ・デッキで録音したものですから、当然ながら音質は悪いです。
ただ、これは、彼らがビートルズとして正式にレコード・デビューする前の貴重な録音です。バーバーは、このテープをリヴァプールでビートルズと同じようなドミノスというバンドを組んでいたテッド・テイラーの依頼で行いました。彼は、あくまで自宅で楽しむために録音したのですが、ビートルズが売れると彼は、1963年にこのテープをブライアンに売り渡そうとします。しかし、ブライアンは20ポンドを示しただけでした。それで売り渡すのをの止め、1973年まで自宅で保管しました。
そこに元マネージャーのアラン・ウィリアムズが加わり、まず、1973年にアップル・レコード(ビートルズが立ち上げた会社)に1万ポンドで売り込みましたが失敗。次にテープをジョージ・ハリスンとリンゴ・スターに5,000ポンドで売ろうとしますが、これも断られてしまいます。
3 レコードとしてリリースしようとした
そして、1975年にポリドール・レコード傘下のブック・レコーズの社長であったポール・マーフィがそれを手に入れ、10万ポンド以上をかけてリリースのためのプロジェクトを立ち上げ、新しい会社を設立しました。
ビートルズ側は正式な許可を得ていないという理由で発売に反対しました。ジョンは、タイプで「このアルバムの説明書はデタラメだし、裁判になった時のことを想定して書かれているように思う。」と手紙を書き、さらに手書きで「これは忌々しい偽物だ!」と書いています。しかし、ビートルズ側は差し止めの裁判を起こしましたが敗訴し、1977年に「デビュー! ビートルズ・ライヴ'62」("Live At The Star-Club In Hamburg, Germany; 1962.") として発売されています。
もっとも、1991年にCDが販売される際に再び裁判となり、ジョージ・ハリスンがビートルズを代表してロンドン高等裁判所の法廷に立ち、1998年に今度はビートルズ側が勝訴し、新たな発売は差し止められました。ジョージはインタヴューに答えて、「私は、1本の小さな藁を持っているだけだったが、アップルのために何としても勝訴しなければならなかった。」と発言しています。
ジョージが一番熱心だったのは、この時の彼のギターはミスが多く、こんな演奏を公にされたくないという気持ちが強かったこともあるかもしれません。音質も悪くてとても鑑賞に堪えるとは言い難い代物ですが、歴史的価値は大きいです。それにハンブルクでの彼らの荒削りな演奏が聴ける貴重な記録ともいえます。
4 EMIでオーディションを受けた
そして、5月9日にはブライアンがジョージ・マーティンと初めて打ち合わせし、仮契約にまで漕ぎ着けます。何とマーティンはテープを聞いただけで仮契約したのです。しかし、正式な契約は彼らのセッションを聴いてからということになりました。喜んでブライアンはビートルズに電報を送ります。それは、EMIからレコーディング・セッションの要請があったから、新曲の練習をしておいてくれというものでした。
既にデッカで手痛い失敗をしているだけに、もはや彼らには失敗することは許されません。ですから、彼らは、6月3日と4日の2日間、キャヴァーン・クラブを借り切って必死に練習に明け暮れました。オーディションは6月6日でしたが、彼らは前回の失敗を繰り返さないよう慎重に前日の5日に車で出発することにしました。
そして運命の1962年6月6日を迎えます。この日初めてのレコーディングで、後に記念すべき初シングルとなる「Love me do(ラブ・ミー・ドゥ)」も録音します。ただし、これはあくまでテストであり、まだパーロフォンが正式に契約するかどうかは分かりませんでした。そして、この無名のバンドのオーディションに、名プロデューサーのジョージ・マーティンが同席したんです。
普通、無名の新人のオーディションを受け持つのは担当の仕事で、プロデューサーが直々に同席することなどあり得なかったのです。これもはっきりしないのですが、マーティンが彼らに何か魅力を感じて自ら同席したという説と、スタッフの中の誰かが何かを感じて彼を呼んだと言う説があります。彼が既にデモ・テープを聴いていたことからすると、前者のような気がします。
このマーティンを「5番目のビートル」と呼ぶ人もいます。しかし、マーティン自身は、インタヴューに応えて「ブライアンこそが5番目のビートルだ。」と言っていますし、ポールも同じことを言っています。この辺りは、受け止め方の違いでしょう。
5 マーティンのダメ出しとジョージの切り返し
オーディションが終わった後、マーティンは、彼らに長々とダメ出ししました。彼らの音響装置があまりに貧弱で、とても収録できるような代物じゃない、プロを目指すならもっと装置に気を使わないといけないと。実際、かなり酷かったようです(^_^;)
レコード技師のノーマン・スミスによると、ジョンのアンプは、カタカタ振動するので固定しないといけない、ポールのアンプは、ノイズの方が原音より大きく、ピートのドラムもシンバルに問題がありました。音源さえちゃんと取れれば後は何とか技術でレコーディングまで持っていけるんですが、その音源自体がちゃんと取れなかったんですから。まあ、貧乏で高価な音響装置は買えませんでしたからね。
彼らは、このお説教を黙り込んで貧乏ゆすりとお互いに目配せしながら聞いていました。マーティンは、「君たち、さっきからずっと黙り込んでるが、何か私に言いたいことがあるんじゃないのかね?」と尋ねました。すると、ジョージがたった一言「ええ、あなたのネクタイが気に入りません。」とジョークで答えました。
マーティンが気の短い人物だったら、「出て行け💢」と怒鳴ってたでしょうね(^_^;)しかし、逆に彼は大笑いして、それで場の雰囲気が一変になごみました。彼らが帰った後、マーティンは、この破天荒な若者たちと契約すべきかどうか悩みました。それで彼はノーマン・スミスに「彼らをどう思うかね?」と意見を求めたんです。
すると彼は、「私は、今まで沢山のアーティストを観てきました。でも、上手く言えませんけど、彼らは今までのバンドとは何かが違います。彼らと契約すべきです。」と答えました。このノーマン・スミスの一言もファイン・プレイと言っていいでしょう。同じスミスでもデッカのマイク・スミスとは天と地の差があります。
マーティンは、「分かった。考えてみるよ。」と答えました。さあ、ここが運命の分かれ目です。
(続く)
この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。
下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。