1 やっとデッカ・レコードのオーディションを受けられた
ブライアンは、ビートルズを売り込みにロンドン中のレコード会社と交渉しますが、みんな断られてしまいます。しかし、ブライアンの誘いでキャバーン・クラブに来たことのあるデッカ・レコードのマイク・スミスの紹介で、ようやくデッカ・レコードがオーディションをしてくれることになりました。
ビートルズは、1962年1月1日にデッカ・レコードのプロデューサー、トミー・ミーハンのオーディションを受けました。このオーディションに臨む前にビートルズとブライアンとの間で意見が対立しました。ビートルズは、自分たち本来のワイルドなスタイルを出した選曲で行くべきだと主張しましたが、ブライアンはそれでは会社の気に入られないから、もっと大人しい選曲にすべきだと主張し、結果的に彼らもそれに従いました。このときは、吹雪による交通渋滞の上、運転手が道を間違ったせいで、彼らがスタジオに着いたのはオーディション開始の午前11時ギリギリでした。
その上、アンプなどの機器がショボかったので、スミスからそれをデッカのものに変えるように要求され、彼らは気分を害しました。でも、これはスミスの主張の方が正しかったんです(^^ゞ何しろ彼らが持ち込んだアンプは小さい木製、貧弱で音が拾えないし、ノイズは多い(特にポールのベース・アンプ)。収録に必要な音源すらマトモに拾えない。当時、彼らが使っていた楽器とアンプです。なるほど、これではダメでしょうね(^^ゞ
これが当時のデッカでの録音風景です。下は1958~1959年に使用されたデッカのレコード・デッキです。
2 不合格だった!
そんなこともありましたが、彼らはオリジナル曲3曲を含む15曲を1時間にわたって一生懸命演奏しました。彼らは、緊張のあまり演奏やハーモニーを合わせることができず、途中で演奏を止めてしまったのもありました。そのためセッションはそれ程上手くはいかなかったとは思いつつも、きっとデッカは自分たちと契約してくれるだろうと確信しました。しかし、数週間後に告げられた結果は不合格でした。
当時、デッカの新人担当部門のチーフであったディック・ロウは、ブライアンに「もう、ギター・グループの時代じゃありませんよ、エプスタインさん。」と冷たく告げたんです。この言葉は後世まで歴史に刻み込まれます。さらに続けて「ビートルズにショー・ビジネスの世界で未来はありません。あなたは、リヴァプールで成功してるんですから、そちらへ帰った方が良いですよ。」しかし、ブライアンも負けてはいません。「あなたはどうかしている。私は、彼らがエルヴィス・プレスリーを凌ぐ大物になると確信しています。」と涙ながらに言い返します。いやはや、この情熱たるや大したもんです。
3 「ビートルズを断った男」
それに、そう言いながらデッカは、別のブライアン・プール&ザ・トレメローズというギター・グループと契約してるんです。それも彼らの出身が地元だというただそれだけの理由で。まあ、実際には彼の部下のスミスの意見に従ったんですがね。
スミス自身は、ビートルズと両方契約すべきだと考えていました。彼はクラブでの彼らの演奏を聴いていましたし、スタジオで彼らが緊張のあまり十分に実力を発揮できなかったことを知っていたからです。しかし、上司のロウは彼に対し、どちらかを選べと命じます。それでスミスは地元のグループを選びました。ロウはデモ・テープすら聴いておらず、スミスの言うことを鵜呑みにしたわけです。
しかし、彼はさっきの一言で後年、「ビートルズを断った男」という有難くない称号をもらうことになります。彼も「ビートルズになれなかった可哀想な人達」という括りでビートルズ・ヒストリーに展示されています。そして、この決断は音楽史上でも有数の誤った決断だとされています。ただ、幸運なことにデッカは、その後、ビートルズの大成功に慌てて、ジョージ・ハリスンの紹介でローリング・ストーンズと契約するんですけどね。何とか、帳尻合わせはしたというところでしょうか(笑)
4 ビートルズは落ち込んだ
この予想外の結果には流石の彼らも相当落ち込みました。ジョンは、「これでもう終しまいだ。」「僕たちの選曲でやっていれば合格できたはずだ。」と、また、ポールは、「テープを聴く限り、僕らが不合格になった理由がわからない。確かに、そんなに良い出来じゃなかったけど、サウンドは興味深くてオリジナルだった。」と感想を述べています。
そして、自分達の主張したとおりにやっていれば合格できたはずだ、今後は音楽に関しては一切口を出すなとブライアンに釘を刺しました。もちろん、ブライアンも従わざるを得ませんでした。
ところが、これが面白いところなんですが、この選曲が後にオーディションを受けるパーロフォン・レコードのジョージ・マーティンに気に入られることになります。彼は、ロック一辺倒ではなく幅広いレパートリーを持つ彼らに興味を持ったといいますから、世の中分からないものです(^_^;)
不合格とはなったものの、デッカのオーディションを受けたことは決して無駄ではありませんでした。そのおかげで彼らは最新の機器で録音したオープン・リールのデモ・テープを手に入れることができたからです。ブライアンは、なお諦めずに、このテープを持ち込んでロンドン中のレコード会社と交渉しますが、みんな断られてしまいます。
「こんなレベルの演奏だったら、リヴァプールで今まで通りやっておいた方が良いよ。」と軽くあしらわれてしまいます。ですから、見る目がなかったのは何もデッカだけじゃなかったんですよ。むしろ、目を付けたパーロフォンが偉いんです。
確かに、デッカの最新技術をもってしても音源の悪さはどうしようもありませんでした。それを度外視して彼らの才能に気が付いたら、むしろその人を褒めるべきです。HMVレコード店のマネージャー、ボブ・ボーストは、ブライアンに対し、簡単に再生できるようにテープをレコードに記録しなおすよう勧めました。早速、彼は、ホーストの店でそれをレコードにプレスします。
しかも、この時、ドラマーはピートでリンゴではありませんでした。このまま合格していたら、リンゴ不在でデビューしたことになります。それで成功できたかどうか。ピートのドラムは平板で重く、緊張感が感じられませんでしたから。
5 パーロフォンが関心を持った
レコード技師のジム・フォイは、レコードを聴いて感銘を受け、オリジナルが3曲あることに驚いて、音楽の出版会社であったアードモア&ビーチウッド(EMIの子会社)のシド・コールマンに連絡します。私は、これはジム・フォイのファイン・プレイだったと思います。
コールマンは演奏を気に入り、出版を持ち掛けますが、ブライアンの狙いはあくまでレコード・デビューでした。そこで、コールマンは、パーロフォン・レコード(EMIの子会社)の新人開発部の部長でプロデューサーであったジョージ・マーティンを紹介します。マーティンがこのテープを聴き、ビートルズに関心を持つことになりました。この世の中何が幸いするか分かりません。というよりブライアンの必死の努力が幸運の扉のドアを掴んだのでしょう。
なお、この時録音したテープは長らく所在不明になっていましたが、2012年にイギリスのオークションに出品され、日本人が約450万円で落札しました。ただし、収録曲の著作権はアップル・レコードが所有しているので、使用料を払わないと販売することはできません。どうやらこのテープはブライアンが所有していて、後にEMIレコードの役員に譲ったようです。彼は、それを2002年に音楽作品のコレクターに売却したと言われています。
ビートルズが成功した後、誰かが「ビートルズとの契約をしなかったことで、ディック・ロウは自分で自分を蹴っ飛ばしてるに違いない。」と言ったのをジョンが聞いて「死ぬまで蹴っていればいいさ。」と言い放ちました。そして、たまたまロンドンで彼らがスミスと歩道で出会った時、一斉に人差し指と中指を真っ直ぐに伸ばして額に当て挨拶しました。「どうだい。オレたちはあんたらを見返してやったぜ。」ってなところでしょうか。
(続く)
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