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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ジョン・レノンとサルバドール・ダリ〜シュルレアリスムが結びつけた二人の天才(498)

ジョンとダリ

1 シュルレアリスムがアートに与えた影響

(1)シュルレアリスムとは

ダリの代表作「記憶の固執

今回は、シュルレアリスムビートルズ、特にジョン・レノンとの関係について考察します。

シュルレアリスム運動は、第一次世界大戦後からフランスの詩人アンドレ・ブルトンが主導した芸術運動で、「夢と現実というそれまで矛盾していた状態を、絶対的な現実、超現実へと解決する」ことを目指しました。日本語では「超現実主義」と訳されます。

フロイト精神分析と無意識の重要性に触発され、1920年代から始まるこの時期に、文学から絵画まで、さまざまな形態のシュルレアリスム芸術が生まれました。シュルレアリスムの画家たちは、目に見える出来事ではなく、夢や無意識、偶然といった人の意識ではコントロールできない領域を「超現実」として表現しようとしました。

(2)音楽にも影響を与えた

音楽は、シュルレアリスムの主眼ではありませんでした。ブルトンは、「沈黙は黄金」という自著で音楽という媒体について否定的に書いたほどです。しかし、この運動は、多くのミュージシャンにインスピレーションを与えました。

エリック・サティエドガー・ヴァレーズなどの作曲家は、夢などのシュルレアリスムの手法からインスピレーションを得ており、ヴァレーズの作品「アルカナ」にもそれが反映されています。シュルレアリスムの最初の波が終わった後もその影響は残り、今日でもアーティスト、映画制作者、ミュージシャンにインスピレーションを与え続けています。

 

 

2 ジョンも影響を受けた

(1)ジョン自身が認めた

シュールレアリスティックに描かれたジョンの肖像

シュルレアリスムがポピュラー音楽に浸透した最も顕著な例の一つは、ビートルズの作品です。ジョンは、シュルレアリスム運動の大ファンで、かつてアメリカ人作家のデイヴィッド・シェフに次のように説明しました。「シュルレアリスムは、私に大きな影響を与えた。なぜなら、そのとき私は、自分の心の中のイメージが狂気ではないことに気づいたからだ。もし、それが狂気だったとしても、私は、世界をそのように見る特別なクラブに属しているのだ。私にとってシュルレアリスムは現実だ。私にとって霊視は現実なのだ」 

ジョンは、あまりにシュールな発想をする自分の頭がおかしいのかもしれないと思っていたようです。しかし、シュルレアリスムの作品に触れたことで、その懸念は払拭されました。彼は、自信を持って人々の理解を超える傑作を制作し世に送り出したのです。

(2)シュルレアリスムの極地「I Am The Walrus」

www.youtube.com

そのため、シュルレアリスムのテーマは彼の曲の多く、特に「Magical Mystery Tour」に見られます。おそらくバンドの最もシュールな曲は「I Am The Walrus」ですが、1980年代に活躍したイギリスのバンドであるザ・スミスのギタリスト、ジョニー・マーはこれを「ヒエロニムス・ボスとサルバドール・ダリの曲」と呼びました。ボスの絵画は、15世紀初頭の作品でシュルレアリスムよりずっと古い時代のものですが、シュルレアリスム運動のメンバーは、彼の作品を自分たちのスタイルに決定的な影響を与えたとして支持しました。 

シュールレアリストの考え方が「I Am The Walrus」に影響を与えたことは間違いないでしょう。歌詞からはジョンが、ダダイストシュールレアリストが多用した「自動書記」の影響を受けていることが分かります。自動書記とは、作家が何か別の存在に取り憑かれて、自分の意思とは無関係に身体が動き、文字や絵などを描く現象のことです。この手法では、たとえ意味不明に思えたとしても、無意識の心から生じたものをそのままなんの加工もせず書き記すのです。

「死んだ犬の目から滴る黄色いカスタードの膿、人の粗探しばかりしてる口汚い女、淫乱な尼僧」などの歌詞は、常人には本当に理解不可能なのですが、明らかにジョンの潜在意識の一部を言語化したものです。脳内の無意識を言語化し、歌詞にできたのは彼が天才だからです。

(3)シュールでポピュラー

マーにとって、「I Am The Walrus」は、まさにシュールレアリスムが現実になったかのような芸術作品です。彼は、こう説明します。「これは、私たちがポップミュージックとして考えるものを完全に超越している。大衆文化からしか生まれ得なかった。完全に無秩序で美しい。私はめったに天才という言葉は使わないが、これは天才的な作品であり、本当にトリッピーだ。ポップミュージックという点では、これを超えるものはないと思う」

シュールでなおかつポピュラーという相容れないような要素を融合させた傑作をジョンは制作したのです。

 

 

3 サルバドール・ダリとの出会い

(1)ロバート・ウィテカーが引き合わせた

ウィテカーが撮影したジャケット写真

ジョンとサルバドール・ダリは、それぞれの分野から20世紀を再定義しました。彼らは、音楽と絵画というそれぞれの分野の巨人であり、ポップカルチャーを前進させた偉大な人物でした。歴史的には、1969年に二人は昼食を共にし、世界について語り合いました。

この二人の象徴的な人物の出会いのきっかけを作ったのは、写真家のロバート・ウィテカーです。彼は、1964 年から1966年にかけて何度もビートルズを撮影しており、二人と仕事で密接な関係を築いていました。ウィテカーは、米国限定リリースのアルバム「Yesterday and Today」のカヴァーなど、このバンドの最も有名な写真のいくつかを撮影しています。

(2)ブライアンの頭の上に孔雀の羽根を乗せた

ロバート・ウィテカー

ウィテカーは、ビートルズがオーストラリアツアー中、ザ・ジューイッシュ・ニュースのインタヴューのためにマネージャーのブライアン・エプスタインの写真を撮った後、グループに紹介されました。彼は、後にこう説明しています。「エプスタインの写真を撮ったとき、彼が孔雀のような騎士のような人だとわかり、写真のアクセントとして彼の頭に孔雀の羽根をつけたんだ。彼は、その写真を見てびっくりしたよ」

英国紳士然としたブライアンに孔雀の羽根をつけるなんて、ウィテカーならではの奇抜な発想です。しかし、この写真は、滅多に見られないブライアンのユーモラスな姿を映し出していて、これ自体がシュールな作品となっています。

(3)ブライアンからオファーされた

「その後、彼は、私がニューヨーク近代美術館で開催したコラージュ展を見て、すぐに私にNEMSの専属カメラマンとして、彼のアーティスト全員を撮影するポジションをオファーした。最初は断ったが、フェスティヴァルホールでビートルズの演奏を観て、大声で叫ぶファンの多さに圧倒され、オファーを受け入れてイギリスに戻ることにした」

既に成功を収めていたウィテカーにとってブライアンのオファーは必ずしも気乗りがするものでは無かったようです。しかし、熱狂するビートルマニアの様子を見て写真家としてビートルズを撮影したいという意欲が湧いたのでしょう。

その瞬間から、ウィテカーはビートルズと非常に親しくなり、ワールドツアーに同行しました。彼らがツアーを止め、彼の仕事はなくなりましたが、ビートルズと別れた後も「スウィンギング・シックスティーズ」を記録し続けました。

 

 

4 アートを変えた二人

(1)ダリを回顧する

ウィテカーが撮影したダリ

しかし、状況が変わり始めると、ウィテカーは、彼の芸術的ヒーローであるサルヴァドール・ダリを含む、彼がさまざまな興味を抱いた分野を追求するようになりました。彼のウェブサイトには、彼が後に回想した言葉が書かれています。「『写真、たくさん撮ろう。私は、思いやりのある人に写真を撮られるのが大好きだ。私は、世界で一番写真のポーズをとる娼婦だ』これは、1967年にダグラス・クーパーにダリに会わせてもらったときに、ダリが私に言った最初の言葉だった」

ダリは、有能な写真家に写真を撮ってもらうことが大好きで、ウィテカーもその一人に選ばれたのです。

(2)写真展「ダリとビートルズの出会い」の開催

youtu.be

2005年、ウィテカーは、シュールレアリストの展覧会「サルバドール・ダリビートルズの出会い」をリヴァプールで開催し、彼の最も強い関心事であるビートルズとダリの二つを結び付けました。上の動画ではウィテカーの息子が父親やビートルズ、ダリについて語っています。

展覧会の宣伝のためリヴァプール・エコー紙のインタヴューに答えたウィテカーは、ブライアンの下で働いていたピート・ブラウンにダリを紹介し、後にジョンにダリを紹介した経緯を説明しました。「彼は、ジョンの写真をコートのハンガーにかけて壁に飾っていた」とウィテカーは語りました。このエピソードからダリがジョンを気に入っていた様子が窺えます。

(3)ヨーコだけが語れるダリとの会話

この会合は、ジョンがパリでオノ・ヨーコと新婚旅行中だったときに起こり、後に「The Ballad Of John And Yoko」の中で言及されています。彼は、この曲の中でパリに滞在していた時のできごとを歌っていますが、残念ながら彼とダリとの出会いに直接関連する情報は登場しません。ただ、ウィテカーがダリのコートのハンガーについて語ったことから判断すると、ジョンは、ダリにかなりの印象を与えたようです。

二人は、その後二度と顔を合わせることはなかったようですが、パリでの昼食は、二人の象徴的な人物の間の文化的瞬間を揺るがす出来事でした。この歴史的な出会いについて語れるのは同席したオノ・ヨーコだけであり、それは私たちが聞く価値のある話です。

(参照文献)ファーアウト

( 続く)

 

 

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