1 ビートルズとマーティンとの関係
(1)よき理解者でありコーディネーター
誰もが批評家であるとよく言われますが、ビートルズの長年のプロデューサー、ジョージ・マーティンもその一人です。いわゆる「5人目のビートル」は、1960年代初頭の「P.S. I Love You」や「Love Me Do」の頃から、ビートルズの広範かつ象徴的なディスコグラフィーの作成に尽力しました。つまり、マーティンは個人的にも音楽的にも、ビートルズのさまざまな側面を見ていたということです。バンドが方向転換して新しいクリエイティヴ・プロジェクトを開始するたびに、マーティンはその移行を監督していました。
(2)時には緊張関係にもあった
ただし、そのプロセスには落とし穴がなかったわけではありません。プロデューサーとアーティストの関係は、自尊心が傷ついたり、芸術的ヴィジョンが満たされなかったりすると、緊張する可能性があります。マーティンとビートルズは親密な関係を共有していましたが、時には一方が他方をいらだたせることもありました。そのような例の一つは、ビートルズの数ある名曲の中でも最も象徴的な作品となる曲の初期段階でマーティンとジョンとの間で起きました。
2 ジョンが初めてメンバーに披露した
(1)ブライアンは不在だった
ビートルズのアルバムの中でも最もサイケデリックなアルバムである「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」と「Magical Mystery Tour」のレコーディング・セッションは、バンドがマネージャーのブライアン・エプスタインの悪化する薬物乱用に対処しようと奮闘する中で緊張感に満ちていました。
ブライアンはレコーディングのほとんどの過程に不在で、ビートルズはプロデューサーのマーティンとだけで仕事をする機会が増えました。いつものように、マーティンはバンドの作品に対する自分の意見を甘くするようなことはしませんでした。だから、ジョンが初めてバンドの前で「I Am The Walrus」を披露したとき、マーティンは自分の考えを率直に話すことに何の抵抗もなかったのです。
(2)ジョンが初めて披露した
ビートルズのレコーディング・エンジニアを務めていたジェフ・エメリックは次のように回想しています。「その日のセッションは全体的に陰鬱な雰囲気だった。私たちは皆、ブライアンのことを考えて気が散っていたのだ。しかし、レコーディングすべき曲もあった。それはジョンの曲の一つで、ある意味、これまでで最も奇妙な曲だったかもしれない。」
「『私が彼で、あなたが彼であるように / あなたが私で、私たちはみんな一緒』と、薄暗いスタジオの照明の中で私たち全員が彼の周りに集まる中、レノンはアコースティックギターをかき鳴らしながら、鈍い単調な声で歌った。誰もが当惑しているようだった」
「メロディーは主に二つのサウンドで構成され、歌詞はほとんど意味不明だった。なぜかジョンは『Walrus』と『Eggman』について歌っているように聴こえた。彼が歌い終えると一瞬の沈黙があり、それからレノンは期待を込めてジョージ・マーティンを見上げた」
3 マーティンは理解できなかった
(1)アコギのデモでは誰もわからない
「これは『I Am The Walrusってタイトルだ』とジョンは言った。それで…どう思う?」「ジョージは困惑した様子で言葉に詰まっていた。『ジョン、正直に言うと一つだけ質問がある。一体どうしたらいいと思っているんだ?』」
「その場には緊張した笑い声が響いて緊張はいくらか和らいだが、レノンは明らかに面白くなかった。率直に言って、ジョージの発言は的外れだと思った。私にとってビートルズはどこか迷っているようで、別の居場所、新たなスタートを探しているようだった。そして、その未完成の状態でさえ、その曲には可能性があると感じた。ジョンの作曲作品の中でも最高のものではなかったかもしれないが、彼の独特の声と私たちの創造力の組み合わせで、何か良いものになるだろうと確信していた」*1
(2)エメリックは可能性を感じた
ビートルズがやることにほとんど異議を唱えたことがなかったマーティンにしては珍しく拒絶反応を示しました。「Tomorrow Never Knows」はまだ薬物と東洋思想に影響を受けた作品だろうと理解できます。それと比べるとこれは、関係性がみつからない意味不明の歌詞が並び、シュールすぎてマーティンをもってしても理解できませんでした。
我々は、リリースされた完成品しか知りませんし、それが高く評価されていることも知っています。しかし、マーティンと同じ状況で聴かされたら「なんだこれは?これって音楽なのか?」と戸惑うのが普通でしょう。エメリックはレコーディング・エンジニアでしたが、彼はこの曲が持っている可能性に気づいたのです。マーティンは、ジョンがふざけているか、ブライアンの死や薬物の影響でまともに曲が書けなくなっていると思ったのかもしれません。
4 意味不明にするために書いた
この曲の奇抜な魅力の一つは、ジョンが意味不明な歌詞を詩としてではなく、単に意味不明にするために書いたという事実です。母校のクオリー・バンク男子高校の教室で生徒たちが彼の歌詞を分析していると知った後、彼はわざと解読不能な曲を書こうと考えました。「ピート(ショットン、ジョンの同級生)あのクソ野郎どもに解読させてやれ!」とジョンは言い放ちました。ジョンの曲をどう解釈していいか途方に暮れたのは、もちろんイギリスの男子生徒だけではありませんでした。
「ジョージ・マーティンは、音楽的内容の限界と(「I Am The Walrus」の)とんでもない歌詞をどうしても受け入れることができなかった」とエメリックは書いています。「彼はこの曲がまったく気に入らなかった。ジョンがポルノの女司祭と下着を下ろすという挑発的な歌詞を歌っているとき、ジョージは私のほうを向いて『今何て言ったの?』とささやいた。彼は自分の耳が信じられなかった。ビートルズが「Lucy in the Sky with Diamonds」「A Day in the Life」で経験したことを考えると、BBCによるさらなる検閲問題を心配していたのだろう」BBCは、この二曲を「薬物を連想させる」という理由で放送禁止処分にしました。また同じ目に遭うことをマーティンは恐れたのかもしれません。
5 レコーディングを開始した
(1)マーティンの不満を無視してレコーディングした
「ジョージの懸念にもかかわらず、ビートルズはその曲に取り組む決心を固め、ジョンが珍しくウーリッツァーのエレクトリックピアノで伴奏しながら、バックトラックを演奏し始めた」*2
午後7時から翌朝の午前1時までの6時間にわたって、バンドは、この曲のリズムトラックを16テイクレコーディングしました。最初の3テイクは、テープを巻き戻してテイク4を開始したときに上書きレコーディングされました。
(2)空虚な表情を浮かべたメンバー
「彼らが『I Am The Walrus』を演奏しているとき、彼ら全員の顔に浮かんだ空虚な表情を私ははっきりと覚えている。それは、ビートルズと過ごした時間の中で私が最も悲しい思い出の一つだ」*3
数多くの実験的な作品に取り組んできた彼らも、レコーディングを開始した時点ではこの曲が作品として成立するのか確信を持てなかったのです。この曲が作品として成立することにいつ頃になって確信を持てたのかはわかりません。ただ、マーティンのアレンジでできあがった時点で確信を持った可能性は高いと思います。通常の彼らのバンド編成による音源だけでは、あれほどシュールな傑作にはならなかったでしょう。
(3)B面に回された
ビートルズはこの曲をアルバム「Magical Mystery Tour」に収録したほか、ポールの「Hello, Goodbye」のシングルB面としてリリースしましたが、このことはビートルズが自身の実験的な音楽よりも商業志向の音楽を優先していることに対するジョンの不満を募らせる一因となりました。
当時はシングルがチャート1位を獲得することが重要で、そのためには一般のリスナーに受け入れられやすい曲がA面に選ばれる傾向にありました。その意味では「I Am The Walrus」は歌詞があまりにシュールだったため、失敗するかもしれないと慎重にならざるを得なかったという事情があったのです。A面にしていたらチャート1位を獲得できたかどうかはわかりません。
(参照文献)アメリカン・ソングライター、ポール・マッカートニー・プロジェクト
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*1:ジェフ・エメリック –「Here, There and Everywhere: My Life Recording the Music of The Beatles」より、2006年
*2:ジェフ・エメリック –「Here, There and Everywhere: My Life Recording the Music of The Beatles」より、2006年
*3:ジェフ・エメリック –「Here, There and Everywhere: My Life Recording the Music of The Beatles」より、2006年