1 ローリングストーンズをマネジメント
(1)デッカとの交渉は成功
ローリングストーンズのミック・ジャガーに見込まれたアラン・クラインは、ストーンズのレーベルであるデッカレコードとの契約の見直しについて直ちに交渉に入りました。ストーンズが制作する映画の多額の制作費を前払いで支払わせることに成功し、ここまでは、ミックの判断が正しかったことが証明されました。
クラインは、デッカの会議室で「ストーンズは、もうデッカのレコーディングはしない。」とエドワード・ルイス会長に言い放ち、驚愕した会長は、彼らの求めに応じて契約を見直したのです。まあ、手口は、ほとんど恐喝に近いですけどね💦
(2)酷い目に遭わされたストーンズ
ところが、クラインは、デッカから支払われた170万ポンドをイギリスのストーンズの口座ではなく、アメリカの自分の口座に入金させたのです。これだけでなく他にも色々な小細工をしたので、ミックとの関係が悪化することになりました。
1967年9月、クラインは、オールダム社を買収して単独マネージャーに就任しました。彼は、その年の初めにミックとキース・リチャーズが麻薬で逮捕され、1969年7月にはブライアン・ジョーンズが死去するなど、グループの歴史の中で最も波乱に満ちた時期を管理しました。ビートルズの時もそうですが、クラインは、自分が関わっているアーティストの一番危機的な状況下でマネジメントするという運命にあったのでしょう。
その1年後、デッカとの契約が終了したことで、ストーンズは、クラインと縁を切ることを決意し、アトランティック・レコードから自分たちのレーベルを立ち上げることにしました。1971年、ストーンズは、クラインと彼の会社を相手に様々な訴訟を起こし、クラインを詐欺で告発しました。
これは有名な話ですが、ミックは、ホテルの廊下でクラインと向き合い「オレの金はどこだ?」と問い詰めました。1972年5月、ストーンズと元マネージャーとの間で24時間の交渉で最終的な和解が成立しました。ミックの命令でこの様子は、フィルムに記録されたようです。ストーンズは、いい交渉人を見つけたと思ったところが、とんだ食わせ物で彼らの報酬を自分の懐に入れていたんですね。
2 ストーンズを通じてクラインがジョンにコンタクト
(1)ロックンロール・サーカスの収録中
1968年12月、ミックは、ジョンにテレビのスペシャル番組「ローリングストーンズ ロックンロール・サーカス」の収録中、クラインは、ジョンに自分がいかに凄腕のマネージャーであるかをアピールしました。ジョンもヨーコもすっかりクラインの話を信じ込み、彼なら信頼できると思い込んだのです。
1967年8月にブライアンが亡くなって以来、ビートルズのビジネスは、船長が突如いなくなった船のようにコントロール不能に陥っていました。クラインは、プレイボーイ誌の1971年11月号に掲載されたインタヴューで、「最初、レノンは、私について確信がなかった。彼は、何年も前に、私がいつかビートルズの経営をすると言っていたことを知っていたんだが、そのことが彼を怖がらせた。まるで、私に予知能力があるかのように思ったんだろう。」
「車でニューヨークから橋を渡っていたら、ラジオでエプスタインが死んだと聞いて、自問自答したんだ。他に誰がいる?私は、ジョンに電話した。彼は、声明を出していた。もし、ビートルズがすぐに何もしなければ、6か月でアップルは破産すると言っていた。それが私が行動させるキッカケになった。」
(2)以前からビートルズと関わりがあった
実は、クラインは、かなり早い時期からビートルズとコンタクトしていたんです。彼とブライアンは、1964年にロンドンで初めて会談しました。表向きの理由は、クラインがマネジメントを引き受けていたアメリカの黒人歌手であるサム・クックをビートルズのツアーの前座にするかどうかについて話し合うためでした。
しかし、二人が話し始めて間もなく、クラインは、別の話題を持ち出しました。ブライアンのアシスタントであるピーター・ブラウンは、その会議のことをこう回想しています。「クラインは、ビートルズがEMIから受け取っている印税の低さは『ばかげている』という話を聞いていたので、自分が彼らの契約を再交渉してもいいと申し出たのです。どうやら、クックの話は単なる口実で、こっちが本題だったようですね(^_^;)
ブライアンは、自分の仕事にケチを付けられたことに腹を立て、クラインを追い出しました。彼にしてみれば、一番言われたくないところでしたし、クラインのホンネがそこにあると気付いたのですから、腹を立てたのも無理はないでしょう。
しかし、やがて、彼は、クラインを過小評価していたことに気付きます。クラインは、すぐにビートルズを「手に入れる」のは時間の問題だと公言し始めたのです。「エプスタインは、クラインが自分にとって大きな脅威だと思っていた。」と音楽業界のベテラン、ダニー・ベテッシュは語っています。そして、図らずもそれは現実となりました。
ブライアンをさらに不安にさせるかのように、ポールは、クラインが成功した話を彼にしました。ある時、他のメンバーと一緒に乗ったエレベーターの中で、ポールは、彼に「ああ、そういえば、クラインは、ストーンズに25万ドルを稼がせたんだってね?オレたちはどうなんだ?」と尋ねたのです。
ブライアンは、「あんたもオレたちのマネージャーなら、クラインみたいにやってみたらどうだ?」と言われたかのように衝撃を受けたでしょう。ブライアンは、「このままではクビにされる。」と危機感を覚えたに違いありません。
(3)クラインを上手く利用していれば
これは、私の勝手な考えですが、もし、ブライアンにもう少し戦略性があれば、クラインを上手く利用して、ノーザンソングス社に奪われたビートルズの著作権を取り戻せたかもしれません。例えて言えば、借金の取り立て屋を雇うようなものでしょうか。自分の至らないところを率直に認め、自分ではできないことを彼にやらせてみるのも一つの戦略だったのではないでしょうか?
ブライアンは、クラインのように法律や会計には詳しくなく、ずる賢しこさや相手を恫喝する度胸がなかったのです。一方でクラインは、ストーンズを巡るデッカとの交渉でも、「過去の契約など紙切れに過ぎない。」と無視して、強引にストーンズに有利な契約を結ばせたのです。
もちろん、ビートルズという大切な宝物を奪われてしまうというリスクはありました。しかし、毒も使いようによれば薬になります。そういう意味でクラインは猛毒ではありましたが、使いようによっては特効薬になったかもしれません。
ブライアンのようにビートルズに献身的に尽くし、なおかつ法律にも会計にも詳しくて、レコード会社とも対等に交渉できるマネージャーがいれば最高だったのですが、流石にそんな神様みたいな人物は存在しませんでした。
3 ビートルズと契約
(1)ポールは契約しなかった
1969年1月、ジョンは、クラインを財務マネージャーとして雇い、翌月にはジョージやリンゴも彼とマネジメント契約を結びました。ポールは、ロンドンのドーチェスター・ホテルで他のメンバーとの写真撮影のためにポーズをとっただけで契約書にサインせず、リー・イーストマン(妻リンダの父)をマネージャーにしようとしたため、メンバー間にさらなる緊張関係が生まれました。
クラインは、自分がビートルズのマネジメントを担当することになってから、彼らが音楽を演奏することに集中できるようになり、彼らの将来がより明るくなったと主張しました。ジョンは、確かにその気になり、プレイボーイ誌に次のように語っています。「彼は、何でもこなすし、私は、彼を信頼できる。彼が来る前は、ビジネスのことで頭がおかしくなりそうだった。」ジョンは、ビジネスのような面倒くさいことは大嫌いでしたし、人を信用しすぎるところもありました。
(2)実績を上げたのは事実
クラインが経営難に陥っていたアップルコア社の経営を安定させたことは事実です。今さらながら気づいたのですが、順序からすると先にこちらを書くべきでしたね(^_^;)アップルが経営難に陥っていたことが、クラインとビートルズとの関わりを生んだわけですから。アップルのことについてはこのシリーズの次のシリーズで書くことにします。
彼は、アップル・ブティックのような不採算部門を切り捨て、経営陣を解雇しました。しかし、ニール・アスピナルの解雇は間違いだったことが分かり、ビートルズが信頼する相棒は晴れて復職したのです。
クラインは、グループに代わって、ビートルズの出版社であるノーザン・ソングス社の経営権を手に入れようとしました。「ジョンとポールは(株式を)15%ずつしか持っていなかった。ディック・ジェイムズは35%を所有し、残りのほとんどは一般人が所有していた。最終的にはATVに株式を売却して大金を稼いだが、それは最善の方法とはいえなかった。」とクラインは語っています。
また、彼は、EMIやキャピトルとの契約について交渉し、当時のアメリカでは最高のロイヤリティー率であった、25%まで引き上げさせることに成功しました。それまでアメリカでは17.5%に抑えられていたのです。ここまでは良かったんですがねえ~…💦
(参照文献)インデペンデント、ニューズウィーク、エル・セルクーロ
(続く)
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